茶色のジャケットを着た男がベンチを立った時、そのポケットから何かがぽろりと落ちるのを、噴水の反対側から見かけた。恐らく携帯電話か何かだろうと見当をつけた俺は、噴水をぐるりと周って男の座っていたベンチを目指した。予想通り、ベンチの下にはオレンジ色をした携帯電話が落ちていた。
俺は平静を装いながらも素早く携帯電話を拾い、その場を走り去った。
どくどくと激しく脈打つ心臓の鼓動が伝わってくる。足早に公園を後にした。公園の入口を出るとき、散歩中の犬に激しく吠えられた。飼い主であるソバージュをかけた中年の女性が、何か言いたそうな顔をしてこちらを見ていた。
土曜日と言う事もあって大通りは人で溢れていた。前方から歩いて来る、青い制服を着た女子高生がこちらに向けて指を差している。気付かれたのだろうか。
女子高生から顔を反らし、意識的に速足で歩いた。俺はちょっとした有名人だった。テレビやメディアに良く出ているせいで、街に出れば必ず声をかけられる。それ自体は特に嫌なことではない。が、周囲の反応はいつも俺を傷付けた。
「なんか臭くない?」「えぇー、ショックなんだけど」「テレビじゃ臭いはわからないもんね」
直接俺に言ってくるわけではないが、遠巻きにこんな声が必ず耳に入って来る。俺自身、臭いの事はとても気にしていて、出来る限りの努力はしているつもりだった。
仕事場では、監督を初めとする番組製作者達の緊張感が、常に現場にピリッと張り詰められているせいか、誰もそんな事には触れてこない。
体臭なんて問題ではなく、演者としての俺を高く評価してくれているのだと思う。だから俺は仕事中が一番落ち着くのだった。
とは言っても、俺だって仕事ばかりしているわけじゃない。オフの時にだって心を許したいのである。俺は仕事仲間に、病院に行った方がいいだろうか、と真剣に相談をした事があった。
「何言ってるのよ、あなたは充分素晴らしい人なんだから、そんな下らないこと事を気にする必要なんかないわ」
と彼女は、鼻を摘まんで優しく宥めてくれた。その日以来俺は「諦める」というスキルを身に付けられたように思う。
公園を出て200メートルも行かないうち、あっという間に俺は人だかりに囲まれてしまった。キャーキャーという黄色い声援に交じって、臭い、臭いという声もそこかしこで挙がるが、俺は心にバリアを張ってその声をシャットアウトする。
「握手して下さい」と差し出された手を見て、俺は、はっと思いだした。携帯電話。そうだ、俺は拾った携帯電話を握っていたのだった。
人ごみをすり抜ける事が難しいので、出来るだけ優しく突き飛ばしながら、人を掻き分けて行く。殴る、ではなく、なぶる。蹴る、ではなく、足で押す。ラッセル車のように人を優しく押し退かし、何とか面前を開けられた。俺はその隙を逃さずに、ダッシュで駆け抜けた。
高架下を潜り抜ければ、目的のデパートはもう目の前であった。わき目も振らず走り、警備員の脇をすり抜けると、回転扉を力いっぱい押した。ここまでくればもう安全だろう。
後ろを振り返り、誰もいないことを確認してにやりとする。
俺は華やかな化粧品売り場を闊歩した。上品な女のフェロモンをぎゅっと搾ってドリップしたような芳しい香りが、フロア全体に漂っていた。
見渡す限り、女しかいない。通り過ぎる度に売り子の女性たちが俺に、場違いではないですか?という視線を向けてくる。いいや、場違いなどではない。俺の目的はまさに、ここなのだから。
入ってきた入り口とは反対側の入り口のすぐ右手側に、目的の店はあった。「クリスチャン・ディオール」と英字で書かれている。俺は店員の1人に声をかけ、「一番上品な口紅」を注文した。プレゼントですか?と聞かれたので、そうだ、と答えた。
俺たちは店員と客の立場であるにも関わらず、店員は俺に品物を手渡した後、握手を求めてきた。責任者にでも言いつけてやろうかとも思ったが、昔から大好きなんです、と屈託のない笑顔を見せられたので、黙っておく事にした。
俺は両手が塞がっていたので、軽くハグをしてやった。それを見ていた周りの店員たちが、ずるい、私も、私だって、と口々に声を挙げ始めたので、俺は急いでデパートを飛び出すはめになった。いつでもそうだ。1人に何かをすれば、全員にしてやらなくてはならなくなる。自分の仕事は人気商売なのだからそれも仕方がない、と割り切っているつもりではあるが、やはりうんざりしてしまう事も少なくはない。
俺はデパートを出て、静かな街路樹を歩きながら、やっと、拾った携帯電話を開いてみることにした。現在に至るまで、自分には向いていないという理由から、いや、それだけではない、色々な事情から、俺は携帯電話を所有していなかった。最初は本当に必要性を感じなかったし、それでいいと思っていた。しかし、周りのスタッフやら他の演者が、楽しそうにメールや電話をしているのをみて、いつしか自分も携帯電話が欲しいと思うようになっていた。
