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2016-08-18 22:15:00

はじめに(目次)

テーマ:最初に(目次)
瞑想法を中心に体系化された世界各地の仏教の修行法について概説するのが本ブログのテーマです。

本来、仏教は瞑想修行の宗教です。
瞑想修行法を知ることで、初めて仏教がどのような思想であるのかが理解できると思います。
それも、個別の瞑想法ではなく、阿羅漢や仏に至るまでの体系立てられたプロセスを理解することが重要です。

日本には精密に体系立てられた瞑想法・修行法がほとんどありません。
そのため、精密な修行体系が存在するということも想像できないと思います。
ですから、インドや東南アジア、チベットの仏教の瞑想体系を知ると、驚愕せずにはいられないでしょう。

ただ、このブログは、一筋に通った体系性を求めているのではありません。
それでは、釈迦の「対機説法」の正反対の方法になってしまいます。
むしろ、たくさんの体系を並べて勉強することで、それに捕らわれず、自由に選択、利用できるように、ということを目指しています。


一般の日本人は、仏教の修行法と言えば、「無念無想」になるとか、「苦行」をするといったことをイメージすると思います。
しかし、これらは、仏教の修行にとっては本質的ではありませんし、むしろ積極的に否定される方が多いのです。
例えば、瞑想法と言っても次のように極めて多様です。

まず、日常生活の最中に行う瞑想もあれば、日常と区別された瞑想の時間をとって行うものがあります。
座って行う瞑想(座禅)もあれば、歩きながらとか、特殊な姿勢や動きの中で行うものもあります。
特定の呼吸法を伴なう瞑想もあれば、ないものもあります。
開眼で行う瞑想もあれば、閉眼で行うものもあります(一般に、部派・密教では閉眼が多く、大乗・ゾクチェンでは開眼が多いようです)。
無言で行う瞑想もあれば、発話しながら行うものもあります。

思考なしの瞑想もあれば、思考しながらの瞑想もあります。
イメージなしの瞑想もあれば、イメージを描きながらのもの(観想)もあります。
対象を固定した瞑想もあれば、固定しないもの、対象を持たないものもあります。
教理に沿って行う瞑想もあれば、そうでないものもあります。
気(プラーナ)をコントロールして身体を止滅させたり、逆に活性化する瞑想もあります。
一切の作為なしの瞑想や、自覚するだけの瞑想もあります。


本ブログでは、原始仏典に書かれた初期の修行体系から、部派仏教や現在の上座部系の諸派、大乗仏教や密教、マハームドラーやゾクチェン、さらに中国仏教や日本の禅の修行体系までを概説します。

主に、各派の修行体系を、代表的な経典や論書を中心にして説明します。
各派の共通性や違いについて、歴史的な変遷については、本質を押さえて、おおざっぱに捉えます。
修行法は思想と密接な関係があるため、修行法の背景になっている教義・思想の本質についても触れます。


* 当ブログは、特定の宗派・流派にこだわらずに、仏教の様々な瞑想法を勉強することを目的にしています。欧米では、上座部系のヴィパッサナー瞑想と、チベット系のゾクチェンなどの瞑想、東アジアの禅を同時に学ぶ人も増えています。日本でもそのような状況が生まれることを期待しています。

* 原始仏典や、上座部の瞑想法こそが釈迦の瞑想法であり他はダメだと言う人がいますが、それを信仰としては否定いたしません。ただ、当サイトはそのような思い込みとは無縁です。釈迦の思想が何であるかについてはあまり興味はなく、釈迦の思想こそが重要だとも思っていません。仏教が多様な思想や瞑想法を生み出してきたことをありがたく思い、自由な立場から、各人にとって意味ある思想や瞑想法を探究することが重要だと思っています。

* 当ブログの内容は、瞑想の実践的なガイドではなく、基礎知識を提供するものです。当ブログの作者は、仏教の専門家でも、瞑想の師でもなく、単に、幅広く様々なものに興味を持っている人間です。

* 当サイトの記事をもとに瞑想を独習して、どのような結果になっても一切責任は負えません。実習は専門書や専門の師の指導の元に行うことをおすすめいたします。ただ、内容についてのご批判には真摯に対応します。

* 仏教以外の瞑想法に関しては、姉妹サイトの世界の瞑想法を、瞑想法とは似て非なる心のコントロール法である夢見の技術に関しては、姉妹サイトの夢見の技術を、ご参照ください。


==目次==

■概論

対機説法から体系化へ
三学と止観
止(サマタ)
観(ヴィパッサナー)
修行階梯と位階
部派仏教・上座部仏教の修行と思想
大乗顕教(菩薩乗)の修行と思想
密教(金剛乗)の修行と思想
ゾクチェン・マハームドラー(任運乗)の修行と思想

■原始仏教・初期仏教
最古層経典(「スッタニパータ4・5章」)
「サティパッターナスッタ(大念処経)」
「アーナーパーナサティスッタ(安般念経)」
「沙門果経」

■上座部仏教・部派仏教
「清浄道論」(上座部):概論
「清浄道論」(上座部):止(総論)
「清浄道論」(上座部):止(各論)
「清浄道論」(上座部):観(総論)
「清浄道論」(上座部):観(各論1)
「清浄道論」(上座部):観(各論2)
パオ流:止1(ミャンマー現代上座部)
パオ流:止2(ミャンマー現代上座部)
パオ流:観(ミャンマー現代上座部)
マハーシ流(ミャンマー現代上座部系)
ゴエンカ流(インド・現代上座部系)
「倶舎論」(説一切有部系):総論
「倶舎論」(説一切有部系):各論

■大乗仏教(菩薩乗)
「現観荘厳論」(中観派)
「成唯識論」(唯識派):総論
「成唯識論」(唯識派):各論
「入菩薩行論」(中観派)
「菩薩道次第略論」(チベット・ゲルグ派)
「八座からなる心の訓練(ロジョン)」(チベット)

