上座部とミックスメソッド:具体的なメソッド | 仏教の瞑想法と修行体系

上座部とミックスメソッド:具体的なメソッド

山下良道師の「ワンダルマ・メソッド」を素材にして、上座部のメソッドと他のメソッドをミックスして実修するに当たっての、“問題点”を浮かび上がらせることをテーマにした考察「上座部とミックスメソッド」の後編です。

前回は、「主体」の問題に関する上座部と大乗の教説の違いと、それがメソッドに与える影響について取り上げたましたが、今回は具体的なメソッドのミックスについて取り上げます。

主客が一体で対象を取らない「青空(仏性)」を主体として、ヴィパッサナーなどの瞑想を行うべきとする山下師の考え方を、いかにして実現するかが、「ワンダルマ・メソッド」のポイントであると思います。


現在の「ワンダルマ・メソッド」のシステムは、
(1) インナーボディワーク
(2) 慈悲の瞑想
(3) マインドフルネス
で構成されます。

これは、毎日の修行のルーティンのプログラムでもありますが、同時に、それぞれを十分に達成できるかどうかという点から言えば、修行階梯でもあります。

そして、一法庵では、この「ワンダルマ・メソッド」の後に、「只管打坐3.0」があります。



<インナーボディワーク(プラーナ・メソッドとのミックス)>

「インナーボディワーク(1)」は、「微細な感覚」、「微細な身体」を意識することで、「シンキングマインド」を落とし、「青空」を見い出すためのメソッドです。
これを理解した後で、「青空」を主体として、「慈悲の瞑想(2)」と「マインドフルネス(3)」を行います。


「ワンダルマ・メソッド」には入っていないという位置づけのようですが、「インナーボディワーク」の前に、まず、準備的な、身体的なメソッド(0)がいくつかあって、その後に「インナーボディワーク」に入ります。

準備的な身体メソッド(0)には、次のようなものがあります。

まず、「ウォーキングメディテーション」です。
上座部では、歩く瞑想は、本格的なヴィパッサナーの一つです。
しかし、ワンダルマ・メソッドでは、そういう位置づけではなく、シンキング・マインドが過去や未来に行きがちなので、意識を今へ戻す、体へ戻すための方法として扱っているようです。

次に、「ストレッチング」とカテゴライズしているようですが、「フェルデンクライス・メソッド」、「真向法」のような動きを伴うワークがあります。
これらは、かならずしも仏教のメソッドではありませんが、仏教にも、似たメソッドがないわけではありません。(*1)

これらは、体をほぐしながら、体に対して気づきを向けるためのワークでしょう。
山下師と同じく安泰寺の出身の藤田一照氏が、坐禅の準備として、心をリラックスさせるために体操を取り入れていますが、これと同じような意味合いもあるのでしょう。


「インナーボディワーク」には、まず、
(1-1) 青空のフォーカシング
(1-2) プラーナヤーマ
(1-3) お腹のアーナーパーナ・サティ
があります。
これらの方法によって、体の内部の「微細な感覚」へと、意識を向けます。

その後に、本格的に
(1-4) 「微細な感覚」を対象とした瞑想
を行います。


「ワンダルマ・メソッド」では、最初のメソッド「青空のフォーカシング(1-1)」を、「微細な身体」に関わるメソッドとしています。
ですが、本来、心理療法をベースにしたものなので、後で別途、扱います。


次の「プラーナヤーマ(1-2)」は、呼吸法(調気法)のことで、「ヨガ・スートラ」の八支の体系の第4支に当たります。
山下師は、八支ヨガの中の第3支「アーサナ(座法)」と「プラーナヤーマ」については、仏教よりヨガの方が充実しているので、ヨガから学べばいいと言っています。

山下師は、古典ヨガ(ヨガ・スートラ)ハタ・ヨガを区別して説いていません。

しかし、八支を説く古典ヨガには、「微細な感覚」である「プラーナ(気)」についての具体的な記述はなく、第4支の「プラーナヤーマ」は、単に、緩やかな自然な呼吸、あるいは、通常の呼吸を止めるという呼吸の方法です。
「プラーナ」についての詳細なコントロール法を説くのはハタ・ヨガですが、ハタ・ヨガは八支の体系を前提としません。

