箇条書き的に要約しますと、
2009年の政権交代前までに
自公政権時代によって進められた「道州制」の
性格・特徴は
○「道州制」は、
公務員の削減をふくめて、
1946年制定の「日本国憲法」が、
〈主権者である国民〉に保障している
「住民福祉/国民福祉への
〈自治体政府&国家政府〉の行政責任」を、
”根本から否定する”行政分野の重点的再編成」であること。
○「府県制」が”廃止”されて、
”広域自治体”である「道州制」の導入により、
じぶんが暮らす、広大な面積の〈州自治体〉では
リコールや住民投票の条件を満たすのが、
人口面かつ面積面で
非常に困難になってしまうために、
「自治体政府への民意の反映」手段が、
実質的に殺されてしまう。
しかも
○「中央省庁の官僚から権限を奪う」
という大義名分の下、
”国民受けのいい”「道州制」論だけど、
「法務・財務・総務省系の事務」は
移管対象とはなっておらず、
また、ほかの移管される事務ですら、
「国が本来果たすべき役割に係るもの」として
分類されて、結果的には
中央省庁の「権力的関与」の余地が
大幅に確保されてしまっている可能性のある怪しいもの
大幅に確保されてしまっている可能性のある怪しいもの
○さらに、
「〈中央省庁〉へのアンチテーゼ(省庁改革)」
として主張される「道州制」論だけど、
その中では、
○〈国〉と〈自治体(道州・基礎自治体)〉の役割が、
それぞれに分業(明確な役割分担)されるに伴って
〈国家政府〉
|
〈道州政府〉
|
〈基礎自治体〉
という三層の垂直的関係=タテ関係に置かれ、分業特化された「国の専管事項」に関して、
「仕組み」として、いま以上に〈地方自治体〉は、
口出しできなくなる。
その事から、道州制の導入により、
戦前の「明治憲法」下の日本帝国よろしく、
「〈国〉が〈地方自治体〉を
”フリーハンドに統治する”ことのできる地方制度に
つくり直す」ための改革”、
または“〈国〉と〈地方自治体〉を
「上限関係に置き直す」改革といえる。
だとすれば、「道州制」は、
どういう意味を持っているのでしょうか?
〈国民・住民〉には意味がないどころか、
踏んだり蹴ったりの「道州制」だけれども、
新自由主義を突き進めたい〈財界〉には、
大いに意味がある「道州制」ということでしょうか?
”民主党は結党以来「地方分権」を強調し、
かつての橋本構造改革批判においても分権の不十分を指摘し、
分権の「本家」を強調していた。
2005年のマニュフェストにおいて「道州制」を掲げて以降、この間、
民主党は「道州制」について多くを語ってこなかった。
むしろ、小沢一郎の全国300自治体論などの「一層制」自治論や
広域連携・連合といった議論が中心となり、
結集するスローガンは曖昧化していたのが実情であろう。
しかし、
民主党と日本経団連との関係がギクシャクしつつある中で、
猛然とプレッシャーをかけたのが経済同友会であった。
2009年10月に『地域主権型道州制の導入に向けて』、
2010年5月に『道州制以降における課題
――財政面から見た東京問題と長期債務負担問題』を
矢継ぎ早に公表した。
一般的に道州制については、
自民党安倍内閣時代の担当大臣を置いてまでの取組みが
一頓挫して以降、今日の状況を「腰が据わらない」状態である
とマスコミ等では認識されてきた。
つまり先が見えないというわけである。
確かに、これまでの道州制論は、
先に紹介した高橋洋一の議論(※1)などのように、
非常に鮮明な「財合理化」(リストラ)を隠さないものもあったが、
現実の政治力学を反映した中では、
強く打ち出せる内容は、
「国民受けのよい」公務員の削減や
これと結合した「中央集権から地方分権へ」
という一般的な議論、
せいぜい中央省庁の再編議論程度に終わり、
地方交付税の財源保障機能から
水平的な財政調整機能への変質問題などは、
未成熟な議論を提起したところで
国民の議論や政治争点に格上げされることは