■後期密教(金剛乗)
後期密教の修行階梯(概論)
四前行(チベット・ゲルグ派)
生起次第の背景思想
秘密集会 聖者流 生起次第(父タントラ)
究竟次第の背景思想
秘密集会 聖者流 究竟次第(父タントラ)
チャンダリーの火(母タントラ)
カーラチャクラ・タントラ 究竟次第(不二タントラ)
後期密教の貪欲行

■ゾクチェン/マハームドラー(任運乗)
マハームドラー
テクチュー(ゾクチェン)
トゥゲル(ゾクチェン)

■中国仏教/禅宗
「天台小止観」(中国天台宗)
「摩訶止観」(中国天台宗)
達磨の「二入四行論」(中国禅宗)
白隠の公案禅の階梯:階梯(日本臨済宗)
白隠の公案禅の階梯:公案(日本臨済宗)

■コラム
欧米の新仏教
心理療法と仏教
只管打座と他のメソッドとの違い
上座部受容の貧しさと、知識の欠落
上座部とミックスメソッド:主体の問題
上座部とミックスメソッド:具体的なメソッド
現世肯定の仏教へ
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2016-08-16 20:37:20

現世肯定の仏教へ

テーマ:コラム
当サイトは、仏教の様々な瞑想法を自由に学ぼうと書いています。
ですが、各派の瞑想法・瞑想体系の間には、その思想の違い、目指す目標の違いがあって、それを無視することはできません。

今回は、思い切って、私の仏教に関する思想的な見解を、批判を含めて、各宗派の違いを含めて、書かせていただきます。
分かりやすく、「現世否定/肯定」という観点に絞ります。

このようなサイトを作っているのは、当然、仏教に対して興味やリスペクトがあるからです。
しかし、あくまでも、自由な立場から、客観的に距離を保って評価します。

もちろん、私は凡夫であって、解脱した智を持たない者として考えていることですし、もし、仏教徒であれば、三帰依戒に抵触するということも理解しています。



<現世否定ではなく現世肯定>

仏教は、時代や宗派によって多様ですが、仏教の問題点を一言で表現すれば、「現世否定」ということだと思っています。
ここに仏教の特徴の核心があり、評価れるべき点でもありますが、同時に、批判されるべき点でもあると考えています。


私は、当ブログで「欧米新仏教」と呼ぶ、近年の欧米での新しい仏教の潮流を評価しています。
その特徴は、超宗派・超宗教的で瞑想中心ということですが、もう一つの重要な特徴は、「現世肯定」的だという点です。

例えば、ヴィパッサナー瞑想を主導する欧米人の多くが、上座部の思想が「現世否定」的であることを理由に、上座部に属することを拒否しています(在家を選ぶということではなく)。
このような判断は、よく理解できます。

欧米の「マインドフルネス」ムーヴメントの中には、心理療法やビジネス利用などの実利的なものから、仏教の本来の現世否定的なものまで、様々なグラデーションが存在します。


伝統的な仏教に関して、総じて言えば、初期仏教、上座部仏教は「現世否定」の側面が強く、大乗仏教ではやや緩和され、後期密教やゾクチェン、禅宗ではその傾向が少なくなっていると思います。
当ブログが、後期密教やゾクチェンを評価するのは、仏教を「現世肯定」的に解釈してきたからですが、それでも十分だとは思えません。

もう少し細かく言えば、釈迦の思想に近いと推測できる原始仏典の「最古層経典」は、「古層経典」以降の「原始仏典」や、部派仏教に比較すれば、「現世否定」の側面が少ないと思います。

また、現代の上座部の中でも、ミャンマーやスリランカは「現世否定」の傾向が強く、タイはその傾向が弱いでしょう。

大乗仏教でも、インド仏教より、中国・日本仏教や禅宗の方が「現世肯定」的です。

これは仏教だけの話ではなくて、時代としての傾向もあります。

例えば、チベットのニンマ派の教判では、部派仏教を「止滅の道」とするのに対して、紀元後に生まれた大乗(菩薩乗)を「浄化の道」、中世に生まれた密教(金剛乗)を「変容の道」、ゾクチェン(任運乗)を「自己解脱の道」とします。
後者ほど、「現世肯定」的です。

ヒンドゥー系の思想でも、タントラ以前の方法を「止滅の道(ニヴリッティ・マールガ)」と表現します。
サーンキア派やヴェーダーンタ派などの古典バラモン哲学もこれに当たります。
その後、紀元後のヒンドゥー教の誕生、中世のタントラの誕生と、時代を経るごとに「現世肯定」的になります。
バクティ・ヨガは、ニンマ派が言う「浄化の道」と言っても良いでしょう。
タントラは、「増進の道(プラヴリッティ・マールガ)」と表現され、これは「変容の道」に相当します。
また、現代の聖者ラマナ・マハリシが「サハジャ」と言い、ニサルガダッタ・マハラジが「ニサルガ」と言う思想は、「自己解脱の道」に近いと思います。

このように、仏教、ヒンドゥー教の違いを越えて、時代を減るごとに、同時期に、より現世肯定的な思想が生まれてきました。

・止滅の道   : 部派仏教 - 古典ヨガ
・浄化の道   : 大乗   - バクティ・ヨガ
・変容の道   : 金剛乗  - タントラ・ヨガ
・自己解脱の道 : 任運乗  - サハジャ・ヨガ、ニサルガ・ヨガ



<現実肯定・現世利益ではなく創造の自由>

仏教が「現世否定」的であるというのは、具体的には、次のような点です。

・最終的には心身の止滅である涅槃(解脱)を目指すものであり、生物としての人間を否定する
・出家は、人間の社会性を否定し、生産行為を行わずに経済的な自立を否定する
・概念やイメージという人間が持つ基本的な精神の機能の価値を否定的に捉える