日本には伝わっていませんが、後期密教にも同様の豊富なメソッドがあります。
実は、これがヒンドゥー教に伝わって、ハタ・ヨガになったのです。

「ワンダルマ・メソッド」での具体的な方法は、ハタ・ヨガのものとしては、現在、「カパーラバーティ(浄化の呼吸)」、「ウジャーイ(喉を締める胸式呼吸)」、「バストリカ(腹式でのフイゴの呼吸)」、「完全呼吸(全身呼吸)」などを行っているようです。

また、「站桩気功」(立禅)も行っています。
「站桩気功」は気功の初歩のメソッドですが、その源流は道教(仙道)の導引です。
少し腰を落として、腹呼吸し、腕を前に丸く囲んだり、両手をこすり合わせて両手の平を近づけたりして、プラーナの球を感じるようにします。
その後、球を頭上に持ち上げたり、下したりします。

「ワンダルマ・メソッド」では、この段階、あるいは、これまでの段階のメソッドは、「青空へのヨガ」として、メソッド化されていくのではないでしょうか。

これら何ら特別なものではありませんが、「プラーナ」を感じるためのメソッドとしては、妥当なものでしょう。

バンダ(筋肉を絞める方法)やアーサナと組み合わせ(ムドラー)ていくと、ハタ・ヨガらしいプラーナをコントロールへと向かいます。


次の「お腹のアーナーパーナ・サティ(1-3)」は、マハーシ・システムと同様に、呼吸に合わせて動く腹部の動きを中心対象としたヴィパッサナーです。
マハーシ・システムのようにラベリングは行いません。
しかし、こちらも、本格的なヴィパッサナーという位置付けではないようです。


以上の3つのメソッドで、体の内部の「微細な感覚」、「微細な身体」へと、意識を向けていった後、坐禅の姿勢での、本格的に「微細な感覚」を感じるメソッド(1-4)に入ります。

まず、坐禅の姿勢で、膝の上の手の平を上に向けます。
そして、右の手の平に集中して、そこにチリチリした感覚を感じます。
その感覚を左手、下半身、胴体、頭と、体全体に広げます。

ゴエンカ・システムのボディ・スキャンに似ていますが、意識する対象が、肉体の感覚ではなく、「微細な感覚」である点で異なります。
ゴケンカ派も、「微細な感覚」、「微細な波動」、「微細な現実」といった言葉を使いますが、これは、概念の覆いを取った現実の微細さであって、肉体の感覚です。

また、上座部で行う、四界(四大元素)を対象とする四界分別観とも異なります。

山下師は、「微細な感覚」について、「プラーナ」とか「サトルボディ」という言葉も使っています。
これらの概念は、後期密教やハタ・ヨガ、仙道などでは必須ですが、部派仏教や大乗仏教、古典ヨガには出てきません。

上座部で言えば、四大元素の「風」が「プラーナ」だという人もいますが、違います。
ちなみに、上座部では、座ってのヴィパッサナーでは腹の動きに、歩くヴィパッサナーでは足を進める動きに、呼吸の流れなどに「風」を見ます。 (*2)


山下師は、「微細な感覚」に気づくと、「シンキングマインド」がなくなると言います。
つまり、「微細な感覚」に気づくだけで、「青空」=「仏性(涅槃)」を見出せるということですが、これはメソッドとしては、かなり強引です。

後期密教やハタ・ヨガ、仙道でも、そのような考えはありません。
後期密教では、最低でも、「プラーナ」を中央管に入れることで初めて無概念な意識が可能となるのですし、それが直ちに「仏性」、「空の智恵」だとは認めません。
ハタ・ヨガでも、仙道の内丹でも、ほぼ同じです。

ちなみに、後期密教で「プラーナ」をコントロールする場合は、まず、体やプラーナが通る脈管が空であることをしっかり瞑想してから行います。
また、「プラーナ」を中央管内に入れると、それは単なる「プラーナ」ではなく「微細なプラーナ」になり、さらに、胸のティクレ(心滴)にまで収束させると「極微なプラーナ」になります。
「プラーナ」が微細になるに従がって、心も微細になります。

