「外が、騒がしいようだね」
ゆったりしたソファに身を沈めた老人が、重々しく言った。
王宮奥宮からさらに奥……ひっそりとひと気のない回廊を、奥に奥に入っていった先にある、こじんまりした離宮である。
前女王クララの父にして前々女王プリステラの王配、大公デルモゲニスが、静かに日々を送る住まいだった。
夜ごと、日ごと、宮廷で開かれる催しごとに群れ集う貴族たちの嬌声も、この奥まった場所には届かない。
「……私にはなにも聞こえませんが」
デルモゲニスの言葉に答えたのは、老大公の側近くの椅子に腰掛けていた、深緑色の長衣をまとった麗人……ユグドラシルのロスマリンだった。隣国シャムロックからグレイルに遣わされているこの導師を、どういうわけかデルモゲニスは気に入っていて、時おり呼び寄せては話し相手をさせている。
デルモゲニスは小さく笑った。
「私は静けさに慣れすぎているのでね。少々の風のざわめきも、すぐ気づくのだ。……猫が騒いでいるのだよ。最近、コリドラス家のエネウスがしきりと追いまわしているからだろう」
「ああ、猫」
ロスマリンは頷いた。
コリドラス・エネウスの猫捕り物が、王妃メルルーサの肝煎で始められてより、すでに半月は経っている。
壁といわず屋根といわず駆け回る聖獣をとらえるために、コリドラス・エネウスには、いま現在、聖杯神殿の聖域を除くあるゆる王宮の区画に入り込むことが許されている。大声を上げて猫を追うコリドラス・エネウスの姿は、いまや宮廷生活の定番風景。「最近、必死のお顔で聖獣を追いまわすエネウス様のお姿を見ないと、王宮に伺候した気がしないですわね」などと貴婦人たちに言われてしまう始末である。
「……効き目はあるのかね」
デルモゲニスはぽつんと言った。ロスマリンは目を瞬く。デルモゲニスは眉をあげてロスマリンを見た。
「年を取るとうたぐり深くなってね。まじないの本場、フレイルの秘法と聞いても、どうもほんとうに効き目があるとは信じきれないのだよ。古馴染みの、グレイルのまじないではないからだろうかね」
「そのことなら、ご心配はご無用でございます、王父殿下」
ロスマリンは腑に落ちたように笑った。
「フレイルのまじないとやらについては、私もうさんくさいと思いまして、イール神学校の図書寮で文書をあたったのですが、なんと、古い秘法書に、かのヒゲの術が載っておりました。フレイルに伝わる正統の秘法のようです」
「……なんと。正統の秘法と」
ふむ。デルモゲニスは難しい顔でうなずき、顎鬚をしごいた。
「すると……エネウスが首尾よくヒゲを集められれば、コリドラス家は、必ずや安産で女子を恵まれるというわけだな」
「恐れながら……必ず効くまじないは、この世にございません、殿下」
ロスマリンは目を伏せた。
「すべての花が実を結ぶわけではないように、実を結ばぬまじないもございます。もろもろのまじないの中で、実を結ぶ割合が高い術が、正統と伝えられているということ。聖獣のヒゲの秘術は、そのひとつにございます」
「ほう」
デルモゲニスは感心したように言った。
「そなたのもの言いは正確だな」
「恐れ入ります」
「……となると、実を結ばぬかもしれぬまじないのために、コリドラス・エネウスは女神の御使いたる聖獣を追いまわして、ヒゲを奪っていることになる」
「猫の尻尾の毛を用いる正統のまじないも伝えられておりますよ。シャムロックにですが」
「まじないに『必ず』はないかもしれないが、聖天の女神が聖獣に恩寵賜るは、『必ず』のこと。この解釈は間違いかね、ユグドラシルのロスマリン」
「いえ。お考えのとおりかと」
「まじないのために煩わされた聖獣の鳴き声を聞き届けて、聖天の女神がコリドラスに懲らしめを与える気遣いも、なくはあるまい」
「あらゆる気遣いを加味した上で伝え残されるのが『正統』でございます」
「……『必ず』の話をしているわけではないよ、導師よ」
デルモゲニスは優しい口ぶりで言った。
ロスマリンの、形の良い薄い唇に、あるかなきかの微笑が浮かんだ。
「王父殿下は、コリドラス家に若君がご誕生になることをお望みですか」
はっきりと言う。
「………」
デルモゲニスは、小さく息をのんだ。やがて、声をたてて笑った。
「そなたの率直さは好ましいよ」
「耳慣れぬお褒めの言葉を、ありがとうございます。郷里では『率直』などとは、ついぞ言われたことがございません」
「ほう。どのような褒め言葉を、言われなれているのだね」
「美しいとか、美しいとか」
「違いない!」
デルモゲニスは爆笑した。笑いながら言った。
「そなたの率直さにこたえて、わしも率直にいくとしようか。……いかにもそのとおり。コリドラスのマイヤシーが女子を産むことを、わしは望んではおらぬ。あれの立場は複雑すぎるのだ。シャムロック人の君にはわかるまいが……女王とは貴重なものなのだよ」
「貴重であれば、姫のご誕生をお望みになられるのが普通かと存じますが……不躾ながら」