普通に考えれば、このような思想は、生きることからの逃避、本当の自由の放棄、生物としての狂気、と言われても当然でしょう。

仏教は、身心における、そして、社会的活動における、概念的活動における、「創造」行為を評価しない傾向があります。
仏教は「苦」から出発するため、「放棄」することを考え、「創造」する「自由」や「喜び」を追求しません。


世界史的に見れば、「現世否定」の思想は、抑圧的な王国や帝国の権力下で、その価値観を否定する形で生まれる傾向があります。
例えば、ローマ帝国の支配下で生まれたグノーシス主義などです。

古代インドで生まれた仏教思想は、当時の市場経済がもたらす「自由」と、複数の王国・帝国の権力に対する「否定」の狭間で成長した思想だと思っています。


私は、「現世否定」という点で、仏教が基本的に不十分な思想、仏教的に言えば「未了義」な思想であると思っています。

仏教では、従来の教説を「未了義」として、新たにより包括的な立場(了義)から再解釈することで、新しく思想を生み出してきました。
北伝仏教の歴史は、「現世否定」をいかに乗り越えるかという試みの歴史、という側面があったと思います。


しかし、否定すべきものはしっかり否定すべきと考えています。
例えば、中国・日本仏教、禅宗の「現実肯定」的傾向や、初期密教の「現世利益」的傾向は、評価できません。

「現世肯定」は、「現実肯定」、「現世利益」とは異なります、というか、別のものとして扱います。

私は、煩悩のある状態をそのまま肯定する「天台本覚思想」や、現象を実在とする「天台実相論」、そしてそれらに類する思想は、評価することはできません。
これらは、「現実肯定」の思想だからです。
限界づけられた、不自由な現実を、認めてはいけないと考えます。

「現世利益」も、「現実肯定」の一種です。

「現世利益」は、「自我」に基づく欲望を肯定する立場です。
初期密教に代表される、「現世利益」的思想は評価できません。

また、欧米の「マインドフルネス」の目的が、心理療法として治療そのものや、ビジネス上の実利性そのものに限定されるなら、やはり「現世利益」的な思想であって、評価できません。
社会の常識的な価値観を否定するものではないからです。


「現実肯定」や「現世利益」が肯定する「現実(現象)」や「自我」、「煩悩」は、自然なもの、自由なものではなくて、社会的、経済的に形作られ、限定されたものです。

社会や経済の体制が人に強いる、特定の価値観や常識、執着は否定しなければいけません。
しかし、それを、心身の「放棄」を目指す「現世否定」ではなく、「創造」の自由を目指す「現世肯定」の立場で探求することができます。

仏教は、「苦」の原因を、心理的、認識論的に分析しましたが、社会や経済の側面から、それがどう限界づけられているかの分析しませんでした。
創造の自由を目指すには、そういった観点が必要になります。
それが、仏教思想の弱点でしょう。

つまり、「現世肯定」は、「現世否定」、「現世利益」、「現実肯定」を否定した「自由」として探究すべきものであって、それは、「社会的・経済的」な「自由」、「創造」と一体です。

具体的には、例えば、家族を持ち、社会の中で生産活動を行いながらも、自由な人間関係を作りし、言葉やイメージを創造的に使い、社会的に要請された利己的な欲望に制限されることなく、自然な欲望の創造を肯定するような立場です。



<諸派の思想展開>

初期仏教は、後天的な無明に基づく欲望をなくすだけではなく、先天的な欲望をも止滅するように導きます。
しかし、後天的な束縛、分別による無明をなくしつつも、欲望を自由に変化するままに任せて、それが、止滅に向かうなら、それも良し、違う形の創造に向かうなら、それも良し、という立場もあります。


こういった方向に向かう中で、「現世肯定」の思想を最初に主張したのは、初期大乗仏教の経典で、在家の中の悟りを目指した「維摩経」かもしれません。

この経典は、在家の維摩居子が中心的な説法者となって、「在家にいながら三界に執着なく」、「慈悲行は日常の中でこそ行う」、「煩悩を断じずに涅槃に入るのが本当の三昧であり釈迦の教え」、「生死のうちにあって汚れた行いをせず、涅槃のうちに住しながら永遠に消滅してしまわない」と説きます。
ただ、ほとんど禅問答のようで、論理的にはよく理解できないところもあります。


その後、「般若経」の流れにある「理趣経」が、「一切法清浄」、「一切法無戯論性」と表明しました。
つまり、愛欲などの煩悩(三毒)とされる感情も、分別を伴わない状態ならば清浄なものであると主張しました。
アビダルマでは、三毒(貪瞋痴)があれば「不善心」であり、「清浄」ではなく、そこに分別の有無は関係ありません。

これを受けて、後期密教は、怒りや愛欲の感情を「止滅」させずに、それを無分別で主客のないエネルギーに「変容」させることで、悟りを目指す修行方法を編み出しました。

ちなみに、後期密教を担った主役は、寺院を出た遊行の修行者です。


また、当ブログが「任運乗」と分類しているゾクチェンや禅宗の一部の仏教思想は、「あるがまま」や「無努力」を主張します。
と言っても、「あるがまま」は「煩悩」をそのまま肯定するのではなく、「無努力」は「修行否定」でもありません。

ゾクチェン伝えるニンマ派も、本来、在家あるいは遊行の修行者です。

ゾクチェンの「自己解脱の道」は、感情や思考などを、顕教のように「放棄」、「止滅」させることも、密教のように「変容」させることもなく、現れるやいなや、作為なしに解放して「自然」に任せます。

「自己解脱の道」では、もはや、煩悩をなくすことは重要ではなくなり、常に自覚することで、それが現れないようにします。
といっても、現われを止めるのではなく、現れるやいなや、それを自然に解脱させる、つまり、限界なしに創造的にします。

そして、重要なのは、社会生活も、概念的な思考も否定しないことです。
日常生活の中でも、業の結果で生まれた分別を、即座に自然に清らかな状態に解放させる、その状態を持続させることを目指します。
これは、アビダルマの「唯作心」とは異なります。