山下師は、このような高度なヨガへ進むことは考えていないようです。
自身も実習していないでしょうし、誰もが取り組めるメソッドではありませんので。


本来、「プラーナ」に気づくことは、基本的には身随観と類似するメソッドであって、無概念・無対象になることとは別の問題です。
ですから、「プラーナ」を感じても、普通はそれを対象化することになってしまいます。
それに、逆に、肉体の感覚にしっかり気づくことで、無概念な状態になることもできます。

しかし、初めて「プラーナ」に気づいた人には、まったく新しい世界なので、その機会を突破口として利用するというのは、理解はできます。
なまじプラーナのコントロールができてしまうと、対象化もしますし、自我に組み入れてしまいがちですから。

この「プラーナ」に気づきことで「青空」を見い出す、「シンキングマインド」を落とすというのは、「ワンダルマ・メソッド」の最大の特徴であって、核心だと思います。
困難な試みだとは思いますが、今、そのメソッドを試行錯誤しながら作り上げているところです。

しかし、頭をぶっ叩いてシンキングメソッドがトンだ瞬間に仏性を直指する、みたいな禅の伝統に比べれば、メソッドらしいメソッドだと言えるのかもしれません。


「プラーナ」の感覚やコントロールを、上座部のシステムとどう結びつけるかは、ミックス・メソッドにとっては、大きなテーマでしょう。

本格的に取り組むのなら、結局は、後期密教の高度に練られたヨガのメソッドを利用することになると思います。



<心理療法とのミックス>

「ワンダルマ・メソッド」が、「微細な(身体)感覚」へのアプローチとして行う「青空のフォーカシング(1-1)」は、心理療法をベースにしています。

それは、「フォーカシング」という、ユージン・ジェンドリンが始めた方法です。
「フェルトセンス」と呼ばれる、身心的な微細な感覚に集中してそれを感じることが、そのメソッドの核心です。

「フェルトセンス」は、言葉やイメージで表現できるようなはっきりとした形をとっておらず、直感的にしか感じられない、漠然としたフィーリング、雰囲気的なものです。

「フェルトセンス」は自我に属するものではないので、自我から「フェルトセンス」を見ると、それは否定的な存在のように感じられます。
ですが、自我がそれと向かい合っていくことで、徐々に「フェルトセンス」も変化し、自我も変化していきます。

「青空のフォーカシング」は、自我(雲)ではなく、中立的な立場(青空)から、「フェルトセンス」を見ることです。

「ワンダルマ・メソッド」では、「青空のフォーカシング」を行う中で、自我から出て「青空」を見出そうとします。

しかし、「フェルトセンス」を感じることそのものは、自我(雲)でもできるので、基本的には身~心随観と類似したメソッドであって、この方法によって「シンキングマインド」をなくすというのは、やはり、強引です。
ただ、「プラーナ」と同じで、今まで意識したことのない感覚への気づきを機会として利用する、というのは分からないではありません。


以前、「心理療法と仏教」でも書いたように、心理療法を取り入れることは、欧米新仏教の特徴の一つですから、ミックス・メソッドの重要なテーマです。

ただ、「マインドフルネス認知療法」、「マインドフルネス心理療法」ように、認知療法や行動療法のような合理主義的な療法と仏教を結びつけることには、あまり可能性がないと思います。
その点、山下師が、「フォーカシング」にアプローチしたことは、評価できます。
「フォーカシング」は、非概念的な意識の領域を対象とする点で、アップデートされた心理療法だからです。
心理療法と仏教」を書いた時には、仏教の側から「フォーカシング」にアプローチする人が現れるとは思っていませんでした。

しかし、実は、「フォーカシング」の思想や方法は、「プロセス志向心理学」によってすでにアップデートさsれています。

「プロセス志向心理学」の創設者であるアーノルド・ミンデルは、上座部のアビダンマの心路過程に関心を持っていましたが、両者に、創造的な関係があったとは思えません。
なぜなら、意識を3階層で考える理論という点で、「プロセス志向心理学」と親近性があるのは金剛乗(後期密教)だからです。
両者を理解していれば、それは明らかなことです。


仏教のメソッドと、「フォーカシング」や「プロセス志向心理学」のメソッドをミックスする場合には、前回の文章でも触れた、身心をどこまで肯定するかという思想的な問題があります。

