巻第一(15) 薬や鍼灸の前に養生が一番 | 『養生訓』を読んでみる

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健康は養生から。無理せずできることを続けること。そのヒントになれば幸いです。現代語への意訳を東洋医学の解説つきでどうぞ。

薬や鍼灸を用いるのは、やむをえず取る下策でしかない。その前に、飲食の欲や色欲を慎み、寝起きを規則正しくして、ちゃんと養生していれば病気にはならないんだ。

消化不良で、お腹がはって苦しくなりやすい人だって、朝夕に散歩でもして、身体をほどよく動かし、長く座り続けたり寝続けたりしなければ、薬や鍼灸を使うまでもなく、そんなふうにお腹がつっかえる心配はない。予防することこそ上策だ。

どんな薬もすべて、気を偏らせるものなんだよ。たとえ人参(にんじん)や黄耆(おうぎ)、朮(じゅつ)、甘草(かんぞう)のような上品薬でも、その病気に合っていなければ害になる。まして、中品薬や下品薬なら、元気を損なって他の病気を引き起こしてしまう。

鍼には瀉はあるが補はないという。病気に適応していなければ、元気を減らしてしまう。灸も、病気に合わない状態でみだりに使うと、元気を減らして、気をのぼせてしまう。

薬と鍼灸とは、こうした損益があることを忘れちゃいけない。やむをえない時でなければ、薬や鍼灸を用いるのは得策じゃない。ただ養生の術に頼るほうがいい。

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注)

1) 薬や鍼灸が下策で、養生による予防が上策とのこと。これは何も薬や鍼灸が悪いとおっしゃっているのではなくて、病気になって薬や鍼灸に頼ることにならないように、養生するのが一番だというご主張。正論ですね。
 足三里の灸や胃の六つ灸、女性にとっての三陰交の灸のように、養生法としてのお灸もありますし、益軒先生ご自身も、巻第八にお灸によるセルフケアについて、いくつか述べられています。でも、巻第一(8)にあったように、「外物」を取り入れ過ぎないのが基本ルール。
 薬も鍼灸も、本来は病気のときに使うもので、しかも病気の状態に合わせて正しく使うことが肝腎だとおっしゃっているワケです。ってことは、江戸時代にも間違った使い方をしてるケースがあったんでしょうね、きっと。

2) 消化不良でお腹がはる「腹中の痞満」は気滞によるものですから、からだを動かすことで、気の流れをととのえれば、おのずと解消されるはず…という理屈です。座りっぱなしや寝っぱなしがよくないことは、巻第一(5)巻第一(9)にもありましたね。

3) 人参(にんじん)は朝鮮人参のことで、朮(じゅつ)には白朮(びゃくじゅつ)や蒼朮(そうじゅつ)があり、黄耆(おうぎ)や甘草(かんぞう)も含めて、いずれも生薬の中では、上品薬(じょうぼんやく)とされています。
 生薬は、効き目の穏やかな順に上品・中品・下品とランクされていて、この分類は、本家春月の『ちょこっと健康術』「一から学ぶ東洋医学 No.2 東洋医学の起源」でご紹介した『神農本草経』にあります。「生薬の上品・中品・下品」に解説があるので、そちらをご覧くださいね。
 そもそも病気は、気が滞ったり不足したり、あるいは熱があったり冷えていたりと、気が偏った状態です。それを治すための薬なんですから、薬そのものの気は偏っていると考えられるワケです。つまり、有余は散らす、不足は補う、熱は冷ます、冷えは温める作用のある薬を使うという具合。間違って使えば、当然、症状は悪化しますよね。

4) 益軒先生の時代は江戸の元禄から正徳にかけてですが、「鍼に瀉あれども補なし」という通説があったようです。ところがですね、『黄帝内経』には補も瀉もあるんです。補法は気の不足を補うための手法で、瀉法は気の有余を取り去る手法。
 数々の医書を読まれた益軒先生が、単に通説だけを取り上げるはずはないので、この一文には何かの根拠があるはず。その説がどこから来たのか?調べてみると、どうやら夢分流(後の御園流)という鍼の流派の考え方から来てるらしい。
 夢分流は、御園意斎(1559~1616)が起こした流派。小槌を用いて金の鍼を打ち込む打鍼法が特徴です。意斎の弟子たちがまとめ、1685年に発刊された『鍼道秘訣集』に、そのくだりがあります。これについては長くなるので、別記事にまとめますね。

5) 『養生訓』の各項にはタイトルはついてません。したがって、タイトルにある「薬や鍼灸の前に養生が一番」は、中身から判断して私が勝手につけたものです。原文をお読みになりたい方は、こちらへどうぞ→中村学園 デジタル図書館

一天一笑、今日も笑顔でいい1日です。