禅宗は、論理的にその思想を説かないし、一人一宗のような多様性があるので、括りで説きづらいのですが、唐代の禅の、馬祖の「作用即性」、「日用即妙用」、「平常心是道」と表現される思想も、生活の中の悟りを重視する思想です。
これを受けた無住や臨済が、「活溌溌地」と直感的に表現するのは、ゾクチェンの「自己解脱」に近い思想なのかもしれません。



<認識ではなく創造>

仏教は、「心」を、主に「認識」という側面から考えてきたので、「正しい」か「間違っている」かが問題になります。
しかし、もし、「存在」、あるいは「創造」という側面で考えると、「自由」か「不自由(制限されている)」かが問題になります。

「間違った認識」を「正しい認識」にするだけでは、「自由」は得られません。
概念やイメージなどの認識の反応「放棄」しても、「創造」がなければ、「自由」はありません。

正しいかどうかという観点のない状態でこそ、行為は「創造的」になります。
治療を行う医師の立場と、創造を行う芸術家の立場は異なります。

心を「認識」と「正しさ」ではなく、「創造」と「自由」から考えることが、「現世肯定」的思想に必要なことだと思います。


「現世否定」と「現世肯定」の違いを考えましょう。
例えば、「(諸行)無常」という仏教の哲学的概念、命題に対する解釈と実践の違いについてです。

「法有」の「現世否定」の立場で考えると、部派仏教のように、「形あるもの(形の決まったもの)」が「滅する」ことを重視し、それを「認識」することで、執着をなくすことを目指します。
上座部は、「観」の瞑想で、「自性」を持つ諸行の無常なる「共相」、つまり共通の属性としての「無常」の観察を行います。
得られるのは、「形」あるもの全体への否定的姿勢と、現世的なものへの無関心(捨)です。

これと反対に、「法無我」の「現世肯定」の立場で考えると、後期密教やゾクチェンのように、「形(形が決まっていない新しい形)」が常に「生まれ続ける」ことを重視し、それを「体験」することで、執着をなくすことを目指します。
作為のない「観」的な瞑想で、「真如相」、つまり「無自性」である多様性を体験します。
得られるのは、制限のない「形」の生成・変化を肯定する姿勢と、現世的なものへの一定の関心です。

このように、「三法印(三相)」のような命題を共有しても、世界に対する態度を180度反対にして解釈することができます。



<瞑想における創造>

次に、瞑想における、心の「認識」と「創造」の違いについて考えてみましょう。

例えば、仏教は「今」の体験に対する気づき、正しい認識や今になりきることを重視します。
ヴィパッサナー瞑想もそうですし、禅もそうです。

上座部、その他のいくつもの宗派では、感覚で反応を止めて、イメージ、思考、感情などを起こさないようにします。

でも、習慣化された反応をせずに、一回限りの創造的反応をすることも、難しいけれども、できます。

また、人は「ボーっ」と物思いにふけって、気になること、過去や未来のことなどに思いを巡らせる中で、新しい発想を得ることがあります。
意識や思考を「今」の現実に縛り付けずに、自由に連想して、雑念に気を散らせることで、様々に創造的なアイディアを生み出すのです。



唯識派は、すべてが「識」であると言い、止観の対象も「識」であるとしました。
唯識派に限らずですが、大乗の唯心的は発想は、結果的に、「心」を「認識」と見る観点から、「存在(創造)」と見る観点へと変化するきっかけになったと思います。

密教の「観想」は、表象を能動的に生滅させることなどに重点があって、従来の瞑想法よりも少し創造的な作業であると思います。

後期密教における「忿怒尊」や「歓喜尊」は、力動的な創造運動を象徴し、それを導くことで、制限された煩悩を乗り越えようとします。
それゆえに、「認識」よりも「創造」としての自由を表現します。

やがて、この「観想」は、意識的に制御するものから、自然に「創造」される状態に発展していきます。
マハームドラーやゾクチェンなどの「任運乗」の思想に向けて。

まず、後期密教の本尊ヨガの観想では、イメージは、意識的に想像する「サンマヤ・サッタ」から始め、それを自然に創造され、自然に動く「ジュニャーナ・サッタ」に変えます。

マハームドラーでは、自然に煩悩によらないイメージが生成される到達段階を表現します。

また、ニンマ派の言う「アヌ・ヨガ」は、最初から観想するイメージの形象性を制御しません。

ただ、密教やマハームドラーは、言葉やイメージに関して肯定的ではありますが、創造の原型としての、諸尊や種子の形象に依存します。
しかし、ゾクチェンや「アティ・ヨガ」は、そのような原型的な形象への依存からも自由です。

ゾクチェンでは、言葉やイメージは、「無自性」なものとして、自然に変化していきます。
ここに至って、仏教思想は、過去最大に「創造」としての自由を獲得したと思います。



<哲学的教義における創造>

次に、教義の哲学的な側面で、心の「認識」と「創造」の問題を考えてみましょう。

大乗仏教以降の「法身」や「空性」という概念は、「認識」と「存在」の両面が一体化した概念です。
例えば、「法身」は、真理の「認識」としての「智法身」という側面と、「真理」そのものという「存在」として「理法身」に分けられることもあります。

後期密教やゾクチェンは、この「法身」=「空性」に、これが「存在の母体」であり「創造力に満ちた」という性質を付け加えます。

例えば、ヒンドゥー・タントラのカシミール・シヴァ派は、世界創造はシヴァ神の「遊戯」であり「舞踏」であると言います。
イスラム哲学者の最高峰、イブン・アラビーは、神の自己顕現は繰り返すことがなく、世界のダイナミズムは「瞬間ごとにおける創造の更新」だと考えました。

ゾクチェンは、同じことを、無神論的に、宇宙の創造的な「エネルギーの戯れ」であると表現します。
ゾクチェンの思想は「自己解脱」と表現されますが、これは、単に心が自然に止滅するということではなくて、心が常に創造され、創造された心を制限することなく、自由に解き放つよう(自性を持たないものを自性がないまま)にすることでしょう。

