百田氏の『殉愛』に関しては、これまで、その取材の杜撰さや、さくら氏の不可解な行動、これらに対する読者からの疑念、百田氏の誠意に欠けた対応について、私個人の感想として、いくつかの記事をブログに書いてきました。


これまでに書いたように、この件は、この二人の常識を逸脱したような行動や言動、そして次から次へと湧いてきて拭おうとしても拭いきれないほどの疑惑の数々が、現在の事態に至らしめています。


私は、このような疑惑に対する批判や、事実の掘り起し行動は、その真偽云々以前に、百田氏とさくら氏が、ファンとともにあった活動期のたかじん氏とその親族、友人を全面否定し、死亡前の僅かな期間におけるたかじん氏だけが美しい姿であると整理したこと自体に、全ての根源があると考えるようになりました。


多くのたかじんファンは、活動していた頃のたかじん氏しか知りません。その頃のたかじん氏は憑き物がついていた状態で、死亡前僅かの期間に、さくら天使のおかげでその憑き物がとれて真実の姿になったというのです(TVで、丸い人がそのように言っていましたね。)。多くのファンは、その憑き物を応援し支援していたというのです。これは、たかじん氏だけではなく、完全にファンを愚弄、冒涜していると思います。


考えてもみましょう。もし、『殉愛』が、たかじん氏が活躍していた期間にスポットをあてて書かれていたら、親族や元マネージャーを侮蔑するような記述がなかったら、そして、さくら氏の献身的介護とやらが、添え物的に小さなエピソードとして書かれた程度だったら、ここまで批判が渦巻いたでしょうか。例え、少々取材が杜撰であったとしても、少々の事実誤認が存在したとしても、さくら氏の行動が異常であったとしても、ここまでの反響になったでしょうか。(少しはあったでしょうけどね。)


活動期のたかじん氏を偲び、讃える記述であったなら、そしてさくら氏が、たかじん氏の親族も含め、生前お世話になった方々に対して、最低限の礼を尽くしていたなら、世間は、少々のことは大目に見ただろうし、怪しげなことも見過ごしたのではないでしょうか。


多くの人による百田氏やさくら氏への批判や不可解な事実関係の掘り起しは、「死亡前の僅かな期間だけがたかじん氏の本来の姿なんてことがあるはずがない」という思い(潜在意識も含めて)があり、『殉愛』の記述全体を支配する歪んだ思想と、その思想を決定づけたさくら氏の行動こそが誤り又は恣意的な策謀であり、そのことを明確にし、誤りを正さずにはおれない、という思いが根源になっていると思います。


そして、その延長上に、さくら氏の異常とも思える過去の経歴や現在の行動に対する批判、百田氏の発言や情報支配に対する批判があり、一見、このこと自体が中心になっているように思えますが、雪だるまの核は、たかじん氏と、そのファン、支援者の名誉回復であって、その余のことは核についてくる雪で、核を転がしたらどんどん雪がついて、雪だるまがどんどん大きくなっている状態なのです。名誉回復の運動が、不正を許さないと考えるたかじんファン以外の一般人をも巻き込んでどんどん大きくなっているのです。決して面白半分に藪をつついているわけではないのです。なんせ掘り起こせば掘り起こすほど、怪しげなことが次から次へと出てくるのですから大きくなるのは当然です。


誤りを正して尊厳を取り戻すことが核となっている以上、いくら冷静さを保とうとしても、百田氏とさくら氏のやることなすことが、インチキめいて見えてきます。高じれば、絶対にインチキに違いないという先入観で見てしまいます。


先のブログの第3回目では、百田氏やさくら氏も認めている確定事実について書き、第4回目では疑惑とされている多くのことを書きました。第4回目にあげたことについては、一部、思い込みもあるかもしれません。例えば、百田氏の報道支配は、書かれているようなこととは違うところもあるかもしれないし、疑惑のたかじんメモも、実際に本人が書いたメモである可能性を否定しきれているわけではありません。(ただし、第4回目の記事でも触れたように、ここまでいろいろ出てくるというのは尋常ではなく、私のように比較的遠い位置から見ている者にでさえ、全てがクロに見えてきてしまいます。)


百田氏やさくら氏は、批判や疑惑の掘り起しに腹を立てて訴訟騒ぎまで起こしていますが、これが、大きな勘違いなのです。これらのこと全てが事実として立証されるかどうかが根本的な問題ではなく、事実の確認は、たかじん氏とそれを支えた人々の尊厳回復運動の手段の一つであって、これが達成されない限り、批判や掘り起しの手が緩むことはないと思えます。


それどころか、もはや彼らの行動一つ一つではなく、人格そのもの、存在そのものについての批判が行われるようになってきています。数ある疑惑の行動の一つや二つが我々の思い違い、勘違いだったからといって、なにほどのこともありません。名誉毀損を連発するなど、思い違いもいいところです。


百田氏は、この尊厳回復のことを全く理解していないので、「関係ない者がしゃしゃり出て」、「・・ファンなどではない」、「人間のクズ」などと言い放っています。「関係ない者」ではなく、当事者の一人という気持ちで名誉回復を訴えているのだということに思いが至らないからです。一般人に対する謙虚さに欠けているからです。だから全てがアンチによる言いがかりのように感じてしまうのです。


百田氏は、大阪におけるたかじんファンを甘く見ていたと思います。(私も、たかじん氏がここまで支持されていた存在とは知りませんでした。)だから、単純なさくら礼賛の本でもウケると考えたし、病床に伏す前のたかじん氏や親族などを悪く書くことの問題意識も湧いてこなかったのでしょう。


百田氏とさくら氏は、自らへの批判が、尊厳回復運動の一環であることを理解しなければなりません。問題の根源が、たかじん氏とそれを支援、応援した人々の名誉を貶めたことにあることを理解しなければなりません。この理解がなく、単なる無理解者や好き者による因縁、クレーム、言いがかり、愉快犯のように捉えて対応を続けるならば、泥沼化に拍車をかけることは避けられないでしょう。


確かに、ネットの世界では、クレーマーや愉快犯のような人が多数存在します。ただ、私の見る限り、本件に限っては、そのような人は殆ど見当たりません。ただのアンチが面白がってやるのとはわけがちがいます。


それは、尊厳回復運動だからです。


- 終わり -


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