後期密教の貪欲行 | 仏教の瞑想法と修行体系

後期密教の貪欲行

後期密教(無上ヨガ・タントラ)の修行では、特に中世のインドにおいては、性ヨガが重要とされました。
重要というより、それが核心かつ、必須の修行法であると考えられていました。

当ブログの後期密教の項目の記事では、いろいろな配慮から、プラーナのコントロールを行う「究竟次第」の中で、性ヨガを利用することもある…、と説明を控え目に抑えました。
思想面の説明でも、心身の「止滅」ではなく「活性化」を目指すというような控え目な表現をしています。

しかし、少なくともインドでの実態は、そのようなものではなかったので、性ヨガの意味について、改めて説明します。



後期密教は、それまでの仏教を「波羅蜜乗」、自分たちの仏教を「金剛乗」と称し、後者が優れていると主張しました。

部派仏教でも、大乗仏教でも、「十波羅蜜」や「六波羅蜜」などで、戒律を守ること、耐えること、努力をすること、などが必要でした。
しかし、後期密教は、高い見地から常識を破るため、これらを積極的に否定します。

密教には密教独自の「三昧耶戒(誓約)」がありますが、従来の「具足戒」や「大乗戒」、「菩薩戒」と矛盾し、それを積極的に破戒する内容のものもありました。

ここには、出家主義や寺院仏教を相対化し、否定するという、後期密教の一つの特徴もあります。

「具足戒」などを受戒した出家僧が後期密教の道を歩む場合、
1)「具足戒」を捨てる
2)「具足戒」を優先する
3)矛盾しないと解釈して「三昧耶戒」を優先する
という3つの道がありました。

1)は、在家または遊行の修行者となる道で、チベットではかつてのニンマ派はこれです。
2)は、ゲルグ派など、今日のチベットの多くの仏教教団が選択した道です。
3)は、インド後期の仏教教団で標準見解となったものです。


仏教では、煩悩を「貪(愛欲)」、「瞋(怒り)」、「癡(認識の間違い)」の三毒として分類し、これらを避けること、なくすことが修行の基本でした。

これに対して、後期密教では、「理趣経」以来の思想(一切法清浄、一切法無戯論性)によって、人間の分別による執着のない生得的な「愛欲」は清浄なものであるとして、これを肯定しました。

唯識派は「識」を「智」に転化することを説きましたが、後期密教は、三毒(五煩悩)も五智に対応させました。

つまり、煩悩、特に「愛欲」を修行に利用することを特徴としました。
従来の仏教は、色界(色究竟天)の瞑想で悟るとしていましたが、後期密教では、欲界の瞑想を拠り所にして悟る方法とされました。

必ずしもしっかりと理論化されていませんが、煩悩によって特定の形へと固定化した感情や感覚を、単に「止滅」させるのではなく、それを無形の力動的な創造力に「解き放つ」つことで、悟りを目指します。



「愛欲」を利用する修行法を「貪欲行」と呼びます。
具体的には「性ヨガ」です。

感情の面で説明すれば、日常的な愛欲を、異性という対象に対する感情から、純粋なエネルギーへと開放することを目指します。
感覚の面では、性的な快楽ではなく、それを利用して集めたプラーナがチャクラを通過する時の「大楽」へと昇華して、その時に生まれる無分別な意識状態を利用して、「空」の認識を得ます。

この凝縮されたプラーナは、「菩提心」、「精液」、「チャンダリーの火」、「智慧の火」などと表現されます。
ヒンドゥー・タントラが言う「シャクティ」に当たります。

後期密教は、輪廻のプロセスをプラーナのコントロールで再現しながらそれを浄化し、その時の心を「智慧」に変えることで、「仏の三身」を獲得しようとします。

性行為は、輪廻のサイクルでは「再生(受胎)」のプロセスに対応します。
そのため、性行為の時の心を「智慧」に変える性ヨガは、重要な意味を持ちます。
つまり、仏として性ヨガを行い、再生・受胎のプロセスをシミュレートして、それを浄化し、「仏の三身」を獲得します。