これらは、「絶対自由」としての「現世肯定」の思想の表現であると思います。

そして、ゾクチェンでは、この「エネルギーの創造の戯れ」を、「慈悲」とも、「智慧」とも表現します。

梵天に促されて釈迦が説法を始めたことに由来する「慈悲」という概念は、ゾクチェンにおいては、心の根源における「遊戯」としての瞬間ごとの「創造」、「舞踏」と一体のものとなりました。
そして、「智慧」は「認識」を超えて、「創造」になりました。

仏教の歴史の中で、後期密教やゾクチェンが行った思想の創造の意味は、旧来の仏教が持つ「絶対否定」の思想を前提にしながらも、それを反転して、より古くからある「絶対肯定」の思想とつなげることだったのではないかと、評価しています。


何度も書きますが、本当の仏説が何かにこだわるような議論は、無意味だと思います。
それは、「信」の道を歩む者だけが、信じればいいのです。

このような「現世肯定」の思想は、釈迦より古いシャーマン的な「智慧の道」、あるいは、狩猟文化の豊饒宗教に由来するものかもしれません。
姉妹サイトの「夢見の技術」で紹介している方法や思想も、そのような思想に基づいていると思っています。
イメージや概念を、直感や直観レベルから自然に育てる思想と技術です。



<新しい仏教>

無我や空の思想の基づいて、利己的な執着なしに、社会生活の中で、創造的に概念的思考も行いながら生きる…、21世紀の仏教に求められているのは、そのような道であると思っています。

先に書いたように、最近の欧米の仏教(瞑想)の需要の状況には、「マインドフルネス」ブームに見られるように、心理療法(鬱病治療)やビジネス・リーダーシップ研修などのような、現世肯定的なものがあります。
それは、ともすれば、既存の社会的な価値観を肯定するだけのものになりがちですが、同時に、それを相対化して、本当の自由、新しい価値創造に向かう流れもあります。

例えば、ミャンマーの上座部で出家して修業した後、アメリカで瞑想に基づくストレス緩和法を学んだ経験がある井上ウィマラ氏が、次のように語っています。

「日本とミャンマーでお坊さんとして、ただただ手放すだけの行をしなきゃいけなかったんですね。そうして身につけた技を、今度は西洋に行って、西洋人に教える中で、雑念って、全部が全部手放せなくてもいいし、ダイヤモンドの原石だって混じってることもあるんだということを、彼らから教えてもらった。」(「サンガ・ジャパン」vol.19)

欧米新仏教は、出家主義や心身の止滅を目指すような「現世否定」ではない、新しい「現世肯定」の仏教を生み出しつつあるだろうと思っています。
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2016-05-27 11:58:27

上座部とミックスメソッド:具体的なメソッド

テーマ:コラム
山下良道師の「ワンダルマ・メソッド」を素材にして、上座部のメソッドと他のメソッドをミックスして実修するに当たっての、“問題点”を浮かび上がらせることをテーマにした考察「上座部とミックスメソッド」の後編です。

前回は、「主体」の問題に関する上座部と大乗の教説の違いと、それがメソッドに与える影響について取り上げたましたが、今回は具体的なメソッドのミックスについて取り上げます。

主客が一体で対象を取らない「青空(仏性)」を主体として、ヴィパッサナーなどの瞑想を行うべきとする山下師の考え方を、いかにして実現するかが、「ワンダルマ・メソッド」のポイントであると思います。


現在の「ワンダルマ・メソッド」のシステムは、
(1) インナーボディワーク
(2) 慈悲の瞑想
(3) マインドフルネス
で構成されます。

これは、毎日の修行のルーティンのプログラムでもありますが、同時に、それぞれを十分に達成できるかどうかという点から言えば、修行階梯でもあります。

そして、一法庵では、この「ワンダルマ・メソッド」の後に、「只管打坐3.0」があります。



<インナーボディワーク(プラーナ・メソッドとのミックス)>

「インナーボディワーク(1)」は、「微細な感覚」、「微細な身体」を意識することで、「シンキングマインド」を落とし、「青空」を見い出すためのメソッドです。
これを理解した後で、「青空」を主体として、「慈悲の瞑想(2)」と「マインドフルネス(3)」を行います。


「ワンダルマ・メソッド」には入っていないという位置づけのようですが、「インナーボディワーク」の前に、まず、準備的な、身体的なメソッド(0)がいくつかあって、その後に「インナーボディワーク」に入ります。

準備的な身体メソッド(0)には、次のようなものがあります。

まず、「ウォーキングメディテーション」です。
上座部では、歩く瞑想は、本格的なヴィパッサナーの一つです。
しかし、ワンダルマ・メソッドでは、そういう位置づけではなく、シンキング・マインドが過去や未来に行きがちなので、意識を今へ戻す、体へ戻すための方法として扱っているようです。

次に、「ストレッチング」とカテゴライズしているようですが、「フェルデンクライス・メソッド」、「真向法」のような動きを伴うワークがあります。
これらは、かならずしも仏教のメソッドではありませんが、仏教にも、似たメソッドがないわけではありません。(*1)

これらは、体をほぐしながら、体に対して気づきを向けるためのワークでしょう。
山下師と同じく安泰寺の出身の藤田一照氏が、坐禅の準備として、心をリラックスさせるために体操を取り入れていますが、これと同じような意味合いもあるのでしょう。


「インナーボディワーク」には、まず、
(1-1) 青空のフォーカシング
(1-2) プラーナヤーマ
(1-3) お腹のアーナーパーナ・サティ
があります。
これらの方法によって、体の内部の「微細な感覚」へと、意識を向けます。

その後に、本格的に
(1-4) 「微細な感覚」を対象とした瞑想
を行います。


「ワンダルマ・メソッド」では、最初のメソッド「青空のフォーカシング(1-1)」を、「微細な身体」に関わるメソッドとしています。
ですが、本来、心理療法をベースにしたものなので、後で別途、扱います。


