「入菩薩行論」(中観派) | 仏教の瞑想法と修行体系

「入菩薩行論」(中観派)

インド中観派の帰謬論証派のシャーンティディーヴァが8Cに書いた「入菩薩行論」は、菩薩乗としての大乗仏教の修行道論の基本的な論書です。
チベットではすべての宗派が「入菩薩行論」をたいへん重視しています。
ダライ・ラマが亡命した時に唯一手にしていた一冊であったとも言われています。

「入菩薩行論」は体系的に説かれたものではありませんが、チベットの解釈によってその階梯を紹介します。

階梯は、基本的には「七止分」と呼ばれる「前行」と、「六波羅蜜」を修する「本行」からなります。
「三学」や「五道十地」の構造は表面的にはありません。
対応を無理に考えれば、「前行」から「本行」の「精進波羅蜜」までが「戒」と「資糧道」。 
「禅波羅蜜」が「定」、「智慧波羅蜜」が「慧」で、「加行道」はこれ以降でしょう。

「前行」は「戒」以前の段階で、有神論的な側面が強い修行で、大乗仏教の特徴の一つです。
「本行」では、「禅波羅蜜(止)」に当たる「自他平等」、「自他交換」の瞑想と、中観派の「空」に関する教学に沿った「智慧波羅蜜(観)」が特徴です。
「止」、「観」の細かい、あるいは総合的な説明はありません。

以下、順に見ていきましょう。


まず、最初は「菩提心」です。
「有暇具足(仏教の修行ができる人間に生まれたこと)」をありがたく思い、「菩提心」を起こします(発菩提心)。
「菩提心」は、他者を救うために仏になる決心の「発願心」と、その修行の道を最後まで歩む決心の「発趣心」からなります。
「菩提心」の功徳によって福徳が生じるとされます。

次が「七止分」と呼ばれる「前行」です。
これによって功徳の増大と罪障の浄化を行います。

1 「供養」
:花など現実の品物を捧げる、観想によって品物を捧げる、観想によって自分の体を捧げる、観想によって仏の体を洗う、などの供養を行う
2 「礼拝(帰依)」:諸仏・菩薩・法・仏塔・師などに礼拝し帰依する
3 「懺悔」:諸仏・菩薩に犯したすべての罪を懺悔し、今後は行わないと誓う
4 「随喜」
:生き物が善業を為し、三悪趣の苦しみから離れることを喜び、仏や菩薩・仏弟子が行う菩薩行を喜ぶ
5 「勧請」:諸仏が人々に説法することを願う
6 「祈願」:諸仏がいつまでもこの世にとどまって人々を救うことを願う
7 「回向」:自分の善業の功徳を、すべての他人の苦を除くために振り向ける

以上七つに「心の訓練」と「菩薩戒」を受ける決心が付け加わります。
「入菩薩行論」では「心の訓練」はシンプルですが、その後、複雑な体系に発展します。

8 「心の訓練」:自分のすべての財産、体、善根をすべての生き物のために与えると望み、宣言する
9 「菩薩戒」:菩薩戒を受けると決心し、菩提心を得たと考えて喜ぶ


次が「本行」である「六波羅蜜」です。

1 「布施波羅蜜」

すべてのものを人に与えようという心を得ることが「布施波羅蜜」です。

2 「戒波羅蜜」

殺そうなどという気持ちを捨て去った心を得ることが「戒波羅蜜」です。

以上の「布施波羅蜜」、「戒波羅蜜」では、菩提心を常に忘れず、「憶念(守るべきものと捨てるべきものを覚えている)」と「正知(常に自分に気づいて心にとめている)」が重要とされます。
部派仏教では「止」の修行のグループに属する「正念正知」ですが、これが「布施」や「戒」のグループに属すとしている点が特徴的です。

また、体への執着をなくす必要があるので、体が不浄であると考察し、体を骨に分解して実体がないことを考察します。
これも部派仏教では「止」の瞑想に属するとされる瞑想法です。

「戒」を行動ではなく、心の問題として捉えることは大乗的な戒の本質です。
そのため、「戒」が「止観」に近い側面を持つことになるのでしょう。

3 「忍辱波羅蜜」

怒りを抑えるのが「戒波羅蜜」です。
具体的には下記のように考えて怒りを抑えます。

・害を受けた時は、害を与える者は様々な環境の影響を受けていて、自由がないのだと思う
・害を受けた時は、自分に業(原因)があるからだと思う
・害を受けた時は、害を与える敵は、自分に修行を与えてくれているのだから仏同様の存在だと思う

4 「精進波羅蜜」

修行や善行を喜ぶことが「精進波羅蜜」です。
惰性、悪しき行いへの執着、落胆などを避けて、仏法、修行、善行を信じて喜ぶことで、その道を良く進みます。

5 「禅波羅蜜」

菩提心を起こすための「止」の瞑想法として、「自他平等」と「自他交換」の瞑想を行います。

「自他平等」の瞑想は、「自他すべての生き物は苦を望まないという点で平等である」などと考察します。
チベットでは、さらに他人の方が自分より数が多いので、他人の方が重要であると考察します。

「自他交換」の瞑想は、自分と他人を置き換えることで、利己的な心を利他的な心に変える瞑想法です。
具体的には、
「楽は他人に楽を望むことで生じる」
「苦は自分の楽を望むことで生じる」
「自分と他人を置き換え、楽を他人に与え、苦を自分が引き受けるべきである」
と考察します。

6 「智慧波羅蜜」

中観派の「空」の教学に沿って、下記のように「観」の瞑想を行います。

概念的二元的な思考による「世俗諦」は普通の人の認識の対象であるが、概念のない直観的な「勝義諦」が ヨガ行者(中観派)の認識の対象である。

すべての存在は実体ではなく、幻のようなものであると考察して、経量部などの実有論を避ける(法無我)。
心(識)もまた同じだと考察して、唯識派の唯心論を避ける(人無我)。

体のどの部分も、六識(感覚や意識)も自分ではないと考察して、人無我を悟る。
「四念処(体、感覚、心、法には実体がない)」の瞑想によって法無我を悟る。

自性にも無自性に捉われないことによって、有を避け、無を避ける(中観)。
事物は原因があって生まれるの(縁起)であるから、空である。

所知障を体治して一切智を得て仏になるために法無我(空性)を悟ことが必要である。
空性の認識によって慈悲の心を生み、功徳を積みます。

以上で「本行」が終わりです。


最後に「回向」について述べられます。

修行を自分のために行うとすると、菩薩の道から外れるため、自分の修行の福徳がすべての生き物に振り向けられて、彼らも菩薩の道を歩むように祈願します。
「回向」は修行の最後の段階ではなく、毎回、修行の最後に行うものでしょう。

具体的には、「一時的な楽のために」、「究極的な楽のために」、「苦全般をはくすために」、「地獄・畜生・餓鬼の苦をなくすために」、「三善趣の苦をなくすために」、「様々な苦がないために」、「正しい道に入るために」、「出家者のために」、「あらゆる生き物のために」、「菩薩・仏・声聞・独覚のために」、「自分自身のために」、「菩薩行に住することができるために」などを考えて回向します。