「待て! いや、お待ちください! 聖獣どの~!」
振り絞るような叫び声が、どこからともなく聞こえてくる。
そのとたん、王宮の廊下で談笑していた貴人たちは、潮が退くようにすばやく壁に張り付いた。まもなく、弾む毬のようななにものかが廊下の角から飛び出してきた。キジトラの毛並みの猫だ。貴人たちが開いた道を、しなやかに駆け去っていく。
「聖獣どの! どうか待って! お待ちください!」
叫びながら、近衛隊の制服の裾ひるがえしたコリドラス・エネウスが、廊下の角から飛び出してきた。身じまいの良さで知られた近衛隊士の、誇りたかい白い制服は、埃に汚れまくっていた。どこで引っ掛けたものか、あちこち布が破れてさえいる。
散々なのは服ばかりでない、エネウス自身もひどい。栗色の髪はざんばらに乱れ、あちこちに枯れ草が絡みついている始末。そればかりではない、顔じゅうに痛々しい引っかき傷がある。鼻の頂辺も派手に擦りむいて、真っ赤になっていた。サロンで王妃に愛でられている、いつもの貴公子ぶりの片鱗もない。しかし、自分のありさまを気にも留めぬようすで、エネウスは逃げ去るキジトラに突進した。
「お待ちください聖獣どのっ! 我が姉の安産のために、是非にも貴公のご協力が必要なのですっ! 聖獣どのっ、聖獣どの~っ!!」
異様な形相で追いかけるエネウスの手から逃れようと、キジトラも必死だ。
「きゃああああっ」
運悪く廊下の角から出てきた貴婦人に飛び掛り身体によじ登り、高々と結い上げた髪をジャンプ台にして壁に、梁に、さらにそこから明り取りの窓へと飛び移る。
「ああっ」
逃げられた。窓に飛び込むキジトラの姿に、エネウスは一瞬絶望の声を上げるも、
「なんの! 負けぬ! ふんっ」
廊下の隅においてあるガンガゼ(注:グレイルの誇る天才彫刻家。故人。作品はすべて国宝級)作の、巨大な大理石の彫刻によじ登った。
ちなみに彫像に姿を写しとられているのは、偉大なるアロワナ女王の夫君だ。常識で考えればあらゆる意味でよじ登るなど言語道断だったが、エネウスの動きにためらうようすはない。
ただいまの彼は、フレイルの玄妙な秘法を成就させるために必要な、十三匹の聖獣のヒゲを集めるまでは、王宮内のどのようなものによじ登り、どのようなものをかき分けてももよいと、国王フィルロードじきじきに許しを与えられているのだ。もちろん王妃メルルーサの口添えで。
ダイナミックな作風で知られるガンガゼの作らしく、彫像は、身にまとう衣のシワのひとつひとつまでもくっきりと表現されている。生身の人間の身の丈の倍ほどはある巨大な王配像の、肩口までエネウスは身軽によじ登った。そこでハタと動きが止まった。大変残念なことに、ガンガゼの像は、老境の王配をモデルに作られたものだったからだ。
つまり……若かりしころはフサフサしていたであろう場所が、ツルツルしている。
明り取りの窓には、彫像の肩口からでは、伸び上がっても、惜しくも手が届かない。
「ままよ。……御免!」
王配の像の肩を蹴り、エネウスはツルツルしたところに足をかけた。名匠渾身の鏡面仕上げに、長靴のカカトが滑る。見上げる貴婦人たちから悲鳴があがったとき、エネウスの指は、かろうじて明り取りの窓枠にかかっていた。
「ぐああっ」
雄たけびとともに、エネウスは指先に全霊をかけた。エネウスの身体が持ち上がる。ついに長靴が、窓枠のすぐ下に張り出した梁にかかる。
エネウスは鮮やかな身ごなしで窓枠をすり抜けた。白い翼にも似て、礼服の裾が鮮やかに翻る。エネウスの姿が、窓の外に消える。
「おお……」
見物人たちはどよめいた。誰からともなく拍手が湧き上がる。
つぎの瞬間だった。
「……うぅぉおっとっとっとっ……とわっ、うわあああああっ」
エネウスの絶叫が、窓越しに聞こえた。
つづいて、そこそこの重さのある「なにか」が、ゴツゴツした斜面を転がり落ちていくような、ゴロゴロという音が聞こえ……そして……。
……消えた。
「……おお……」
拍手をやめた見物人たちは、違った意味でどよめいた。
窓の外からは、のどかな小鳥の歌声しか、もう聞こえない。
甘やかな香りに鼻をくすぐられて、エネウスは微笑んだ。
――ああ……父上が花を活けておられる……。
フレイル出身の父は、花を飾るわざに長けている。ふつうの花瓶にだけでなく、平たいスープ皿や、顔を洗うタライ、ときには小さなインク壺までを花器に見立てて花を生けこむその腕前は、エネウスから見ると魔法的なものだ。
