ネットとリアルの境目、表現とその感覚 | A Day In The Boy's Life

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とあるエンジニアのとある1日のつぶやき。

昔の自分も良く使っていたのですが、「ネットとリアル」という言葉が最近は妙にむず痒く聞こえたりします。

というのも、ネットが自分の中でのリアルの一部になりつつあるからなのかな、と思ったり。


自分個人の視点で見てみたら、こうしてブログを書くことも、リアルな世界で楽しい時間を過ごすことと同義ですし、そうやって頭のなかのもやもやしたものをまとめて吐き出す行為はストレスの発散にもなっていますし、いろんなコンテンツをみて新しい発見ができることもリアルな自分に跳ね返ってるな、と感じたりします。


なんか、ネットとリアルという言葉を使うと、ネットが非リアル(※)のような意味を帯びてくるんですが、その中で作られているものは全てリアルな世界の住人が作り出したものですし、それによって感化される人もまたリアルの住人です。


※ バーチャルって意味でもないんでしょうけど、目に見え触れられるのがリアルで、目には見えないけど触れることが

  できないネットは非リアルだという感覚を持っている人もいます。


誰かのブログは、実在する誰かが書いたものですし、何らかのWebサービスを使って、そこで得たつながりや喜びを得ているのも実在する誰か。

例えブログをブログペットのような人口無能的ボットが作り出したとしても、そのボットを作ったプログラマの意思がそこに宿っていますし、そのブログペットを設置することで喜ぶ人もいます。


ネット上での活動そのものが仕事だという人もいますし、そこで得たものがその人の活力になっていたり。

そういう人にとっては、ネットとリアルの境界というのは限りなく薄いでしょうし、その感覚というのもネットだからリアルだから、という感覚ではないでしょう。

当たり前のようにネットと付き合い、当たり前のようにネットの世界に飛び込んでいってると思います。

つまりは、ネットさえもリアル。


その言葉に疑問を感じる人は、単にネットの面白さを知らないだけで、それはゴルフが好きでたまらない人が「ゴルフをやらないやつは人生を損してる」って思うのと同じ感覚かなと。

そういう意味では、自分はネットをやらないやつは人生を損しているとは思いませんし、単に個々の人の感覚の問題なのではないかなと思ったりしてます。


逆に、ネットがリアルに浸透するというか、ビジネスにおいてネットの優位というものを活かそうとする企業がより多くなってきますので、人生を損しないまでもネットを使う人とそうでない人とでは、生活する上で損をすることは出てくるかもしれません。

(今回のネットとリアルの境界というのは、個人が受ける感覚的なところを議論したかったので、それ以上は言いませんけど)


話を戻して、ネットとリアルという言葉や個々が受ける感覚が薄くなってきたのは、ネットの世界が機械仕掛けの無味乾燥した世界から、人間味を帯びてきた証拠なのかなと思ったりもします。

ここ数年でネットが発展したところって、コンピュータの世界という感覚を人々の頭の中から取り払ったところにあるなと感じます。