「菩提道次第論」(ゲルグ派)
ダライ・ラマの宗派であるチベットのゲルグ派の修行道論の基礎が、ツォン・カパ(14-15C)が書いた「菩提道次第(大・小)論」です。
これは、先に紹介したシャーンティディーヴァの「入菩薩行論」や、インドから招かれたカマラシーラの「修習次第」(8C末)、アティーシャの「菩提道灯論」(11C)をもとにして考えられたものです。
チベットではこの系統の修行階梯を「ラムリム(道次第)」と呼びます。
ちなみに、般若学や唯識学の五道十地の修行階梯は「サラム」と呼びます。
また、階梯ではありませんが、菩提心を得るための瞑想体系を「ロジョン(心の訓練)」と呼びます。
「ラムリム」は、諸乗の姿勢・方法を階梯化して、大乗であることをしっかりと身に着けつつも、部派・般若学・唯識学の見道で行う、四諦を対象にした十六智の詳細すぎる方法を簡略化しようとしたものかもしれません。
アティーシャがチベットにもたらした修行の考え方は、「小乗(部派)仏教」→「大乗仏教」→「密教」を順に階梯化するものです。
「菩提道灯論」の階梯は、大乗仏教までです。
加行の後の本行は、大きくは、「小士の道の次第」→「中士の道の次第」→「大士の道の次第」という3段階からなります。
「小士(下士)の道」は、人天乗(解脱ではなく人や天に生まれるための教え)のことです。
「中士の道」は、声聞乗・縁覚乗、つまり小乗のことです。
「大士(上)の道」は、菩薩乗、つまり大乗のことです。
本当の大乗の本行である「六波羅蜜」は、「大士の道の次第」で行われます。
「三学」や「五道十地」の構造は、表面的にはありませんが、対応を無理に考えれば、「大士の道」の「四摂事」までが「戒」と「資糧道」、「止」が「定」、「観」が「慧」で、「加行道」はこれ以降でしょう。
具体的に見ていきましょう。
<道以前の基礎>
・聴聞の仕方:説法の聞き方
・説明の仕方:説法の仕方
・師への親近(師事作法):師の選び方・従い方
・修習の仕方:「六加行」を行う
「六加行」は「場所の清める」「供物を供える」「座法・帰依・発菩提心」「集合樹の観想」「七支分」「曼荼羅供養・師への祈願」から構成されます。
「集合樹の観想」は、仏・菩薩・師達が目の前の虚空にいると観想して帰依する。
「七支分」は「供養」「礼拝(帰依)」「懺悔」「随喜」「勧請」「祈願」「回向」から構成されます。
「入菩薩行論」を参照してください。
「曼荼羅供養・師への祈願」では曼荼羅を観想して捧げて、智慧を生じるようにしていただき、障害を取り除いていただけるようお願いします。
・有暇具足
仏教の修行ができる人間に生まれたことは稀でありがたいことだと考え、修行にもうという心を育みます。
・道において次第に導く:修行階梯である三士の道の次第の全体像を理解する
<小士と共通した道の次第>
・死と無常:人間は必ず死ぬ存在であり、諸行は無常であると考える
・三悪趣の苦:地獄・餓鬼・畜生に生まれ変わることの苦しみを考える
・三宝に帰依する:仏・法・僧に帰依
・業果を信じる:因果の法則を理解する
以上の「小士の道」は、三悪趣に関わる悪行から離れ、善趣を求める心を養うための考察・瞑想です。
<中士と共通した道の次第>
・解脱を希求する(滅諦)
・苦諦を思惟する
・集諦を思惟する
・解脱への道(道諦)
以上の「中士の道」は、善趣を含めた輪廻から離れる心を養うための考察・瞑想です。
一般に総称して「出離」と呼ばれます。
輪廻の苦を理解することが基本です。
四諦の考察によりますが、順は、「滅諦」→「苦諦」→「集諦」→「道諦」の順です。
<大士の道の次第>
・大乗に入る門:菩提心を基本として大乗に入ることを理解
・発菩提心:「因果の七秘訣」の瞑想、「自他交換」の瞑想
シャーンティディーヴァの「入菩薩行論」では「禅波羅蜜(止)」の修行内容だった「自他交換」の瞑想が、「発菩提心」で行われます。