次の「プラーナヤーマ(1-2)」は、呼吸法(調気法)のことで、「ヨガ・スートラ」の八支の体系の第4支に当たります。
山下師は、八支ヨガの中の第3支「アーサナ(座法)」と「プラーナヤーマ」については、仏教よりヨガの方が充実しているので、ヨガから学べばいいと言っています。

山下師は、古典ヨガ(ヨガ・スートラ)ハタ・ヨガを区別して説いていません。

しかし、八支を説く古典ヨガには、「微細な感覚」である「プラーナ(気)」についての具体的な記述はなく、第4支の「プラーナヤーマ」は、単に、緩やかな自然な呼吸、あるいは、通常の呼吸を止めるという呼吸の方法です。
「プラーナ」についての詳細なコントロール法を説くのはハタ・ヨガですが、ハタ・ヨガは八支の体系を前提としません。

日本には伝わっていませんが、後期密教にも同様の豊富なメソッドがあります。
実は、これがヒンドゥー教に伝わって、ハタ・ヨガになったのです。

「ワンダルマ・メソッド」での具体的な方法は、ハタ・ヨガのものとしては、現在、「カパーラバーティ(浄化の呼吸)」、「ウジャーイ(喉を締める胸式呼吸)」、「バストリカ(腹式でのフイゴの呼吸)」、「完全呼吸(全身呼吸)」などを行っているようです。

また、「站桩気功」(立禅)も行っています。
「站桩気功」は気功の初歩のメソッドですが、その源流は道教(仙道)の導引です。
少し腰を落として、腹呼吸し、腕を前に丸く囲んだり、両手をこすり合わせて両手の平を近づけたりして、プラーナの球を感じるようにします。
その後、球を頭上に持ち上げたり、下したりします。

「ワンダルマ・メソッド」では、この段階、あるいは、これまでの段階のメソッドは、「青空へのヨガ」として、メソッド化されていくのではないでしょうか。

これら何ら特別なものではありませんが、「プラーナ」を感じるためのメソッドとしては、妥当なものでしょう。

バンダ(筋肉を絞める方法)やアーサナと組み合わせ(ムドラー)ていくと、ハタ・ヨガらしいプラーナをコントロールへと向かいます。


次の「お腹のアーナーパーナ・サティ(1-3)」は、マハーシ・システムと同様に、呼吸に合わせて動く腹部の動きを中心対象としたヴィパッサナーです。
マハーシ・システムのようにラベリングは行いません。
しかし、こちらも、本格的なヴィパッサナーという位置付けではないようです。


以上の3つのメソッドで、体の内部の「微細な感覚」、「微細な身体」へと、意識を向けていった後、坐禅の姿勢での、本格的に「微細な感覚」を感じるメソッド(1-4)に入ります。

まず、坐禅の姿勢で、膝の上の手の平を上に向けます。
そして、右の手の平に集中して、そこにチリチリした感覚を感じます。
その感覚を左手、下半身、胴体、頭と、体全体に広げます。

ゴエンカ・システムのボディ・スキャンに似ていますが、意識する対象が、肉体の感覚ではなく、「微細な感覚」である点で異なります。
ゴケンカ派も、「微細な感覚」、「微細な波動」、「微細な現実」といった言葉を使いますが、これは、概念の覆いを取った現実の微細さであって、肉体の感覚です。

また、上座部で行う、四界(四大元素)を対象とする四界分別観とも異なります。

山下師は、「微細な感覚」について、「プラーナ」とか「サトルボディ」という言葉も使っています。
これらの概念は、後期密教やハタ・ヨガ、仙道などでは必須ですが、部派仏教や大乗仏教、古典ヨガには出てきません。

上座部で言えば、四大元素の「風」が「プラーナ」だという人もいますが、違います。
ちなみに、上座部では、座ってのヴィパッサナーでは腹の動きに、歩くヴィパッサナーでは足を進める動きに、呼吸の流れなどに「風」を見ます。 (*2)


山下師は、「微細な感覚」に気づくと、「シンキングマインド」がなくなると言います。
つまり、「微細な感覚」に気づくだけで、「青空」=「仏性(涅槃)」を見出せるということですが、これはメソッドとしては、かなり強引です。

後期密教やハタ・ヨガ、仙道でも、そのような考えはありません。
後期密教では、最低でも、「プラーナ」を中央管に入れることで初めて無概念な意識が可能となるのですし、それが直ちに「仏性」、「空の智恵」だとは認めません。
ハタ・ヨガでも、仙道の内丹でも、ほぼ同じです。

ちなみに、後期密教で「プラーナ」をコントロールする場合は、まず、体やプラーナが通る脈管が空であることをしっかり瞑想してから行います。
また、「プラーナ」を中央管内に入れると、それは単なる「プラーナ」ではなく「微細なプラーナ」になり、さらに、胸のティクレ(心滴)にまで収束させると「極微なプラーナ」になります。
「プラーナ」が微細になるに従がって、心も微細になります。

山下師は、このような高度なヨガへ進むことは考えていないようです。
自身も実習していないでしょうし、誰もが取り組めるメソッドではありませんので。


本来、「プラーナ」に気づくことは、基本的には身随観と類似するメソッドであって、無概念・無対象になることとは別の問題です。
ですから、「プラーナ」を感じても、普通はそれを対象化することになってしまいます。
それに、逆に、肉体の感覚にしっかり気づくことで、無概念な状態になることもできます。

しかし、初めて「プラーナ」に気づいた人には、まったく新しい世界なので、その機会を突破口として利用するというのは、理解はできます。
なまじプラーナのコントロールができてしまうと、対象化もしますし、自我に組み入れてしまいがちですから。

この「プラーナ」に気づきことで「青空」を見い出す、「シンキングマインド」を落とすというのは、「ワンダルマ・メソッド」の最大の特徴であって、核心だと思います。
困難な試みだとは思いますが、今、そのメソッドを試行錯誤しながら作り上げているところです。