まずなかったといってよい。
つまり道州制の本質、
それに伴う現行税財政制度の再編といった「制度論」は、
国民の議論の対象となることはなく、
それが道州制論の盛り上がりの障害になってきたのである。”
(渡名喜庸安・行方久生・晴山一穂 (編著)
『「地域主権」と国家・自治体の再編~現代道州制批判~』
日本評論社 2010年 P.15)
◇◇◇◇
自公政権時代に、
その輪郭が、かなり明確になってきた「道州制」ではあるが、
”「道州制」については
明確にその概念が確立されているわけではないし、
本書で検討しているように、制度的・法的な位置づけについても
諸説があり、
つかみどころのない部分を持っている。
民主党に関していえば、
これまでの選挙マニュフェストにおいて
「道州制」を主張したこともあるし、
また掲げていない場合もあった。
このような「道州制」導入の国内政治における位置について、
進藤 兵は
「9条改悪および恒久法とはちがって、
地方自治条項改悪および道州制は、
アメリカ合衆国政府からの圧力がなく、
もっぱら国内の支配層によって推進されているため、
国内政治、とくに地方政治での
支配層―被支配勢力の力関係が転換すれば、
その推進力も弱められる。
実際、道州制推進論者たちが、
国民の間に強い支持がないことに悩みと焦りをもっている。
このため、道州制論議は、恒久法論議よりも
ずっとゆるい時間尺度で行われている。
たとえば、日本経団連は2015年道州制導入を提言し、
道州制ビジョン懇は
2011年に道州制推進基本法の成立
→2018年ころに都道府県制度廃止、
道州制導入
を提起している。
その上、かつての『首都移転』論議のように、
一時は盛り上がりを見せても、国内政治の力関係の転換によって、
結果的に頓挫する可能性もある。」と述べている。
もちろん、アメリカ合衆国からの直接の圧力のみが
日本の政治力学を左右するわけではないが、
新自由主義的構造改革の推進と一体のもの、
その従属変数として道州制を位置づけることは
今日の情勢の下でも重要な視点である。
また、道州制を論議すること自体が、
構造改革推進の政治に前向きのインパクトを与えるということが、
議論の活性化の条件であり目的でもある。”
(同上 P.9)
※ 強調は引用者。
(※1)高橋洋一「幸福度を高める道州制プラン」『Voice』2009年2月号
前回の引用文に
うえの二つの引用文を加えると、
「道州制」とは、
「新自由主義的構造改革の推進と一体のもの」で、
新自由主義的構造改革の「従属変数」として
捉えることができるが、
その新自由主義政策の一環としての「道州制」などは、
アメリカからの圧力がかかっている
「9条改悪」や「恒久法」とは”違って”、
“〈アメリカ合衆国政府〉からの圧力がなく”、
”もっぱら〈国内の支配層〉によって推進され、
要求されている”と言うようです。
だとすれば、「道州制」は、
〈自民党〉〈維新の会〉〈みんなの党〉〈公明党〉〈民主党〉〈生活の党〉などが推進意向であることを
見ると、
〈対米従属的道州制推進政党〉と
〈対米自主独立的道州制推進政党〉とに
分類整理、
言いかえれば
〈対米従属型新自由主義推進政党〉と
〈対米自主独立型新自由主義推進政党〉とに
分類整理することができるのではないでしょうか?
ちなみに〈みんなの党〉の2012年における
憲法改正についての基本的な考え方では、
「道州制」に合わせて、憲法を変えることが
掲げられています。
このことは、「道州制」が
現行憲法と”相容れない”ことを
了解していることの裏返しでしょうか?
<関連記事>
○ <20世紀憲法としての「日本国憲法」が、保障してくれている「当たり前(?)」>
○ <GHQの憲法草案に込められた三つの国家構想>(2)
○ 「地方分権/道州制」が危ない!記事一覧
○ 小沢一郎/小沢民主党/キャッチボール体制記事一覧
○ 小沢一郎氏「小さくても力強い政府!?」~財務省の”不可解な動き”~