満洲独立の必然性 ~満洲は中国ではない~ | 朝倉新哉の研究室

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中国最古の書物の1つ『書経』に”粛慎”(しゅくしん)という民族のことが記されています。

周の成王が東夷(東方の異民族)を討伐し、粛慎はそれを祝う使者を送ってきたというのです。

周が成立した紀元前1046年ごろには、粛慎は満洲に住んでいたということになります。

周の勢力範囲は以下の地図1の通りです。
地図1
国家戦略研究
ウィキペディアより転載

四角形で示されているのが周王朝に属していた都市国家です。

このころの王朝は、ある領域を”面”で支配していたのではなく、

都市国家を支配する”点”の支配でした。

『遊牧民から見た世界史 増補版』杉山正明 日経ビジネス人文庫

の記述を読むと、それがわかります。

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中華も草原も一つだった時代

両者(朝倉注:遊牧民と農耕民または都市住民)は、
ともどもにかかわりあって動いていた。
つまり、ひとつの「歴史世界」であった。
このころはまだ、草原も中華も、その間に確たる識別も仕切り線もなかったのである。

その証拠には、説明の便宜上、いまかりに「中国本土」と呼んでいるところの内側にさえ、
古くからずっと「壁の民」の都市住民にたいして、
「野の民」ともいうべき牧畜民が、いくつもの集団をなして暮らしていたからである。

春秋時代の覇者として名高い晋の文公は、
43歳から62歳までの19年間、側近とともに諸方を流浪した。
43歳のとき、まず「狄」に出奔した。
いわゆる白狄である。
ところが、どうみても、この白狄集団は晋国のすぐ近く、「中原諸国」の間にいる。
「塞外」などには、けっしているとはおもえない記述となっている。

華夷の別、すなわち「中華」にたいして「夷狄」なるものを設定し、
「中華」は文字どおり中央におり、
「夷狄」なるものは外側にいるという二元世界のイメージは、はるかのちのことで、
また秦漢以前では意識のうえでさえも、とうてい成立しえない。

「中国」は、はじめから「中国」であったわけではない。
現代のイメージを過去に逆投影して、価値づけや評価をきめるのは、
じつにこわい行為というほかはない。
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最後の3行は、重要です。

今の中国は満洲を支配しています。

しかし、昔からずっとそうだったのではありません。

中国は、昔から満洲が中華民族のものだったかのように歴史を改竄しようとしています。

中国が主張する歴史を鵜呑みにすることは、

満洲やウイグルやチベットの抹殺に手を貸すことに他なりません。


さて、地図1を見てもわかるように、

周王朝の支配は、満洲には全く及んでいません。

周からだいぶ時間がたった漢の時代でも、それは変わりません。

紀元前1世紀ごろの満洲(粛慎がいた時代)
国家戦略研究
ウィキペディアより転載

粛慎は満洲に居り、前漢の支配は満洲の一部にしか及んでいません。

1世紀から4世紀にかけて、挹婁(ゆうろう)という民族が存在していました。

2世紀の満洲(挹婁がいた時代)
国家戦略研究
ウィキペディアより転載

4世紀の満洲(挹婁がいた時代)
国家戦略研究
ウィキペディアより転載

挹婁は粛慎の末裔だと考えられています。

『三国志』(歴史書としての三国志)には、

挹婁が外満州(現在のロシア連邦沿海地方)の松花江流域に居んでいたことが書かれています。

また、人尿で手や顔を洗っていた、と書かれています。

養豚が盛んで、豚を主食としていました。


挹婁の次に現れたのは、勿吉(もつきつ)という民族です。

5世紀の満洲(勿吉がいた時代)
国家戦略研究
ウィキペディアより転載

勿吉は、豚を多く飼っており、豚を主食としていました。

「人尿で手や顔を洗う」という風習も受け継いでおり、

挹婁と勿吉が同系の民族であることがわかります。


史書でみると、粛慎が挹婁になったのか、いまひとつはっきりしませんが、

挹婁→勿吉のつながりは、確実とみてよいでしょう。

勿吉の後に現れた靺鞨(まつかつ)も、

豚を主食とする、人尿で手や顔を洗う風習を受け継いでおり、

挹婁→勿吉→靺鞨は、つながっていることは確実です。

ウィキペディアによると
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発掘調査による出土品から、
靺鞨時代の日用品や居住形態・食生活などが
文字記録の残っている女真時代へと連続している事が確認されている。
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挹婁→勿吉→靺鞨→女真

というつながりは確実ということになります。

女真という民族名を改称したのがマンジュ(満洲)です。

挹婁→勿吉→靺鞨→女真→満洲

と、満洲には、1世紀から同じ民族がずっと住み続けていたことになります。

粛慎と挹婁がつながるなら、

この民族の居住期間はもっと長く、

周王朝が成立した紀元前1046年ごろから、住み続けていたことになります。

唐王朝は、満洲のかなりの部分を支配しましたが、満洲の全てではありません。

当時満洲に住んでいた靺鞨も、唐の支配を受けて滅亡したり、同化されたりせず、

唐の支配から脱却したあとも民族としての独自性を保っています。


周の時代から続いていたかもしれない満洲民族の歴史を見れば、

現在の満洲が中華人民共和国の支配下に入っているのは、

ほんの一時期のこととなるかもしれないのです。

靺鞨の時代に、唐にかなりの地域を支配されましたが、
国家戦略研究
『もういちど読む 山川世界史』より転載

靺鞨のあとを受けた女真族が建てた金王朝は、このように広い領域を支配しています。
国家戦略研究
『もういちど読む 山川世界史』より転載

中国は満洲を「中国東北部」と呼び、満洲が昔から中国(シナ)であったかのように

歴史を改竄しようとしています。

日本のマスコミも満洲を中国東北部と呼び、中国の言いなりになっています。

チベットやウイグルが中国ではないことは浸透していますが、

満洲も同様に、中国が支配すべき土地ではないことをわかっていただきたいのです。

だから、親日回廊工作は必然なのです。


ポーランドは、1795年の第3次ポーランド分割で消滅しました。

しかし、第1次世界大戦後の1918年に復活しました。

いったん国が消滅して100年余りのちに復活したのです。

もっとすごいのは、イスラエルです。

現在のイスラエルは1948年に建国しましたが、

これは、西暦135年の”ディアスポラ”で国がなくなって以来、

実に1813年ぶりの復活なのです。

これを思えば、今は、自分たちの国がない満洲民族も、

再び国家を作ったとしても、何もおかしくはないのです。

むしろ正当な権利といえます。


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満洲、ウイグル、チベットを中国から分離独立させる親日回廊工作をやるべきだ、
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