私自身、『殉愛』に関連して、こんなに何度も記事を書くことになろうとは予想していませんでした。このブログは標題からして「歩く」ことが主テーマであって、本来、時事ネタ、芸能ネタとは無縁なので、いつまでもこの件について書いていてよいのだろうかという気がする(だんだん同好の士が離れていっているような気がする・・・)のですが、なにせ、百田氏が、次から次へとネタを提供してくれるので、書かずにはおれなくなってきます。


私は、これまでのブログの記事で、百田氏について、「自分の器を超えて、ノンフィクションにまで手を出してしまった結果、杜撰な取材による穴だらけの『殉愛』という本を書いてしまったこと」、「『殉愛』を批判する人々を単なるアンチによるクレームと受け止め、不誠実な対応をしたこと」を書きました。

しかし、なぜ、百田氏がこのような行動をするに至ったのか、その理由が判然としませんでした。さくら氏への思い込みが強かった、本を売りたかった、目立ちたかった、自分の地位を高めたかったというだけでは、理由が弱いような気がしたからです。


昨日、百田氏は、次のようにツィートしました。


その1
その2


例によって百田氏のツィートは、主観的、観念的で、自分は信念に基づいた正しい行動をとっているのに、無理解者が多く理解されない、でも、そんな無理解者の批判に左右されることなく(耳をかすこともなく)自分は信念に基づいて行動するのだ、どうだ、まいったか・・・・・みたいな内容になっています。


具体性がなく、丁寧に理解を求めようという姿勢がないので、一つ一つの語句や言葉尻が人によっていろんな風に解釈でき、つっこみどころ満載になっています。そのため、批判に拍車をかけるだけの結果になっています。私には、このツィートで百田氏が何を表明したいのか、さっぱりわかりませんでした。


ツィッター上で、作詞家の及川さんは、「曽根崎心中のようなつもり」と、@lkj777さんは「百田さんは自分の信念に向かって自己を犠牲にするのが好きなんです。作品の主人公は大体そんな感じ。百田の中ではこうすることがヒーローで男。」と教えてくださいました。


私は、先のブログ記事でも書いたように、百田氏の他の作品を読んだことがなかったのでわかりませんでしたが、このお二人の発言のおかげで、なんとなくわかったような気がしてきました。


すなわち、百田氏の行動の根底にあるものは「殉ずる」という行動への強い憧れと尊敬、そして自分はその実践者でなければならないという思い込みなのではないでしょうか。


辞書を紐解くと、「殉ずる」とは、「主君などの死を追って死ぬ。殉死する。」、「ある人に義理立てして、同じ行動をとる。」、「ある物事のために命を投げ捨てて尽くす。」などと説明されています。


本来の「殉ずる」ということ自体の是非、賛否については、ここでは触れないことにします。話がややこしくなるからです。賛否はあっても、忠臣蔵、乃木希典、特攻隊などの例を出すまでもなく、日本の美学の一つとして、古くから日本人の心の中にあるものです。


「殉ずる」という行為が民衆から支持されるには、殉ずる相手の大きさ、強さがものを言います。それが大きな要素の一つです。ショボい対象物に殉じたのでは「騙されやがって」「馬鹿な奴め」で終わりです。


それでは百田氏の「殉」は何に捧げられたのでしょうか。さくら氏への愛というだけでは弱いように思います。おそらく、たかじん氏に殉じようとしたように見えたさくら氏に感動したことがきっかけにはなったのでしょう。そして、このような話を世の中に大きく広めようと考えたのでしょう。ここで、「売れる」、「儲かる」、「これで評価が高まる」などの邪念が働いたのではないかと思いますが、今回は、そのことは置いておきます。


そして、百田氏は徐々にさくら氏の実体を知り、自分が考えていた女性像とは違うことに気が付き始めたのかもしれません。しかし、ここからが常人とは違うところです。百田氏の心情を推し量ると「例え、さくら氏がどんな人であろうとも、最初に信じて担ぎ上げたのは自分だ。いったん神輿を担ぎ上げたからには、誰に何と言われようと神輿から落とすわけにはいかない。担ぐのをやめるわけにはいかない。途中止めするなど男のすることではない。自分が信じないでどうする。これが殉ずるということだ、男の美学だ。」というところではないでしょうか。すなわち、いったんさくら氏を担ぎ上げた自分の行動自体に陶酔し、殉じている(気になっている)というところだと思います。


この際、担ぎ上げたことで迷惑がかかった人がいるということに考えが及んでいないことは言うまでもありません。なにせ「殉ずる」行動に異を唱える者は排除しなければならないのですから。


「殉ずる」という行為には、理性や合理性は邪魔なものです。殉ずる対象を決めるまでの過程では、いろんな判断の余地はあるでしょうが、いったん殉ずると決めたからには、それをひたすら信じてまっしぐらでなければなりません。自分のしていることは正しいのだろうか、これでいいのだろうかなどと考え始めたら殉ずることなどできません。誰が何を言おうと信じ切ること、これが殉ずることの条件です。他人の言うことをいちいち聞くなど論外なのです。(この点、得体の知れない宗教を盲信している人の心理や行動と似たところがあります。)


百田氏は、殉ずるということ自体に酔っているのかもしれません。昔、東映の任侠映画で高倉健や鶴田浩二を見てその気になって、映画館を肩で風切って出てくるアンちゃんを思い出します。


このように考えると、ファンの意見に一切耳を貸そうとしない百田氏の一連の行動や発言がわかってくるような気がします。何を言おうが「糠に釘」、「馬の耳に念仏」そして「百田に意見(←新語)」になるのです。


ただし、百田氏は「殉ずる」という行為に憧れはあっても、確固たる信念になるまでには及んでいないと思います。微動だにしない信念であれば、ちょっとやそっと批判されたくらいで脊髄反射的にいちいち反応したりはしないからです。そこに自信のなさが表れているし、綻びが出ています。


そして、昨晩の、強がりとも思えるツィートは、多数の人に理解してもらうための発言というよりも、「自分は信念に殉ずるのだ、これで正しいのだ、これが美学なのだ」と自分に言い聞かせ、自らを鼓舞するために行われたように思えます。そうだとすれば、迷いが生じ始めている証拠です。


結局のところ百田氏は、殉ずるという行為に陶酔しつつも、まず殉ずる対象の選定がいい加減で誤ってしまったこと、そしてその信念自体が盤石ではなかったため中途半端になってしまったことで、現時点に至っているのだと思います。


このように、百田氏が観念と抽象の思い込みの人だとすれば、法廷には向いていません。法廷は、そのような観念的な思い込みをできるだけ排除し、客観的な事実に基づいた合理的な判断が求められるところだからです。百田氏の信念などが通用するところではないのです。


- 終わり -


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4回目 疑惑のたかじんメモ(百田尚樹『殉愛』を巡って)⇒コチラ
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