父によれば、フレイルの貴公子は、誰でも花の生けこみを叩き込まれて育つのだという。花だけではない、歌舞音曲、さらには書画や武芸、すべてに通じなければ、フレイルでは一人前の男だとは認められないというのだ。父の話を聞いて、幼いエネウスは、内心ホッとしたものだ。グレイルの男でよかった。ほかの習いごとはともかく、あまり器用なほうではないエネウスにとって、花枝を「少しずつたわめて」活け込んだり、「花と葉っぱの重なりが具合いいように」丹念に茎の長さを調整したりするのは、果てしない難事業だった。
花を活けるのは苦手だが、父の活けた花を見るのは好きだ。
「……今日は、なにを活けておられるのですか、父上……」
微笑みながら、目を開けた、瞬間だった。視界に飛び込んできたものに、エネウスは一気に夢から引き戻された。
ほとんど鼻先に触れている、大きな、満開の、瑞々しい……黄色いロサの花。
そして、麗しく芳しい花の風情からは想像もできないくらい凶悪な棘で武装した、ぶっといロサの枝。
「わあああっ」
一気に自分の置かれた状況を理解し、エネウスは飛び上が……ろうとして、悲鳴を上げた。
「い、痛てててててっ」
腕に足に髪に、絡みついていたロサの蔓が、一気にその棘でエネウスを引っかいたのだ。
ついたったさっき、逃げるキジトラの猫を追って、奥宮二階の廊下の明り取りの窓から、威勢よく外に飛び出したエネウスは、窓の外の屋根の予想外の急勾配に足をとられ、まんまとバランスを崩したのだった。
転んだ、と思った瞬間には、もう屋根からまっさかさま、転がり落ちて中庭のロサの茂みに突っ込んだ。
あの高さからの転落だ。打ち所が悪ければ、死んでいたかもしれない。助けてくれたロサには感謝しきりなのだが、いかんせん……ずっとこのままロサの生け垣に抱き取られているのは、あまりに痛い。
一刻も早く生け垣から外に逃れようとエネウスは手足をばたつかせた。さながら、茨の海で溺れるがごとくだ。しかし、エネウスが身をよじればよじるだけ、棘だらけの生け垣の深みに、白い礼服もろとも身体が沈みこんでいく。
ついに、ひとりではにっちもさっちもいかなくなったときだった。音楽的に冴え冴えとした声が、間近で、楽しげに言うのが聞こえた。
「おや、エネウス様。ロサの生け垣で遊んでらっしゃるんですか。なんだか楽しそうですねえ」
「……!?」
棘を差す枝にもくじけず、エネウスは首をねじり、声の主の顔を見た。
生け垣のすぐそばに、美しい人物がひとり立っていた。
濃い色合いの真っ直ぐな金髪を肩に流して、大きな瞳は陽に透ける若草のごとき緑。鼻筋はすっきりして、薄い唇に微笑をたたえている。深緑色の、司祭服によく似た地味な長衣をまとっているが、服装の地味さを補ってあまりあるほどの美貌だ。ほっそりと端整な顔立ちは、貴婦人めいても見えたが、すっきり立つ姿は、女性にしては大柄だったし、なにより冴え冴えとした声は、女性のものではなかった。
美しい人は、目を細めて言った。
「懐かしいですねえ。私も幼馴染たちと、よくロサの生け垣で追いかけっこをしたものですよ。ほら、ロサって、根っこに近いほうには棘がないでしょう。身を屈めてすり抜けるぶんには、棘に刺されなくてすむんです。鬼が近づいてきて、ビビって立ち上がったりすると、頬っぺた引っかいて血だらけになるんですよね。小心者ほど傷が増えたものでした。いやあ、楽しい遊びだったなあ」
「導師ロスマリン、助けてください……っ! この生け垣からなんとかして出たいんです……っ」
上体から茨の海に沈みゆきながら、かろうじて首だけひねって海面に出した無理な姿勢から、搾り出すように、エネウスは、美しい人に呼びかけた。
ユグドラシル学院、導師ロスマリン。
カレンデュラ海を隔てた隣国シャムロックの首都、リンデンのはずれにある世界最高学府ユグドラシル学院から、グレイルにしか存在しない貴重な古文書の書写のために遣わされてきている若き魔法使いである。外交をになう大使やその随行員ではない、あくまで書写、学問のためにグレイルに滞在している人物なので、晩餐会や舞踏会など、社交の場にはめったに顔を出さないが、度外れた美貌のため、宮廷での知名度は高い。……そう、ろくすっぽ口も利いたことのないエネウスが、顔と名を覚えているくらいには。
エネウスの訴えに、ロスマリンは驚いた顔をした。
「おや、なんだ、困っていらしたんですね。なんだかエネウス様、楽しそうに見えたから。てっきりご趣味でやっていらっしゃるとばかり思いましたよ。失礼いたしました。すぐにお助けいたしましょうね」