携帯できるというだけの電話が、他者との繋がりの重要なファクターだと気が付いた時には、既に自分は、アンチ携帯派としてのイメージを周りに強く持たれていた。今更どの面を下げて携帯電話を所持すればいいのか、全くわからなかった。
俺は初めて弄る携帯電話に、若干の興奮を覚えていた。難しい操作は全く分からなかったが、電話を掛けることくらいなら出来そうだ。そらで覚えている実家の番号を押す。
しばらくしてから つるるるるる つるるるるる という電子音が流れた。
「もしもし」相手が出るや否や俺は喰い気味で話しかける。
「ママ、ママ?俺だけど?うん、そう、うん、そうそう、ねぇ今どこからかけてると思う?実はねぇ、そう、携帯電・・」
そう俺が言いかけた時だった。ママの口から驚くべき発言が飛び出したのだった。
「ありがとうねぇ、クリスチャン・ディオールの口紅、嬉しかったよう」
俺は言葉を失い、そっと右手に目をやる。その手には、つい先ほど買ったばかりのクリスチャンディオールの立派な袋がぶら下がっている。目が点になるとはまさにこの事だ。
「ありがとうねぇ、あんたのおかげで、まだこの年になっても誕生日が楽しかったわよ」
そんなバカな。ママは何を言っているのだろう。ママの誕生日はまだ5日も先の話ではないか。
「マ、ママ、ねぇママ」俺が問いただそうとする前に電話は切れてしまった。これは一体どういうことなのだろう。
俺がママに口紅をプレゼントする事は誰にも言っていない。それもそのはずで、俺がついさっき公園のベンチに座っていた時に思いついた事なのだ。今までママにブランドものをプレゼントした事は一度もない。
去年のプレゼントは自転車だった。ママが適当に予想するにしても、予想の幅が広すぎる気がした。そこに来て、ピンポイントの大正解だ。俺はもやもやを胸に抱えたまま、じっと携帯電話を睨んでいた。
ふと気が付くと、背後に人の気配を感じた。そうっと後ろを振り向くと、案の定とも言うべき見慣れた光景が広がっていた。主婦と子供たちが自分を中心に扇形に集まっていて、まるでタイムセールを待っている時のように胸を躍らせているのが、手に取るように分かる。
俺が気付く、という事が、タイムセールの笛が鳴った、という事と同意義のようだった。今までかろうじて守られていた俺のパーソナルスペースに、鼻息の荒い集団が次々入りこんでくる。
俺はすぐに向き直り、街路樹を走り抜けた。街路樹の終わりは大通りにぶつかっていて、右を見ると無人のタクシーがこちらに向かってきていた。俺は手をあげ、すいません、と大声を出した。
タクシーはすぐ横で止まり、俺は後部座席に急いで乗り込んだ。窓越しに街路樹を見やると、数人の子供たちが追いかけて来ていただけで、意外とさっぱりとしたものだった。
「お客さん、アレでしょ?名前なんだったかな、テレビで良く見るよ、うん。息子が好きだったのよ、そうそう」
タクシーの運転手は饒舌で、行き先を聞く事もせず、アクセルを吹かしながら矢継ぎ早に攻め立てた。俺が黙って外の景色を見ていると、少し声のトーンを落として「どこまで行きます?」と聞いた。「赤坂まで」そう告げると俺は、左手にある携帯電話に目を落とした。
さっきの電話はいったい何だったのだろうか。電話を開く。待ち受け画面と呼ばれるその液晶は、漆黒の闇を思わせるほどに黒かった。夜の海、闇の樹海、ブラックホール。
様々な連想が脳裏を過ぎったが、ずっと見ているとその中に吸い込まれそうな気がした。この携帯電話には何かある。そう思えて仕方がなかった。俺は意を決し、マネージャーに電話する事にした。俺がそらで覚えている、もう一つの電話番号だった。
さっきよりも短く、つるるる くらいで電話は繋がった。
「あぁもしもし、さっきは本番お疲れ様。ねぇずいぶん練習したんじゃないの?あの手品、タネを知ってる私でも一瞬分からなかったわよ」
「あ、あぁ」
曖昧に返事をする。
「あ、それから、次は名古屋のステージだからね、それまでにちゃんと・・」
ぶちっ。俺はそこで電話を切った。マネージャーの話していた手品、というのは、5日後に収録があるあの事だろう。もはや疑いようがなかった。俺は未来に電話をかけている。つまり、この携帯電話は、未来に電話を掛ける事ができるのだ。
今日の朝マネージャーから、今度の仕事は手品よ。練習は明日からだ、と聞いたばかりだった。明日から4日間、手品の練習をして、本番の収録に臨む。俺が電話したのはその後の未来だ。俺は今、手品の本番が終わった、その未来のマネージャーと電話していたのだ。
驚きで口があんぐりと開いてしまう。
タクシーの運転手がミラー越しではなく、直接後ろを振り向いて言った。
