2015/01/19一部修正 誤字等のご指摘を受けたので訂正しました。お恥ずかしい限りです。


2015/01/21一部修正 予想以上の数のアクセスをいただいたので、気が付いた誤りを修正しました。まだまだ不適当な部分があると思いますが、キリがないので、これで一区切りとしたいと思います。同様に、前2回の純愛関連の記事についても、今となっては不適当と思われる部分が散見されますが、今から修正してもわけがわからなくなるだけだと思いますので、あえて、そのままの記述としています。よろしくお願いします。(一回目の記事はコチラ 二回目の記事はコチラ )


程度の差こそあれ、他人から好評価を得たいという気持ちは多くの人が持っています。日本中に、世界中に名を広めるというデカいものから、家族や一定グループの友人、同僚から一目置かれたいという小さなレベルのものまでさまざまです。


パイが大きくなればなるほど、多くの人から好評価され賞賛されるためには、一定レベル以上の素養が必要です。それは、容姿であったり、知識であったり、能力であったり、誠実さであったり、財力であったり、一生懸命さであったりさまざまですが、そのいずれで勝負するのであっても一定以上のレベルにあることが求められます。誰も自分と同レベル以下の人をほめそやしたり尊敬したりしません。


知人、同僚からほめそやされるレベルと、全国的に喝采をあびるレベルとはおのずから差があってしかるべきなのですが、時に、凡庸と思われる人が、ツボにはまって一時的に成功し、多くの人から喝采を浴びることがあります。代表的なものに「一発屋芸人」がいます。


一発屋芸人は、ある程度のセンスと才能に加えて、たまたまというか、タイミングというか、運が作用して脚光を浴びただけなので、やがて一線からは退いていきますが、責められることはありません。本人に何の罪もないからです。その「一発」すらない人のほうが大勢を占めることを思えば成功者と言えるのかもしれません。


しかし、何かインチキめいたことや虚飾、粉飾などによって画策し、舞台の中心に躍り出た人は、それがばれた場合の反動は凄まじいものになります。舞台に上がる前の状態に戻るだけでなく、たたき落とされるくらいの勢いです。


昨年の一連の事件で脚光を浴びた佐村河内さんとか野々村議員とかは、まさに、それです。能力がないのに、実際以上の能力があるように見せて脚光を浴び、多額の報酬を得た者の末路としての代表的事例です。

もっと広げれば菅直人もそうです。市民運動をやって中央政権批判をやる人物としてはよかったのですが、国会議員になり、厚生大臣になってエイズ問題で名を挙げた頃から勘違いして身の程をこえてしまい、自らの器の大きさを把握することができなくなり、とうとう自分の器よりはるかに大きい総理大臣にまでなってしまいました。その顛末は周知のとおりです。実体以上に世間に勘違いされ、絶妙のタイミングでツボにはまって一時的に喝采を浴びた人は、メッキが剥げたとき、本当に哀れなものですが、ここまで来ると、自分自身だけではなく、日本国民全体を不幸に陥れるわけですからその罪は大きいです。もっとも、これは、この程度の器の人が総理大臣になってしまう状況を作ってしまった日本国民全体にも責任があります。


百田尚樹さんの「殉愛」を巡る一連の騒動を見るとき、これらの人と同類だな、と思わずにはいられません。百田さんも、さくら氏も、「殉愛」を出版して目立とうとさえしなければ、ここまで批判にさらされることはなかったのです。身の程をわきまえておけばよかったのです。


百田氏の失敗


今では、一般の人から、作家の資質や人間性さえ云々されるようになった百田さんですが、もともと百田さんは、文体の品格とか、綿密な取材に基づく事実とか、高邁な思想などを売り物にしていたわけではなく、多くの人が興味を持ちそうな隠れた題材(ネタ)を見付け出し、それに脚色を施して、リズムある文体で一気にたたみかけて飽きさせず読ませていく、というところが武器であり、それが多くの人に受け入れられていたのだと思います。そこに需要があり、百田という人の存在意義があったのだと思います。