しかし、頭をぶっ叩いてシンキングメソッドがトンだ瞬間に仏性を直指する、みたいな禅の伝統に比べれば、メソッドらしいメソッドだと言えるのかもしれません。


「プラーナ」の感覚やコントロールを、上座部のシステムとどう結びつけるかは、ミックス・メソッドにとっては、大きなテーマでしょう。

本格的に取り組むのなら、結局は、後期密教の高度に練られたヨガのメソッドを利用することになると思います。



<心理療法とのミックス>

「ワンダルマ・メソッド」が、「微細な(身体)感覚」へのアプローチとして行う「青空のフォーカシング(1-1)」は、心理療法をベースにしています。

それは、「フォーカシング」という、ユージン・ジェンドリンが始めた方法です。
「フェルトセンス」と呼ばれる、身心的な微細な感覚に集中してそれを感じることが、そのメソッドの核心です。

「フェルトセンス」は、言葉やイメージで表現できるようなはっきりとした形をとっておらず、直感的にしか感じられない、漠然としたフィーリング、雰囲気的なものです。

「フェルトセンス」は自我に属するものではないので、自我から「フェルトセンス」を見ると、それは否定的な存在のように感じられます。
ですが、自我がそれと向かい合っていくことで、徐々に「フェルトセンス」も変化し、自我も変化していきます。

「青空のフォーカシング」は、自我(雲)ではなく、中立的な立場(青空)から、「フェルトセンス」を見ることです。

「ワンダルマ・メソッド」では、「青空のフォーカシング」を行う中で、自我から出て「青空」を見出そうとします。

しかし、「フェルトセンス」を感じることそのものは、自我(雲)でもできるので、基本的には身~心随観と類似したメソッドであって、この方法によって「シンキングマインド」をなくすというのは、やはり、強引です。
ただ、「プラーナ」と同じで、今まで意識したことのない感覚への気づきを機会として利用する、というのは分からないではありません。


以前、「心理療法と仏教」でも書いたように、心理療法を取り入れることは、欧米新仏教の特徴の一つですから、ミックス・メソッドの重要なテーマです。

ただ、「マインドフルネス認知療法」、「マインドフルネス心理療法」ように、認知療法や行動療法のような合理主義的な療法と仏教を結びつけることには、あまり可能性がないと思います。
その点、山下師が、「フォーカシング」にアプローチしたことは、評価できます。
「フォーカシング」は、非概念的な意識の領域を対象とする点で、アップデートされた心理療法だからです。
心理療法と仏教」を書いた時には、仏教の側から「フォーカシング」にアプローチする人が現れるとは思っていませんでした。

しかし、実は、「フォーカシング」の思想や方法は、「プロセス志向心理学」によってすでにアップデートさsれています。

「プロセス志向心理学」の創設者であるアーノルド・ミンデルは、上座部のアビダンマの心路過程に関心を持っていましたが、両者に、創造的な関係があったとは思えません。
なぜなら、意識を3階層で考える理論という点で、「プロセス志向心理学」と親近性があるのは金剛乗(後期密教)だからです。
両者を理解していれば、それは明らかなことです。


仏教のメソッドと、「フォーカシング」や「プロセス志向心理学」のメソッドをミックスする場合には、前回の文章でも触れた、身心をどこまで肯定するかという思想的な問題があります。

山下師は、「フェルトセンス」を見てそれを「手放す」と瞑想に入りやすくなる、と言います。
好き嫌いのような初期の段階で受け入れて、芽生えの段階で止める、とも。
彼は、「フェルトセンス」に対する方法を、上座部のヴィパッサナーや「只管打座」と同様に考えています。

しかし、「フォーカシング」や「プロセス志向心理学」のメソッドは、非言語的な身心の感覚を意識化して、それを「受け入れ」て、それと「交流」し、「育てる」ものです。
その中で、「フェルトセンス」からイメージや言葉、物語も生み出していきます。

ですから、仏教の「手放す」思想、言葉やイメージを否定するメソッドとは相容れません。

ミャンマーの上座部で出家して修業した後、アメリカで瞑想に基づくストレス緩和法を学んだ経験がある井上ウィマラ氏が、次のように語っています。

「日本とミャンマーでお坊さんとして、ただただ手放すだけの行をしなきゃいけなかったんですね。そうして身につけた技を、今度は西洋に行って、西洋人に教える中で、雑念って、全部が全部手放せなくてもいいし、ダイヤモンドの原石だって混じってることもあるんだということを、彼らから教えてもらった。」(「サンガ・ジャパン」vol.19)

彼が語っているのは、「フェルトセンス」に関しての話ではありませんが、心に感じたもの、浮かんだもの全般に対する瞑想時の態度としては、共通するテーマだと思います。

私は、「フォーカシング」や「プロセス志向心理学」のメソッドを、「瞑想」とは別の精神技術である「夢見の技術」として分類し、専門の姉妹サイト「夢見の技術」で紹介しています。
「夢見の技術」は、無意識的な心の作用を基にした、自然な創造を促す技術です。

仏教とこれらの心理療法とをミックスするには、イメージ操作のメソッドである「観想」を扱う金剛乗や、心の現れをあるがままに解放するメソッドを扱う任運乗を架け橋にする必要があると思います。



<慈悲の瞑想のミックス>

「ワンダルマ・メソッド」では、他の上座部系のメソッド同様、「慈悲の瞑想(2)」を行います。
しかし、「四無量心」ではなく「慈」と「悲」のみです。
一般人に分かりやすい簡略化ですね。