「そうそう、そんな顔、テレビでもよく見るよぉ。なんて言ったっけなぁ、お客さん、教えてよもう、いいじゃない、ねぇ?」
俺はそれには答えずに、左後部座席の窓を開けた。涼しい風が入ってきて、毛をなびかせた。
「タバコ、吸ってもいいかい?」
運転手は、今度はミラー越しにこちらを向いて「吸うの?!」と、皺という皺を顔面の真ん中に寄せて言った。
「いやぁお客さんテレビで見る限り、タバコ吸うような感じじゃないんだけどねぇ」と苦々しく吐いた。俺が何歳だかわかっているのか?!叫びたくなる気持ちをぐっとノド元で押し殺した。俺がどんなイメージだろうと、イメージはイメージだ。お前たちが勝手に植えつけたものと、今ここで存在している現実の俺は、決して同じではない。芸能人には必ずこのイメージというのがついてまわる。元モーニング娘、だったか、加護ちゃんという娘も、タバコを吸っている所を週刊誌にスッパ抜かれて大問題のように扱われていた。
清純派がタバコを吸ったというだけで。いや、あれは、未成年だったか。それならば仕方がない。法律的に問題があるのなら。しかし、俺はもうとっくに成人なのだ。第三者にガタガタ言われる筋合いはない。
ミラーを睨みつけ、ぶすっとした顔つきで、「ライター」と呟く。運転手は赤信号で止まると、へへっと媚びを売るような顔で「禁煙なんですよね」とにやけた。
俺は窓を閉め、再び携帯電話のことに思考を巡らせる事にした。仕組みは分からないが、この携帯電話は未来へ電話を掛けることが出来る。これを使えば、どういったことが可能になるだろうか。
競馬を初めとするギャンブル、宝くじ、政治、占い、人の生死・・うまく使えばなんでも操れる気がしてきた。
極端な話、この携帯電話があれば世界を征服する事も可能なのではないだろうか・・。
しかしそれに伴うリスクはないのだろうか。画面の闇を見ると、とても無償ではないような気がする。
少しづつ、簡単なところから試していこう。そう思った。顔がいつの間にか緩んでいたのだろうか、運転手が機嫌のいい声で話しかけてきた。
「禁煙なんでタバコを吸うわけではないんですけどね、ちょっくら車の窓全部全開にしてもいいですかね」
俺の臭いの事が気になるのだろう。酸欠で運転手に倒れられても困るので俺は、あぁと頷く。
「そういえば、今日は相方さんは一緒じゃないんで?」
相方?いつも一緒にテレビで出ているから、いつもコンビと間違われるあいつの事だろう。別に相方というわけではなかった。だが、いちいちそんな事を説明するのも面倒くさいので、否定もせず返事をしておく。「今日はスカイダイビングでもやってるんじゃないですか」
芸能人はいいねぇ、金があるとやっぱり遊び方も一般人とはかけ離れてんだねぇ、と運転手は独りごちた。
首都高速が見えてきた。もうすぐで赤坂に着く。流れ行く街並みを見ながら、それにしても、と思う。それにしてもなぜあの公園の男は、これほどまでに便利な携帯電話を落として行ったのだろう。肌身離さず持っていてしかるべきではないだろうか。まぁそのお陰で俺が、手に入れることが出来たのだけれど。
お客さん、赤坂の駅?どこまで行けばいいの?運転手のおしゃべりにもいい加減うんざりしてきた所だった。俺は、もうここでいい。止めてくれ。と声を張っていた。
サイフを取り出し、釣りはいいからと5千円札を運転手に押し付ける。え、本当ですか、ありがとうございます。あ、そうだ、そうだよ思い出しました。そうだ、あなたムックだ。ね?そうでしょう?息子が大好きだったんですよ。ガチャピンよりもね、あなたの事が好きなんだって言ってましたよ。今日帰ったら自慢してやろう。
運転手の顔が一番綻んだ瞬間だった。俺は少しだけいい気分になって、じゃあ息子さんによろしく、と言って、サイフを持った左手で、運転手の肩をトントンと2回、叩いてやった。
右手にクリスチャンディオールの袋を持ち、俺はタクシーを降りた。サイフを締まった。左手が空になる。乗った時よりも何か軽くないだろうか。何か・・。
俺は排気ガスを撒き散らして遠ざかっていくタクシーを、赤毛が降り乱れるのも気にせずに、わき目も振らず追いかけた。
◆◇◆◇
男は最後の客を運び終わり、茨城の海岸沿いを走っていた。助手席にはオレンジ色の携帯がシートベルともせずに座っている。「はぁ、これどうしようかねぇ」誰に言うでもなく、男は呟いた。「まぁ、もう逢うこともないだろうしねぇ」と頭をポリポリと掻く。
男は海岸沿いの路肩に車を止め、オレンジ色の携帯電話を握り締めてタクシーを降りた。
暗い砂浜を歩き、海辺へと向かう。「芸能人の携帯だしねぇ、一般人に漏れたら困るデータもいっぱいあるだろうから」誰にでもなく、波風にむかってそう言うと、男は全力の力で携帯電話を海に放り投げた。