放送人出身の人には多いのではないかと思いますが、常に「視聴率」にさらされて来た人にとっては、とにかく多くの人に「おもしろい」と言って見てもらえるということが第一で、質とか品格というものは、その次に来るものなのでしょう。


多くの人は、ワイドショーでもドキュメンタリータッチのものでも、およそTVの娯楽番組というものには、それが全くの嘘では困りますが、オーバーな表現や、多少の尾ひれなどの演出はつきものだと思って見ています。特に芸能関係はその傾向が強く、ある程度多くの人から許容されてきています。


そういう世界に身を置いている百田さんですから、そもそも純粋に小説の世界で生きてきた人と単純比較するのが間違いで、百田さんには百田さんなりの世界があったのです。ウケる題材を探し出してくる能力、それを脚色して、たたみかけて読ませる文章には人並み以上のものがあったはずです。ですから、その器の範囲で粛々と活動を続けていればよかったのです。(注)


注;前のブログでも触れたように、私は、殉愛以外の百田さんの本を読んだことがありません。したがって、ここで書く百田さん評は、殉愛と、その他の報道や、ツィッターの発言などから勝手に想像したテキトーでいい加減なものです。ご注意ください。


それが、いつしか政治を語ったり、NHKの経営委員になったりするようになりました。この時点で、既に身の丈をえてしまったと思うのですが、何を思ったのか、とうとうノンフィクションに手を染め、「殉愛」を書いて大宣伝をかましたばっかりに、ボロが出てしまったのです。これが大きな間違いでした。


正統ノンフィクションは、地道に調査して、真求探究して事実をきっちり整理して、問題を明らかにし、第三者的、客観的、公平な立場から冷静に筆を進めていかなければ説得力が産まれず、薄っぺらな暴露本に近いものにしかなりません。面白さ以前に、正確性、信頼性、誠実性が求められるのです。その点、百田さんはその対極にあり、全くがないのは自分でもわかりそうなものですが、調子に乗ってしまったとしか言いようがありません。


それでも、さくら氏からのヒアリングのみを根拠に書いたというだけであれば、愚かというだけのことで、傷は浅かったと思うのですが、知りもしない人のことを(ろくに調べもせず)蔑み、貶める内容を記述してしまいました。現存の一般人を批判する場合には慎重のうえにも慎重でなければならないのは常識とも思えるのに、この罪は大きいと思います。


この件で、百田さんはノンフィクションには向いていないことが多くの人に知れわたったし、多くの間違いを書いてしまったこと、それを頑として認めようとしないことで、その信頼を失い人間性さえ云々されるようになってしまいました。本来の百田さんの持ち味であり存在意義である「埋もれていた題材を掘り起し、面白く読ませる」ということが完全に失われるわけではないと思いますが、これまで書かれた本や、これから書かれるものについても「このようないい加減なノンフィクションを書く人」という情報がインプットされてから読めば胡散臭さや傲慢さが先に立ってしまって面白さが半減することでしょう。そう感じる人が増えていけば、これまでより百田さんという人物の評価が下がることは避けられないと思います。


ただし、世の中には、この殉愛騒動のことをあまり知らず、ネットの情報など殆ど見ない人も大勢いらっしゃいますので、これで、百田さんの本が全く読まれなくなる事態までにはならないとは思います。一定以上の読者を維持し続けることになるでしょうが、望むなら、百田さんが「殉愛」の失敗を認めてケリをつけて初心に戻ることを表明して作家活動を続けるならば、離れていったファンのうちの何人かは帰ってくる可能性はあります。需要はまだまだあるはずですから。ただし、たかじん氏に思い入れがある人たちは、一生許さないでしょうね。