 * 詳細は「究竟次第の背景思想」をご参照ください

男性にとって性ヨガのパートナーとなる女性は、「ヨーギニー」とか、「ダキニ」、「明妃」、「大印」などと呼ばれます。

性ヨガを行うために男性修行者に果たされる条件には厳しいものがありますが、女性パートナーにも、仏教の教理の知識、究竟次第のヨガの技術など、厳しい条件が付けられています。

生身の相手と性ヨガを行う場合も、互いを男女の尊格として観想して行います。
女性修行者の場合は、自分を男性尊格、相手の男性を女性尊格であると観想して行います。


この性ヨガ=「貪欲行」には3種類の方法があります。

a) 観想した女性尊(=智印)を相手に一人で行う
b) 生身の女性(=掲摩印)を相手に二人で行う
c) 生身の複数の男女で曼荼羅(=ガナマンダラ)を再現して集団で行う

 * これ以外に、肉体を持たない女性の霊的存在を相手にするとか、生身の女性行者と肉体的には離れた状態でプラーナを交流させて行うこともできる、という話もありますが…

a)、b)は「究竟次第」で行います。
父タントラ、母タントラの両経典に書かれています。

これらの修行の場合、プラーナや脈管・脈輪と対応した尊格や曼荼羅を体内に観想し、顕現させます。

性ヨガを利用して、ヘソのチャクラで発火させた「チャンダリーの火(赤い心滴)」、あるいは、性器で発生しさせた「精液(凝縮した気の一種です)」を上昇させ、頭頂のチャクラから垂れる「甘露(白い心滴)」と混合させます。
これは、受胎時に父と母のプラーナ、ティクレ(心滴)が混合することの再現です。

 * 詳細は「チャンダリーの火」をご参照ください

c)は、「ガナチャクラ(聚輪)」と呼ばれる饗宴の儀礼(行)として、定期的に行います。
饗宴なので、飲酒、肉食、音舞を伴います。
夜間の星の移動に応じて女性が移動し、パートナーを変えていきます。

各地で行われる「ガナチャクラ」に参加するために、各地を渡り歩く場合もあります。

「ガナチャクラ」は母タントラにのみ、書かれています。

ちなみに、頭頂の「白い心滴」を溶かした甘露が下降し、体中の脈管をめぐることは、ヘールカなどの男性尊が、様々な明妃と合一することと、象徴的には同じです。


普通に考えれば、生身の人間との性ヨガは、「具足戒」に違反するので、出家僧にはできません。
しかし、インド仏教後期を代表するヴィクラマシーラ大僧院の六賢門の一人、ヴァーギーシュヴァラは、性ヨガのパートナーは、空観や唯識に基づけば、幻が如き存在であり、性ヨガは「具足戒」に違反しないとしました。
これは「ヴァーギーシュヴァラ準則」と呼ばれ、インド仏教の基準となる判断となりました。
上に書いた3択で言えば、3)「矛盾しないと解釈して三昧耶戒を優先する」に当たります。

また、灌頂後に「明の誓戒」が与えられました。
これは、阿闍梨から受け取った性ヨガのパートナーとは、輪廻の果てまで離れない、という誓約です。

後期密教では、可能な限り観想ではなく、生身の女性を相手に行う方が望ましいとされました。
また、多くの流派では、生身の女性との性ヨガを行わないかぎり、成仏の達成が認められませんでした。


チベットに後期密教を伝えた重要人物に、アティーシャがいます。
在家修行者として出発し、後に出家してヴィクラマシーラ大僧院の学長になった人物です。
彼は、インド仏教を体現していたため、生身の女性を相手にする性ヨガを必須の行法と考えていたはずですが、チベットでの状況に妥協して、出家僧に対しては、あいまいな態度を取りました。

その後、ゲルグ派の始祖ツォン・カパは、出家者の生身の女性を相手にした性ヨガに対して、極めて厳しい条件を付け、事実上、禁止することになりました。
この考え方は、チベット仏教の主流派となりました。
ですが、これは、インド的な意味での金剛乗とは言えないでしょう。