「貴重であればこそ、争いの種にもなりうるのだ。ひとりの女王が二冠を戴くことはかなわぬ! 現在フレイル王室にはオオジュリン姫があり、連枝にも姫があると聞き及ぶが、なにごとか災いがあり、フレイルとグレイル、ふたつの王統に残された女子が、マイヤシーひとりとなったら……どうなると思う」
デルモゲニスは顔をしかめた。
「ふたつの国の民は、ふたつながら、マイヤシーを女王にと望むだろうよ。よしマイヤシーがグレイルを選べばフレイルの民は、フレイルを選べばグレイルの民は、悲嘆にくれ、女王を勝ち得た国を恨み、妬むだろう。憎む心は災いを呼ぶ。まして国同士憎み合うことになったら、どれほど大きな災いがダイナスティアに降り注ぐことになるかわからぬ。……だからこそ……あの子は野に置かれているのだ。王子と結婚して、グレイルの王冠を戴くこともなく。マイヤシーは男子をしか産むべきではない。コリドラスの血に伝うフレイル王位継承権を、あたうかぎり早く低いものにできるように」
デルモゲニスは疲れたように言葉を止めた。ロスマリンは、考えながら言った。
「なるほど。マイヤシー様の御子が若君のみであれば、フレイルばかりでなく、グレイル王位継承権においても将来的にコリドラス家の順位は下がる……二重の意味で、問題は遠ざかりますね……」
「……む」
「しからば、エネウス様のまじないは成就しないほうがいい。必ず、ではないとはいえ、願いがかなう確率が高いからこそ『正統』なのですから」
「………」
デルモゲニスは無言だった。ロスマリンは続けた。
「王父殿下のお考えごもっともと拝察いたします。……ですが、不躾ついでに申し上げますが、たとえば私から王父殿下のお気持ちをお伝えしたとしても、エネウス様が聖獣のヒゲを諦められるということは、もはやありえないかと愚考いたします。エネウス様のまじないは、もはやエネウス様のみのまじないにあらず……ご存知のとおり」
「ほう。『ありえない』とは、なにごとも正確を期すそなたらしくない言い様だ、ロスマリン導師」
老大公は揶揄うように言った。今度はロスマリンがこたえない。デルモゲニスは肩をすくめた。
「……揚げ足取りには引っかからぬか。そなたがいきり立ったなら、エネウスに聖獣のヒゲを諦めさせる方法を考えついたと明かして、それでほんとうにエネウスが諦めるかどうか、試してみないかとけしかけるつもりだったのに。さすがはサンダーソニア女王が見込んでグレイルに寄越しただけはある。氷のように明晰な男だな」
「デルモゲニス殿下は私を買いかぶっていらっしゃいます。私は文書の書写に遣わされただけの、まだまだひよっこの導師にすぎません。愚鈍ゆえ、仰せの真意を解せず、失礼いたしました」
ロスマリンは一礼した。金褐色の真っ直ぐな髪が、深緑色の衣の肩に流れる。ロスマリンは顔を伏せたまま言った。
「ただいま王父殿下の仰せを拝して、殿下のご清廉に、つくづく感じ入りました」
「……ほほう、わしが清廉と申すか。どのあたりがだね」
「愚鈍の輩を、言葉を尽くして御意に導こうとなさるあたりが、でございます」
ロスマリンは顔を上げた。三代に渡ってグレイル王室を支え続けた大公デルモゲニスの、老いてなお鋭い眼光が、美貌の導師を矢のように射る。臆せず受けて、ロスマリンはにこりと笑った。
「自分で申すのもいかがなものかとは存じますが、じつは私は非常に清廉ならざるタチでして、金品でたやすく心がなびくのです。ことに上等の酒には目がございません。私がごとき馬鹿者を思し召しに添わすためには、お言葉は要りません。エネウス様の魔手から、聖獣のヒゲを守るべく手を打てば、美味しいご酒をたっぷり賜れるとのお約束をいただければ、喜び勇んで企みにとりかかることでしょう」
「………」
デルモゲニスは、目を細めた。
探るように言った。
「方策の心当たりは、あるのかね」
「そうですね、ようは、ヒゲ集めに倍して『正統』な理由で、エネウス様が聖獣を追いかけて走り回れなくなるようにすればいいわけですよね。この世に『必ず』のまじないはありえないことでもございますし、まあ方策は、いかようにも」
ロスマリンはあっさりと言った。デルモゲニスはため息をついた。
「……その美貌。その智謀。そなたがシャムロックの廷臣だというのは、つくづく惜しいな」
「よく言われます。あちこちで」
悪びれずにロスマリンはこたえた。
目を丸くして、つぎの瞬間、毒気を抜かれたように、デルモゲニスは笑い出した。
※IE5.5以上推奨。それ以外のブラウザをご使用の場合は、横書き表記になってしまっているかもしれません。すみません。
※ミニストーリー部分のみ縦書きで組み込んでみました。ツール作成石山ディレクター。ありがとうございます~!
このつぎの《女神様にお願い》
いままでの《女神様にお願い》
……第2話・王妃様にお願い
……第1.5話・レンカク男爵にお願い
……第3話・聖獣様にお願い
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