山下師は、「フェルトセンス」を見てそれを「手放す」と瞑想に入りやすくなる、と言います。
好き嫌いのような初期の段階で受け入れて、芽生えの段階で止める、とも。
彼は、「フェルトセンス」に対する方法を、上座部のヴィパッサナーや「只管打座」と同様に考えています。

しかし、「フォーカシング」や「プロセス志向心理学」のメソッドは、非言語的な身心の感覚を意識化して、それを「受け入れ」て、それと「交流」し、「育てる」ものです。
その中で、「フェルトセンス」からイメージや言葉、物語も生み出していきます。

ですから、仏教の「手放す」思想、言葉やイメージを否定するメソッドとは相容れません。

ミャンマーの上座部で出家して修業した後、アメリカで瞑想に基づくストレス緩和法を学んだ経験がある井上ウィマラ氏が、次のように語っています。

「日本とミャンマーでお坊さんとして、ただただ手放すだけの行をしなきゃいけなかったんですね。そうして身につけた技を、今度は西洋に行って、西洋人に教える中で、雑念って、全部が全部手放せなくてもいいし、ダイヤモンドの原石だって混じってることもあるんだということを、彼らから教えてもらった。」(「サンガ・ジャパン」vol.19)

彼が語っているのは、「フェルトセンス」に関しての話ではありませんが、心に感じたもの、浮かんだもの全般に対する瞑想時の態度としては、共通するテーマだと思います。

私は、「フォーカシング」や「プロセス志向心理学」のメソッドを、「瞑想」とは別の精神技術である「夢見の技術」として分類し、専門の姉妹サイト「夢見の技術」で紹介しています。
「夢見の技術」は、無意識的な心の作用を基にした、自然な創造を促す技術です。

仏教とこれらの心理療法とをミックスするには、イメージ操作のメソッドである「観想」を扱う金剛乗や、心の現れをあるがままに解放するメソッドを扱う任運乗を架け橋にする必要があると思います。



<慈悲の瞑想のミックス>

「ワンダルマ・メソッド」では、他の上座部系のメソッド同様、「慈悲の瞑想(2)」を行います。
しかし、「四無量心」ではなく「慈」と「悲」のみです。
一般人に分かりやすい簡略化ですね。

ただ、その特徴は、「青空」からいろいろな「雲」としての「人」を見て慈悲を送る、というイメージを通して、実際に「青空」を主体として行おうとする点です。

本当の慈悲は「青空」にしかない(勝義の菩提心は空性の智慧を前提とする)、というのは大乗の伝統的な考え方です。

ちなみに、最初に自分に対して慈悲の瞑想を行う理由として、自分の心の中にいて、自分の幸せを否定する化け物に対抗するためであると、言います。

山下師は、「私」に「慈悲」を送る主体は「青空」であって、送られる「私」は「雲」だと言います。


次に、「アーナーパーナ・サティ(3-1)」へのつなぎの瞑想を行います。

苦しんでいる人の苦しみを黒い煙として感じ、呼息と共にそれを吸い込んで、それを自分が青空として浄化し、慈悲の光に変えて、吸息と共に相手の体に送り届ける、とイメージする瞑想です。

これは、「トンレン」と呼ばれるチベット式の慈悲の瞑想法を少し変えたものです。


慈悲の瞑想」は、上座部の中でも、「三明経」、「清浄道論」、「パオ・メソッド」、「マハーシ・システム」それぞれでメソッドが異なります。
また、大乗にも、「因果の七秘訣」、「自他交換」など、多数のメソッドがあります。

これらを併修したり、自分にあったものを選択することは意味がありますし、難しいことではないでしょう。

「ワンダルマ・メソッド」での特長は、「トンレン」に呼吸が介在するために、これを「アーナーパーナ・サティ」へのつなぎとして利用する点です。

「ワンダルマ・メソッド」では、「慈悲の瞑想」は、ルーティンの一部でもありますが、「青空」を見い出いしてからが、本来の修行となります。

ですが、大乗の伝統的な修行階梯で言えば、「慈悲の瞑想」は資糧道に当たるものです。
それは、「青空(空性)」を見い出すよりずっと以前の階梯です。



<マインドフルネスのミックス>

最後の「マインドフルネス(3)」は、
(3-1) アーナーパーナ・サティ(出入息念)
(3-2) チッタヌパッサナー(心隨念)
で構成されます。

「アーナーパーナ・サティ(3-1)」は、パオ・メソッドではサマタのメソッドで、流派によってはヴィパッサナーのメソッドです。
中心対象(メディテーション・アンカー)を設定するテクニックでもあります。

