江戸の醤油(1) | 百楽天の百花繚乱書院

江戸の醤油(1)

 日本の醤油は、今や世界の調味料です。世界百ヵ国以上の国々で醤油は販売されています。
 これはキッコーマンの企業努力による、といっていいでしょう。

 ところで、キッコーマン株式会社の「キッコーマン」ですが‥‥。

「キッコーマン」については、たいてい「江戸時代にできた“亀甲萬”の商標からつけられた」と説明されています。それはいいとしても‥‥。

 亀甲萬の「亀甲」の由来については、「?」なことになっています。

「キッコーマン創業家のひとつ、茂木家が香取神社の氏子であった。このことから茂木家では香取神社の山号、亀甲山から‥‥」


 えええっ!


 亀甲は、香取神社だけでない。出雲大社や出雲大社と同じく大國主命(おおくにぬしのみこと)を祀ってる神社も、亀甲紋です。
 亀甲がらみの神社はたくさんある。
 それに、江戸時代、「亀甲」を冠した醤油の商号および亀甲(六角形の枠)のなかに文字を入れた商標は、たくさんありました。明治になってから現れたものもあります。

「亀甲南」「亀甲鶴」「亀甲宮」「亀甲泉」「亀甲五」「亀甲冨」‥‥。たぶん百ではきかないくらいあるでしょう。

 皇后陛下のご実家の本家は、明治6年(1873)に醤油醸造業を創業。皇后陛下のお父さんの曾祖父が始めた正田醤油の「亀甲正」は有名です。
 正田醤油は、キッコーマン創業家の茂木家から醤油醸造法を伝授されて始めたというから、「亀甲正」は、「亀甲萬」にならったことは間違いないでしょう。

 ところが土浦にある元禄元年(1688)創業の柴沼醤油にも、「亀甲正」の醤油があります(「正」の字のデザインは正田醤油の亀甲正とは違いますが)。
 創業は、柴沼醤油は正田醤油よりも185年も前です。柴沼醤油の「亀甲正」がいつからあったのかは定かではありませんが、正田醤油の「亀甲正」が現れるよりはるか昔からあったことは間違いないでしょう。


 さて、「亀甲萬」ブランドの醤油が現れたのは江戸時代後期の文政三年(1820)です。
 その64年前、寶暦(ほうれき)六年(1756)に常陸國(ひたちのくに)土浦に醸造所を持つ大國屋の「亀甲大」(きっこうだい)というブランドの醤油がありました。
 これが江戸で大ヒットしたのを機に、江戸では醤油が急激に普及することになったのです。

 亀甲大醤油が醸造された土浦は、徳川五代将軍綱吉から八代吉宗まで四代の将軍に老中として仕えた土屋相模守政直(つちや・さがまのかみ・まさなお)の領土でした。
 濠に囲まれた土浦の城は上から見ると亀甲の形だったことから「亀城」(きじょう)と呼ばれていました。今、その城跡は「亀城公園」として親しまれています。

 いずれにせよ、「亀甲」 を冠す醤油は「亀甲大」から始まったものです。
 これは、醤油を軸に江戸の料理をみてゆくときには欠かすことの出来ないことなのですが、キッコーマンがあまりにも大きくなったことと、明治になって大國屋が醤油醸造業を撤退。他にあった土浦のいくつもの醤油醸造家も醤油醸造から手を引いたため、土浦が江戸地回りの醤油醸造には欠かせない土地であったことは、土浦に住む人でさえ知らず、亀甲大は歴史からすっぽり抜けてしまったようです。

 亀甲大醤油を生んだ大國屋は、今は国分株式会社という名の日本の食品流通業界のトップ企業です。

  つづく



 【次回登場予定】

 徳川綱吉(五代将軍)
 徳川吉宗(八代将軍)
 紀伊國屋文左衛門(紀州出身の豪商)
 土屋相模守政直(大坂城代・京都所代・老中)
 土屋主税逵直(旗本寄合席)
 松平右京大夫輝貞(次席側用人)
 松平登之助信望(綱吉将軍小姓)
 吉良上野介義央(元高家肝煎)
 國分勘兵衛(四代、五代、十二代)
 濱口儀兵衛(初代)
 田中玄蕃(三代、五代、八代、九代)
 茂木佐平治(三代)
 茂木七郎右衛門(六代)
 真宣九衛門(摂津國西宮の酒造家で海産物問屋)