「因果の七秘訣」はアティーシャが伝えたもので、「自他交換」の瞑想と並んで、菩提心を起こすための瞑想法として、チベットでは代表的なものです。
具体的には、
「すべての生き物は限りなく輪廻しているので、すべての生き物は自分の母だったこともあり、計り知れない恩を受けてきた」
「従って、すべての生き物に対して慈悲の心を生じさせ、苦から救い、仏の境地にまで導くために、修行の道に入ろう」
と瞑想します。
ちなみに、ゲルグ派では、この発菩提心の瞑想の前段階として、「心の訓練(ロジョン)」の瞑想を行う場合があります。
・菩提心の儀式
祈願と帰依の儀礼を行います。
他者を救うために仏になる決心の「発願心」と、その修行の道を最後まで歩む決心の「発趣心」を起こします。
・菩薩行を学ぶ
煩悩障と所知障をなくして仏になるためには、方便(布施・後得)と智慧(観)の両方が必要であることを理解します。
そして、六波羅蜜の修行が必要なことを理解します。
・六波羅蜜
本行としての六波羅蜜です。
シャーンティディーヴァの「入菩薩行論」の内容とほぼ同じです。
・四摂事
最後に、弟子を導く心がけを学ぶのが「四摂事」です。
「布施」:持ち物を与える
「愛語」:六波羅蜜を言葉を通して教える
「利行」:六波羅蜜を実際に身に付けさせる
「同事」:六波羅蜜を実践して示しながら共に学ぶ
以下、「六波羅蜜」の中の「禅波羅蜜(止)」と「智慧波羅蜜(観)」の詳細を説明します。
<止>
まず、「止」を収めてから「観」に進みますが、これは、部派仏教からの伝統です。
「近行定」まで達すると「観」が可能ですが、本当の「観」のためには、「安止定」が必要です。
つまり、「軽安(喜・楽)」や「一境性」を得る必要があります。
「止」の対象(業処)としては、下記が挙げられています。
部派仏教が挙げていた対象も含まれますが、独特な対象もあります。
>普遍的対象:無分別映像・有分別映像・事物の実相・所作成弁(目的=解脱・一切智…)
>対治のための対象:不浄・慈・縁起・界差別・呼吸
>習熟のための対象:五蘊・十八界・十二処・十二縁起・処非処(道理と非道理)
>煩悩浄化のための対象:上下の地の寂静・粗大、四諦の十六行相
ゲルグ派では、他に菩提心なども対象にします。
「止」には、「正念」「正知」が必要です。
ここで言われる「正念」は対象に集中すること、「正知」は集中が途切れて気が散っていないか見張りをすることです。
また、「止」について、5つの障害である「五蓋」、それらに対する対処法である「八断」、9つの段階である「九次第(九心)」、必要な6つの力である「六力」、九次第に関わる4つの方法である「四作為」が説かれます。
主要な障害と対処法は下記の通りです。
・心が沈み込む(ぼんやり・眠気):修行の福徳、有暇具足を考察して気を締める
・気が散る:無常や苦を考察して出離の気持ちを生じさせることで、心を落ち着かせる
「菩提道灯論」では「九次第」については詳細されませんが、紹介します。
1 心を対象に据える
2 さらに据え続ける
3 気が散った心を対象へ引き戻す
4 さらにすぐに引き戻す
5 沈み込みを直す
6 心を落ち着かせる
7 心を完全に安定させる
8 一点に集中し続ける
9 三昧に入る
<観>
「観」は「止」の状態から、「あるだけ(如量)」、そして「あるがまま(如実)」、を「尋伺(粗く・細かく)」で観察することとします。
上座部のように「止」と「観」を分けて考えずに、「止」に「観」が加えられます。
まず、「観」の瞑想の前に、対象とする教義を理論的に正しく理解します。
教学的には、中観帰謬論証派に沿った理解をします。
「観」の対象は、「入菩薩行論」でも説かれた「人無我」、「法無我」、「縁起」、「二諦(世俗諦と勝義諦)」などです。
人無我に関しては、人は「五蘊」のよって仮説されたものに過ぎないと理解します。
人に本質(自性)があるなら、それは五蘊と一体なのか別なのか?