「しゅ、趣味じゃないです……」
こんな痛いことを、わざわざ趣味で行う人間がどこにいるというのか。エネウスは半泣きだ。
「救助のお礼はぶどう酒でかまいませんよ」
晴れやかに言ってのけて、美貌の導師は、女性のそれともまごうほっそりした手をエネウスの足首にかけた。
「ほう。フレイルの安産祈願のまじないのために、聖獣のヒゲを集めていらっしゃるのですか。なるほど」
王宮前庭、近衛隊舎である。
転落騒ぎのあいだに、キジトラの猫はどこかに逃げ去ってしまっていた。追跡をあきらめ、エネウスはロスマリンを隊舎にともなっていた。言うまでもなく、約束のぶどう酒をふるまうためだ。
美貌の導師の突然の来訪に、近衛隊士たちは色めきたった。ロスマリンを女性だと勘違いしたらしい。男だとはすぐに知れたが、それでもまだ色めきたっている。豪快にゴブレットを飲み干すロスマリンのために、隊舎の奥の樽から、隊士たちが入れ替わり立ち代り、接客テーブルまでお変わりのぶどう酒を持ってくる。
これで何杯目の酒か、ゴブレットに口をつけながら、ほんの少しも酔ったそぶりを見せず、ロスマリンは言った。
「フレイルに伝わるその秘術については、私も古文書で読んだことがあります。秘法が成就すれば、祈祷を受けた方のご安産はまず間違いないとか」
「なんと。ユグドラシルにも、そんな記録がありましたか」
エネウスは頬を上気させた。
「聖獣の秘法の効果に間違いがないと、ユグドラシルの方にまで言っていただけて、こんなにうれしいことはありません。……正直に言って、最近、王宮中の聖獣が、私の顔を見れば逃げ出すようになっちゃいまして、つらくなってきていたのですが……姉の安産のために、女子誕生祈願のために、あとちょっと、頑張ります!」
包帯ぐるぐる巻きの手を握り締めて、エネウスは力強く誓う。ロスマリンはふんわりと微笑み……。
ふいに、目を輝かせて手を打った。
「あっ! いま、いいこと思い出しました! じつは、他の秘術とともに行えば効果が倍増し、単独で行っても効果バツグン、という簡単なまじないがシャムロックに伝わってるんです。お聞きになりますか」
「えええっ! そんなのがあるんですか!?」
エネウスは大声を上げて立ち上がった。ロスマリンはあっさりうなずいた。
「ええ。ございます。おまじないじたいはとても単純ですよ。注意することはただひとつ、順番だけ。効果倍増させたい秘術が成就してからこのおまじないをやっても、なんの効果もないのです。もしダブルでおまじないなさるなら、聖獣の秘術の完成はしばしおいて、いまからお教えするこの秘術を先におし遂げになることですね」
「すぐに教えてください!」
エネウスは勢い込んで言った。
――体内に宿る力というのは、頭部から下って行き、最後には足のつま先から出て行くのです。
――想いや願いもまた等しく、そうして一度出て行ってしまうと、いたる場に散り散りとなり、女神様に届ける事が叶いません……。
――出て行ってしまう想いを体内に留めるため、想いを鼻腔に流し込みます。つまり、鼻の中に足の指を収めるのです。そして、穴に入った瞬間を逃さず、願を掛けます。
――足を鼻に……なんてこと、人間にできるはずがない? いや、これが結構できるんですよ。私、やった人、知ってますし。ええ、学校の先輩ですけど。なにをお願いしたのかって? ああ、申し訳ありません、それは言えないんです。ええ、その人との約束で。
――そうそう、この秘術のもうひとつのポイントなんですけど、秘術を行うとき、できるだけたくさんの人に応援してもらうと更にいいんです。応援オーラが、秘術の効果をよりいっそう盛り上げるんですよね。応援歌なんか歌ってもらえたら最高ですよ。え? 私ですか? 歌いましたよもちろん。先輩のためにね。
――とにかく、頑張ってくださいねっ、エネウス様っ。
※IE5.5以上推奨。それ以外のブラウザをご使用の場合は、横書き表記になってしまっているかもしれません。すみません。
※ミニストーリー部分のみ縦書きで組み込んでみました。ツール作成石山ディレクター。ありがとうございます~!
このつぎの《女神様にお願い》
いままでの《女神様にお願い》
……第2話・王妃様にお願い
……第1.5話・レンカク男爵にお願い
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