「ワンダルマ・メソッド」における「アーナーパーナ・サティ」は、ヴィパッサナーとしてのメソッドです。
ただ、山下師は「ヴィパッサナー」という言葉はあまり使わず、「サティ」を使いますが。

メソッドとしては、特別、変わったものではありません。

先に説明した「お腹のアーナーパーナ・サティ(1-3)」とは違って、鼻孔の空気が動くの感覚に集中します。
そして、呼吸の初め、中間、終わりにサティを入れます。

呼吸を数える「数息念」は行いません。


「チッタヌパッサナー(3-2)」も、ヴィパッサナーですが、呼吸を中心対象(メディテーション・アンカー)としながら、心の動きが現れると、それを観察する方法です。
メソッドとしては、特別、変わったものではありません。


しかし、「ワンダルマ・、メソッド」の「マインドフルネス(3)」は、「青空」を主体として行うべきとするころが、大きな特徴です。

ヴィパッサナーで、いきなり心を見ようとすると、「シンキングマインド」を刺激することになりがちですが、「微細な感覚」に気づき、「慈悲の瞑想」で心の悪習による借金を返してから、「青空」から心を見ると、心を浄化できるようになる、というのが、「ワンダルマ・メソッド」の考え方です。

この考え方は、理解できます。
ただ、簡単ではないと思いますが。

しかし、自分が「青空」であるというイメージを持ちつつ、感覚を対象化するのではなく、それに一体化するという意識で、「修習」として瞑想を行うことは、大乗の加行道や密教の生起次第の伝統と似たものですし、効果があるでしょう。



<只管打座3.0>

「ワンダルマ・メソッド」は、「マインドフルネス(3)」で終わりです。
しかし、一法庵の瞑想はこれで終わりません。

「マインドフルネス」は、呼吸や心にフォーカスしますが、この後、「青空」だけになる瞑想に進みます。
特定のものにフォーカスせずに、すべてに対して平等に意識をかける(全景を見る)瞑想です。

この瞑想は、半眼で、法界定印を結んで行うので、大乗的な坐禅です。

山下師は、これを「只管打座3.0」と表現します。
「只管打坐3.0」にはメソッドがないので、「ワンダルマ・メソッド」に入らないのです。

「只管打座3.0」は、青空を主体にした、本来の「只管打座」です。

もともと「只管打座」は、仏を主体として行うものですが、山下師は、いきなりそれを行うことは、ほとんど不可能だと言います。
そのため、「ワンダルマ・メソッド」を使って「青空」を見い出したり、自分の心身をしっかり観察してから、本当の「只管打座」を行うのです。


しかし、禅宗でもゾクチェンでも、「青空」を保ったままに、日常の活動をするのが次の目標となります。
本当のゾクチェンのメソッドもそこにあります。
一法庵では、これはどうなるのでしょう。


今回の考察は、ここまでとします。



(*1)
もともと仏教には、タイの「ルーシーダットン」や、チベットの「ヤントラ・ヨガ」など、動きを伴う身体メソッドがあります。
ただ、それぞれの目的は異なります。
「ルーシーダットン」は良く知りませんが、禅の「経行」のように、長時間の坐禅の姿勢を取ることで生じる問題を治療する意味があるのでしょう。
「ヤントラ・ヨガ」は後期密教に属するものなので、プラーナの浄化に関わります。


* Rusiedutton


* Yantra Yoga

(*2)
ちなみに、古代インドは三大元素説なので、四大元素説、五大元素説は、ヘレニズム期にギリシャ、バビロニアから伝わったのだと思います。
上座部は四界(四大元素)説ですが、すべての部派がそうだったわけではなく、六界説まであります。
ギリシャ、バビロニアの第五元素の「エーテル」が、「プラーナ」とほぼ同じものです。
大乗~密教では五大元素説が優位になりますが、第五元素の「アーカシア」は「虚空」とされました。
また、元素説は、物質(色)の次元だけではなく、心の次元、法界の次元の3階層を通して各次元で存在するものとなりました。