それぞれどちらであったとしても成り立たないことを論理的に論証します。
つまり、帰謬法(背理法)による論証です。
これが中観帰謬論証派という名称の由来でしょう。
ちなみに、インド大乗仏教では「空」を直接、論証し、言葉で指し示すことができるとする「自律論証派」が優位でしたが、後期密教は帰謬論証派の立場を取りました。
そのためか、チベットでも帰謬論証派が優位となりました。
法無我に関しても、「五蘊」、「六界(地・水・風・火・極空・識)」、「六処」を対象します。
それらについても、それらは部分の集合に過ぎないので、本質を持つのなら、それは部分と全体が同じなのか別なのか、そのどちらでも成り立たないことを論証します。
このように、「正理知」といって、本質(自性)をつきつめて考えるうちに、それが否定され、まったく対象の存在しない無概念な認識に至ります。
対象を分析して観察することで、初めて、安定した「一境性」のある無概念の状態に至ります。
この認識を「虚空のような空性」と呼びます。
また、この瞑想を「無相ヨガ」と呼びます。
その後、対象性・概念のある認識に戻りますが、それが本質を持たないことを理解しています。
この認識を「幻のような空性」と呼びます。
「観」の対象としては、「縁起」や「二諦」、「空性」そのものも扱い、「空性」も本質を持たないと理解します。
般若学の五道の体系と比較すると、「虚空のような空性」は「等引智」、「幻のような空性」は「後得智」に当たります。
勝義諦・般若と、世俗諦・方便です。
「虚空のような空性」を得た時点が、「見道」の段階に当たるのではないでしょうか。
このようにして、「後得智」を得る分析的な「観」優位の止観と、「等引智」による無概念の「止」優位の止観を交互に等分に行い続けます。
「修道」の段階に当たるのでしょう。
やがて、分析をおこなっているうちに、意識的に行わずとも、自然に正しい法の認識が行われる清浄な「観」の状態になります。
この時、「止」と「観」が同時に行われる「止観双運」の状態になります。
「後得智」と「等引智」が一致するのでしょう。
「止観双運」は「無学道」の段階ではないでしょうか。
これは、先に紹介したシャーンティディーヴァの「入菩薩行論」や、インドから招かれたカマラシーラの「修習次第」(8C末)、アティーシャの「菩提道灯論」(11C)をもとにして考えられたものです。
チベットではこの系統の修行階梯を「ラムリム(道次第)」と呼びます。
ちなみに、般若学や唯識学の五道十地の修行階梯は「サラム」と呼びます。
また、階梯ではありませんが、菩提心を得るための瞑想体系を「ロジョン(心の訓練)」と呼びます。
「ラムリム」は、諸乗の姿勢・方法を階梯化して、大乗であることをしっかりと身に着けつつも、部派・般若学・唯識学の見道で行う、四諦を対象にした十六智の詳細すぎる方法を簡略化しようとしたものかもしれません。
アティーシャがチベットにもたらした修行の考え方は、「小乗(部派)仏教」→「大乗仏教」→「密教」を順に階梯化するものです。
「菩提道灯論」の階梯は、大乗仏教までです。
加行の後の本行は、大きくは、「小士の道の次第」→「中士の道の次第」→「大士の道の次第」という3段階からなります。
「小士(下士)の道」は、人天乗(解脱ではなく人や天に生まれるための教え)のことです。
「中士の道」は、声聞乗・縁覚乗、つまり小乗のことです。
「大士(上)の道」は、菩薩乗、つまり大乗のことです。
本当の大乗の本行である「六波羅蜜」は、「大士の道の次第」で行われます。
「三学」や「五道十地」の構造は、表面的にはありませんが、対応を無理に考えれば、「大士の道」の「四摂事」までが「戒」と「資糧道」、「止」が「定」、「観」が「慧」で、「加行道」はこれ以降でしょう。
具体的に見ていきましょう。
<道以前の基礎>
・聴聞の仕方:説法の聞き方
・説明の仕方:説法の仕方
・師への親近(師事作法):師の選び方・従い方
・修習の仕方:「六加行」を行う