さくら氏の失敗


この百田さんより、もっとバカなことをしたのが、さくら氏です。彼女のしたことについては、ネット民と言われる人々が探究を続けていますが、その多くは、確たる証拠まではないものの、諸状況を勘案すると、ほぼ事実ではないかと思わせるに十分な内容です。


既に確定した事実だけを見ても、さくら氏が常人でないことは明らかです。例えば、以下のことは、さくら氏自身が手記などで認めている確定事実です。


3回以上複数回の離婚を繰り返していること、

  注;離婚回数については4回とも5回とも言われていますが、さくら氏本人は「ほかにも離婚歴がある」と言っているだけなので、正確を期して「複数回」と記述。2015/01/21修正
② イタリア人との婚姻中に日本に一時帰国したときに(FBで偶然)知り合ったたかじん氏の介護を行うことになり、たかじん氏が余命いくばくもないとわかった時点(死亡3か月前)で婚姻したこと(イタリア人と重婚関係にあったかどうかは不明)、

  注;「純愛」ではFBを見たたかじん氏から連絡があったことがきっかけとされていますが、どうも信憑性にかけるような気がしますので、この部分はカッコ書としました。2015/01/21修正
③ 死亡時に親族を呼ばなかったこと、荼毘にふすときも娘さん以外の親族(実母、実兄、実弟など)を立ち会わせなかったこと(なのに、なぜか弁護士を立ち会わせている)、

 注;お兄さんは当時、既にお亡くなりになっていますね。2015/01/21修正


④ たかじん氏の介護に当たって、たかじん氏と業務委託契約を結んでおり、その契約を根拠に、たかじん氏の金庫にあった1億8千万円は自分への報酬であり、たかじん氏の遺産ではなく元々自分のものであると主張していること、

 注;この1億8千万円は、結局、どうなったのでしょうか。2015/01/21記述追加

これらは犯罪とまでは言えないし、(判明し確定している事実だけでは)法律上の問題はなさそうなので、正面切って批判するには当たりませんが、日本人の一般常識、慣習からは、かなり逸脱しています。


しかし、常人ではない所業とは言っても、「殉愛」に書かれさえしなければ、近所のオバちゃんや、一部の知人などから「怪しい人」「変な人」として、ヒソヒソ噂されるくらいですんだことでしょう。一部の人間から怪しまれ、一時は週刊誌に書きたてられたとしても、時の経過とともにやがて忘れ去られ、たかじん氏の遺産と、看板料、印税などで悠々自適の生活を続けられたはずです。まだ若いので、再婚(何回目?)して新しい家庭を築くことにも支障が生じることはなかったでしょう。


それが「殉愛」によって、その怪人ぶり非常識人ぶりが多くの人の目に晒されることになりました。「殉愛」がTV番組で大きく取り上げられた頃から、さくら氏とは何の関係もない多くの人からの批判が続出しました。


これが、百田氏やさくら氏の大誤算でした。おそらく二人は、「殉愛」が、すばらしいノンフィクションとしてほめそやされ、さくら氏は健気で献身的な未亡人として同情され、もてはやされる、という絵図を描いていたのでしょう。大きな勘違いと言わざるを得ません。


こんなはずではなかった、こんなことになっているのは誰かが余計な動きをしたからだ、そして、その動きに無責任に乗っかっている多くの愚民によってこのような破目になっているのだ、と考えたのでしょう。それが、百田氏の下品なツィートにも表れているし、さくら氏が打越氏を名誉棄損で訴訟するという行動に結びついたのだと思います。


しかし、「目立つ」ということは、こういうことなのです。多くの人から注目される立場に立てば、一定の割合のアンチが出てきます。多くの人に知られれば知られるほどアンチの数も増えてきます。多くのファンに愛されてきた王選手、長嶋選手のような人でさえ一定のアンチはいました。しかし、王さん、長嶋さんなど実力によってその立場を得た人は、アンチから何を言われようがその立場が揺らぐことはありませんが、それは、多くの人の目に晒されているというプレッシャーに耐え抜くだけの覚悟と強靭な精神力があってこそです。王さんなどファンから卵をぶつけられたこともあるくらいですが、どこぞの作家のように、幼児っぽくヒステリックに批判を繰り返したりはしませんでした。