ただ、その特徴は、「青空」からいろいろな「雲」としての「人」を見て慈悲を送る、というイメージを通して、実際に「青空」を主体として行おうとする点です。

本当の慈悲は「青空」にしかない(勝義の菩提心は空性の智慧を前提とする)、というのは大乗の伝統的な考え方です。

ちなみに、最初に自分に対して慈悲の瞑想を行う理由として、自分の心の中にいて、自分の幸せを否定する化け物に対抗するためであると、言います。

山下師は、「私」に「慈悲」を送る主体は「青空」であって、送られる「私」は「雲」だと言います。


次に、「アーナーパーナ・サティ(3-1)」へのつなぎの瞑想を行います。

苦しんでいる人の苦しみを黒い煙として感じ、呼息と共にそれを吸い込んで、それを自分が青空として浄化し、慈悲の光に変えて、吸息と共に相手の体に送り届ける、とイメージする瞑想です。

これは、「トンレン」と呼ばれるチベット式の慈悲の瞑想法を少し変えたものです。


慈悲の瞑想」は、上座部の中でも、「三明経」、「清浄道論」、「パオ・メソッド」、「マハーシ・システム」それぞれでメソッドが異なります。
また、大乗にも、「因果の七秘訣」、「自他交換」など、多数のメソッドがあります。

これらを併修したり、自分にあったものを選択することは意味がありますし、難しいことではないでしょう。

「ワンダルマ・メソッド」での特長は、「トンレン」に呼吸が介在するために、これを「アーナーパーナ・サティ」へのつなぎとして利用する点です。

「ワンダルマ・メソッド」では、「慈悲の瞑想」は、ルーティンの一部でもありますが、「青空」を見い出いしてからが、本来の修行となります。

ですが、大乗の伝統的な修行階梯で言えば、「慈悲の瞑想」は資糧道に当たるものです。
それは、「青空(空性)」を見い出すよりずっと以前の階梯です。



<マインドフルネスのミックス>

最後の「マインドフルネス(3)」は、
(3-1) アーナーパーナ・サティ(出入息念)
(3-2) チッタヌパッサナー(心隨念)
で構成されます。

「アーナーパーナ・サティ(3-1)」は、パオ・メソッドではサマタのメソッドで、流派によってはヴィパッサナーのメソッドです。
中心対象(メディテーション・アンカー)を設定するテクニックでもあります。

「ワンダルマ・メソッド」における「アーナーパーナ・サティ」は、ヴィパッサナーとしてのメソッドです。
ただ、山下師は「ヴィパッサナー」という言葉はあまり使わず、「サティ」を使いますが。

メソッドとしては、特別、変わったものではありません。

先に説明した「お腹のアーナーパーナ・サティ(1-3)」とは違って、鼻孔の空気が動くの感覚に集中します。
そして、呼吸の初め、中間、終わりにサティを入れます。

呼吸を数える「数息念」は行いません。


「チッタヌパッサナー(3-2)」も、ヴィパッサナーですが、呼吸を中心対象(メディテーション・アンカー)としながら、心の動きが現れると、それを観察する方法です。
メソッドとしては、特別、変わったものではありません。


しかし、「ワンダルマ・、メソッド」の「マインドフルネス(3)」は、「青空」を主体として行うべきとするころが、大きな特徴です。

ヴィパッサナーで、いきなり心を見ようとすると、「シンキングマインド」を刺激することになりがちですが、「微細な感覚」に気づき、「慈悲の瞑想」で心の悪習による借金を返してから、「青空」から心を見ると、心を浄化できるようになる、というのが、「ワンダルマ・メソッド」の考え方です。

この考え方は、理解できます。
ただ、簡単ではないと思いますが。

しかし、自分が「青空」であるというイメージを持ちつつ、感覚を対象化するのではなく、それに一体化するという意識で、「修習」として瞑想を行うことは、大乗の加行道や密教の生起次第の伝統と似たものですし、効果があるでしょう。



<只管打座3.0>

「ワンダルマ・メソッド」は、「マインドフルネス(3)」で終わりです。
しかし、一法庵の瞑想はこれで終わりません。

「マインドフルネス」は、呼吸や心にフォーカスしますが、この後、「青空」だけになる瞑想に進みます。
特定のものにフォーカスせずに、すべてに対して平等に意識をかける(全景を見る)瞑想です。

この瞑想は、半眼で、法界定印を結んで行うので、大乗的な坐禅です。

山下師は、これを「只管打座3.0」と表現します。
「只管打坐3.0」にはメソッドがないので、「ワンダルマ・メソッド」に入らないのです。

「只管打座3.0」は、青空を主体にした、本来の「只管打座」です。

もともと「只管打座」は、仏を主体として行うものですが、山下師は、いきなりそれを行うことは、ほとんど不可能だと言います。
そのため、「ワンダルマ・メソッド」を使って「青空」を見い出したり、自分の心身をしっかり観察してから、本当の「只管打座」を行うのです。


しかし、禅宗でもゾクチェンでも、「青空」を保ったままに、日常の活動をするのが次の目標となります。
本当のゾクチェンのメソッドもそこにあります。
一法庵では、これはどうなるのでしょう。


今回の考察は、ここまでとします。



(*1)
もともと仏教には、タイの「ルーシーダットン」や、チベットの「ヤントラ・ヨガ」など、動きを伴う身体メソッドがあります。
ただ、それぞれの目的は異なります。
「ルーシーダットン」は良く知りませんが、禅の「経行」のように、長時間の坐禅の姿勢を取ることで生じる問題を治療する意味があるのでしょう。
「ヤントラ・ヨガ」は後期密教に属するものなので、プラーナの浄化に関わります。


* Rusiedutton


* Yantra Yoga

(*2)
ちなみに、古代インドは三大元素説なので、四大元素説、五大元素説は、ヘレニズム期にギリシャ、バビロニアから伝わったのだと思います。
上座部は四界(四大元素)説ですが、すべての部派がそうだったわけではなく、六界説まであります。
ギリシャ、バビロニアの第五元素の「エーテル」が、「プラーナ」とほぼ同じものです。
大乗~密教では五大元素説が優位になりますが、第五元素の「アーカシア」は「虚空」とされました。
また、元素説は、物質(色)の次元だけではなく、心の次元、法界の次元の3階層を通して各次元で存在するものとなりました。
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