「六加行」は「場所の清める」「供物を供える」「座法・帰依・発菩提心」「集合樹の観想」「七支分」「曼荼羅供養・師への祈願」から構成されます。
「集合樹の観想」は、仏・菩薩・師達が目の前の虚空にいると観想して帰依する。
「七支分」は「供養」「礼拝(帰依)」「懺悔」「随喜」「勧請」「祈願」「回向」から構成されます。
「入菩薩行論」を参照してください。
「曼荼羅供養・師への祈願」では曼荼羅を観想して捧げて、智慧を生じるようにしていただき、障害を取り除いていただけるようお願いします。
・有暇具足
仏教の修行ができる人間に生まれたことは稀でありがたいことだと考え、修行にもうという心を育みます。
・道において次第に導く:修行階梯である三士の道の次第の全体像を理解する
<小士と共通した道の次第>
・死と無常:人間は必ず死ぬ存在であり、諸行は無常であると考える
・三悪趣の苦:地獄・餓鬼・畜生に生まれ変わることの苦しみを考える
・三宝に帰依する:仏・法・僧に帰依
・業果を信じる:因果の法則を理解する
以上の「小士の道」は、三悪趣に関わる悪行から離れ、善趣を求める心を養うための考察・瞑想です。
<中士と共通した道の次第>
・解脱を希求する(滅諦)
・苦諦を思惟する
・集諦を思惟する
・解脱への道(道諦)
以上の「中士の道」は、善趣を含めた輪廻から離れる心を養うための考察・瞑想です。
一般に総称して「出離」と呼ばれます。
輪廻の苦を理解することが基本です。
四諦の考察によりますが、順は、「滅諦」→「苦諦」→「集諦」→「道諦」の順です。
<大士の道の次第>
・大乗に入る門:菩提心を基本として大乗に入ることを理解
・発菩提心:「因果の七秘訣」の瞑想、「自他交換」の瞑想
シャーンティディーヴァの「入菩薩行論」では「禅波羅蜜(止)」の修行内容だった「自他交換」の瞑想が、「発菩提心」で行われます。
「因果の七秘訣」はアティーシャが伝えたもので、「自他交換」の瞑想と並んで、菩提心を起こすための瞑想法として、チベットでは代表的なものです。
具体的には、
「すべての生き物は限りなく輪廻しているので、すべての生き物は自分の母だったこともあり、計り知れない恩を受けてきた」
「従って、すべての生き物に対して慈悲の心を生じさせ、苦から救い、仏の境地にまで導くために、修行の道に入ろう」
と瞑想します。
ちなみに、ゲルグ派では、この発菩提心の瞑想の前段階として、「心の訓練(ロジョン)」の瞑想を行う場合があります。
・菩提心の儀式
祈願と帰依の儀礼を行います。
他者を救うために仏になる決心の「発願心」と、その修行の道を最後まで歩む決心の「発趣心」を起こします。
・菩薩行を学ぶ
煩悩障と所知障をなくして仏になるためには、方便(布施・後得)と智慧(観)の両方が必要であることを理解します。
そして、六波羅蜜の修行が必要なことを理解します。
・六波羅蜜
本行としての六波羅蜜です。
シャーンティディーヴァの「入菩薩行論」の内容とほぼ同じです。
・四摂事
最後に、弟子を導く心がけを学ぶのが「四摂事」です。
「布施」:持ち物を与える
「愛語」:六波羅蜜を言葉を通して教える
「利行」:六波羅蜜を実際に身に付けさせる
「同事」:六波羅蜜を実践して示しながら共に学ぶ
以下、「六波羅蜜」の中の「禅波羅蜜(止)」と「智慧波羅蜜(観)」の詳細を説明します。
<止>
まず、「止」を収めてから「観」に進みますが、これは、部派仏教からの伝統です。
「近行定」まで達すると「観」が可能ですが、本当の「観」のためには、「安止定」が必要です。
つまり、「軽安(喜・楽)」や「一境性」を得る必要があります。
「止」の対象(業処)としては、下記が挙げられています。
部派仏教が挙げていた対象も含まれますが、独特な対象もあります。
>普遍的対象:無分別映像・有分別映像・事物の実相・所作成弁(目的=解脱・一切智…)
>対治のための対象:不浄・慈・縁起・界差別・呼吸
>習熟のための対象:五蘊・十八界・十二処・十二縁起・処非処(道理と非道理)