全くインチキなどない人でも一定以上の批判にさらされます。芸能人など、何の非もなくても、虫がすかない、気に入らないというだけで、あれこれ好き勝手言われるのです。ましてや、さくら氏のように、実体以上の虚飾によって成り立っていると思われる人物が、多くの人の目に晒されるプレッシャーに耐え抜く覚悟もなく、ただほめそやされるだけの状況しか思い描いてなかったとすれば、それは、愚かだったというほかありません。


そう考えるとき、さくら氏が打越氏を名誉棄損で訴訟した意味が全く理解できません。打越氏のラジオ番組での発言などが訴訟の対象になっているようなのですが、この訴訟によって、仮に(万一)打越氏の発言に事実誤認が認められ、又は、さくら氏に有利な事実が確認され、訴訟に勝利したとしても、それが、さくら氏にとって何になると考えているのでしょう。


さくら氏にまつわる情報には、(事実だとしても)確たる証拠がないものが多く含まれていますが、仮に(万一)それが全て誤りだったとしても、既に確認されて間違いのないことが判明している事実だけを並べても、さくら氏という人物の化けの皮は剥がれてしまっているのです。全ては、身の丈を超えて自分をよく見せようとしたことに原因があるのです。


終わりに


百田氏、さくら氏は、自らの身の丈を知らず、世間から喝采を浴びることだけを想定し、世間からの批判に対する構えができていませんでした。典型的な自分大好き人間です。とりわけ、さくら氏は、世間の一般常識にも欠けていたと思います。たかじん氏が亡くなったときに、世間の常識に照らして、親族を呼び寄せ、火葬や葬儀などを親族と相談して執り行ってさえいれば、ここまで攻撃を受けることはなかったでしょうに。深謀遠慮の悪人であれば、そういうところはきっちりうまくやって世間の目をごまかしていたと思うのですが、その点、さくら氏は考えの浅い非常識な自分大好きだけの人間なんだなと思います。


かくいう私も、このような批判めいたブログを(何の関係もなく能力も権限もないのに)いけしゃあしゃあと書き綴っていますが、批判は誰にも好き勝手にできるものです。批判する側よりも、批判に対応する側のほうがはるかにパワーを要し、器の大きさを必要とするはずです。衆目にさらされればさらされるほど、非がない場合であっても、何らかの批判は受けるもので、それをすべからく全て排除することなどできるわけがないのですから。


「殉愛」による一連の騒動は、身の丈を超えて目立とうとしたり実体以上の評価を得ようとするとロクなことにはならないということを再認識させられます。自らをよく知り、身の程を知って、自分に見合うだけの評価を受ければいいだけなのです。多くの人から高い評価を受けたければ、虚飾やインチキではなく、努力によって自らを高めていくというのが正道でしょう。


殉愛についての一連の騒動の事実関係は、一部のネット民には情報共有されていますが、それは限られた人だけです。やっと週刊誌、月刊誌で取り上げられて記事になるようになりましたが、その読者層も限られています。一般的に広く共有するためには、何と言ってもTVのワイドショーがこぞって取り上げることでしょうが、どこのTV局も様子見をしているのか、または、「殉愛」に固執しなくとも次々と新しいネタが出てくるので、取り上げるメリットがないと判断しているのか、放送される気配がありません。一番いいのは、最初に取り上げた金スマが事実関係を整理して、検証、総括の意味をこめて放送することだと思うのですが、世間うけしそうなネタはほかにもたくさんありそうですからね、殉愛にだけかまけているわけにもいかないということなのでしょうか。


結局のところ、たかじん氏に思い入れのあるネット民の執念がどこまで届くかに今後がかかっているのでしょう。彼らの執念、調査能力は想像以上のようです。


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