>煩悩浄化のための対象:上下の地の寂静・粗大、四諦の十六行相
ゲルグ派では、他に菩提心なども対象にします。
「止」には、「正念」「正知」が必要です。
ここで言われる「正念」は対象に集中すること、「正知」は集中が途切れて気が散っていないか見張りをすることです。
また、「止」について、5つの障害である「五蓋」、それらに対する対処法である「八断」、9つの段階である「九次第(九心)」、必要な6つの力である「六力」、九次第に関わる4つの方法である「四作為」が説かれます。
主要な障害と対処法は下記の通りです。
・心が沈み込む(ぼんやり・眠気):修行の福徳、有暇具足を考察して気を締める
・気が散る:無常や苦を考察して出離の気持ちを生じさせることで、心を落ち着かせる
「菩提道灯論」では「九次第」については詳細されませんが、紹介します。
1 心を対象に据える
2 さらに据え続ける
3 気が散った心を対象へ引き戻す
4 さらにすぐに引き戻す
5 沈み込みを直す
6 心を落ち着かせる
7 心を完全に安定させる
8 一点に集中し続ける
9 三昧に入る
<観>
「観」は「止」の状態から、「あるだけ(如量)」、そして「あるがまま(如実)」、を「尋伺(粗く・細かく)」で観察することとします。
上座部のように「止」と「観」を分けて考えずに、「止」に「観」が加えられます。
まず、「観」の瞑想の前に、対象とする教義を理論的に正しく理解します。
教学的には、中観帰謬論証派に沿った理解をします。
「観」の対象は、「入菩薩行論」でも説かれた「人無我」、「法無我」、「縁起」、「二諦(世俗諦と勝義諦)」などです。
人無我に関しては、人は「五蘊」のよって仮説されたものに過ぎないと理解します。
人に本質(自性)があるなら、それは五蘊と一体なのか別なのか?
それぞれどちらであったとしても成り立たないことを論理的に論証します。
つまり、帰謬法(背理法)による論証です。
これが中観帰謬論証派という名称の由来でしょう。
ちなみに、インド大乗仏教では「空」を直接、論証し、言葉で指し示すことができるとする「自律論証派」が優位でしたが、後期密教は帰謬論証派の立場を取りました。
そのためか、チベットでも帰謬論証派が優位となりました。
法無我に関しても、「五蘊」、「六界(地・水・風・火・極空・識)」、「六処」を対象します。
それらについても、それらは部分の集合に過ぎないので、本質を持つのなら、それは部分と全体が同じなのか別なのか、そのどちらでも成り立たないことを論証します。
このように、「正理知」といって、本質(自性)をつきつめて考えるうちに、それが否定され、まったく対象の存在しない無概念な認識に至ります。
対象を分析して観察することで、初めて、安定した「一境性」のある無概念の状態に至ります。
この認識を「虚空のような空性」と呼びます。
また、この瞑想を「無相ヨガ」と呼びます。
その後、対象性・概念のある認識に戻りますが、それが本質を持たないことを理解しています。
この認識を「幻のような空性」と呼びます。
「観」の対象としては、「縁起」や「二諦」、「空性」そのものも扱い、「空性」も本質を持たないと理解します。
般若学の五道の体系と比較すると、「虚空のような空性」は「等引智」、「幻のような空性」は「後得智」に当たります。
勝義諦・般若と、世俗諦・方便です。
「虚空のような空性」を得た時点が、「見道」の段階に当たるのではないでしょうか。
このようにして、「後得智」を得る分析的な「観」優位の止観と、「等引智」による無概念の「止」優位の止観を交互に等分に行い続けます。
「修道」の段階に当たるのでしょう。
やがて、分析をおこなっているうちに、意識的に行わずとも、自然に正しい法の認識が行われる清浄な「観」の状態になります。
この時、「止」と「観」が同時に行われる「止観双運」の状態になります。
「後得智」と「等引智」が一致するのでしょう。
「止観双運」は「無学道」の段階ではないでしょうか。