手先を動かすより、噛む方が脳を刺激するそうです。
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最近、ペテロの手紙とヨハネの手紙を通読してきましたが、
イエスが十字架にかかってすぐなのに、
この頃既に、異端の教えが台頭しているのには驚きです。
「以前通っていた教会」というのもまどろこしいので、
今後実名で呼ぶことにします。
「東京キリストの教会」(東京都渋谷区)です。
この教会の教理は「異端」「カルト」に近い位置にあります。
最近再びその傾向を強めている(つまり昔の状態に回帰している)と
聞いているので注意が必要です。
ここに列記された以外にもあると思われますが、
それは追って記していくことにします。また、
ここに記された事柄は、この教会特有のものというわけではなく、
どこの教会にもあり得ることを確認しておきます。
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東京キリストの教会の特徴
1.教義理解を深めようとせず、教義よりも行動 (伝道) が大事と教える。
真摯な教義理解は、異端的な教会組織の根底を覆す危険性があるため、
避けられているのではないかと感じがするほど。信徒達は、
イエスとの人格的な交わりを深める前に前線に追いやられることになります。
2.元々は、当該教会を「唯一の教会」とみなしていた。
これ以外の教会を「宗派」(=そもそも仏教用語です)として見下す体質、
さらに2000年に渡って積み上げられてきた神学を軽視してきました。
現在表向きにはこれを改めてはいますが、そのように信徒達を教育してきた
ことによる影響は計り知れません。この教会の最も大きな罪は
「イエスの人格を歪めて伝えた」ことにあると思います。
信徒はイエスの人格を知ることなく、働かされるため、
「恵み」や「自由」という言葉は、事実上形骸化してしまいます。
にも関わらず、本人は律法を守っているという自負から
「イエスを知っている」「聖書を知っている」と思いこんでしまうのです。
教会に残る、離れるに関わらず、この傾向は変わらず、
継承されます。イエスの人格が歪めて伝えられたのです。
今考えれば、伝えた人達は本当のイエスのご人格など
知るよしもなかったのでしょう。 教会史を少し学べば、
この教会がペラギウス的な流れを汲む教義の特徴を
多分に顕していることがすぐに分かったはずです。(ペラギウス派は異端)
3.神からの召命を受けていないのに、役職やリーダー職を得ようとする。
これが教会内で奨励されていることは問題です。
成長することは大切ですし、「信徒に仕える」動機で
リーダー的立場を求めるのはよいことです。
問われるのは動機と、なにより神の召命です。
モーセは、神が共に上ってくださるのでなければ、
どこへも動こうともしませんでした。(出エジプト33:15)
こういう教会で教育を受けた人は、外のグループでも
リーダーや教師者になりたがります。
4.「指導者に従うべき」と信徒に強要する。
牧師は羊飼いであるとし、さらに進んで「信徒は牧師に従うべき」とします。
引用箇所はヤコブやヘブライ人への手紙と思われますが、
この箇所の理解には、手紙の書かれた背景を知る必要があります。
この時代、ローマ帝国の迫害にいよいよ拍車がかかり、
若くて信仰の浅い人達が「ヒロイズム」への憧れと無謀さから、
命を捨てたがる傾向がありました。現代の自爆テロのように、
死に急ぐ若者が増加したのです。この行為は、若者達だけでなく
教会全体を巻き込み、危険にさらしたのです。
イエスは「迫害に遭ったら逃げなさい」(マタイ10章)と言っています。
信仰に入って浅い若者達のこうした利己的な行いを思いとどまらせようと、
手紙の著者は「年配者の言うことを聞きなさい」と諭したのです。
これをそのまま現代に当てはめるには無理があります。
状況が明らかに異なり、信徒を指導者に従わせるのは
管理上の便宜を図る目的で使用されることが多いからです。
異端的な教会は、こういった箇所を引用したがります。
こういう指導者に遭遇したら「人の言葉よりも神に従う」という
態度を明確にしておかねばなりません。
5.十字架の勉強・弟子の覚悟=必要以上の負債??
これについては、聖書理解の核心部分に触れてくる部分なので、
後日、このブログで詳細に記したいと思いますが、
必要以上の負債を追わせる意味があったと思われます。
十字架の意味を曲解させ、正しく語りませんでした。
端的に言うと、この教会で教えていたイエスの十字架は
恵みではなく、返済不可能な「負債」だったのです。
こうして人は、イエスの人格に触れることがないまま、
外に出て信徒獲得のため働くことになります。
6.カウントコスト=代価計算???
「カウントコスト」と呼ばれていた、特殊な用語について説明します。
これについては、上記5と併せて考える必要があります。
この用語は、元来キリスト教用語ではありません。
文字通り、代価を計算する意味で用いられ、
クリスチャンになる際、捨てなければならないもの、
今後待ち受けるものを算定していく作業のことです。
5同様、キリスト者としての「覚悟」が試されるわけです。
元来、信仰とは「覚悟」によって保たれるわけではありません。
ローマ兵に捕縛されたイエスを三度も「知らない」と言ったペテロを見れば
人の覚悟がいかに頼りないものか理解できます。
(実際この教会の崩壊時、海外から来た宣教師はすべて海外逃亡しました)
善い牧者は一人だけなのです。
7.聖霊に関する誤った知識。
これについては、他の福音派教会でも同様の教えを
奉じているところもあるため、注意が必要です。つまり。。。
聖霊のバプテスマは、ペンテコステの一度だけであるという理解。
あるいは、洗礼を受けた時に受けた時に一度だけ聖霊を受けるという理解です。
つまり、聖霊は洗礼を受けた時に皆に与えられたものなので、
それを改めて求めるのはおかしいというのです。
正統派のキリスト教会では、
聖霊によるバプテスマ(あるいはリバイバル)は何度でも臨むと
期待できるので、これを求めることが奨励されます。
ルカ11章では、イエスは「求めなさい」と命令されたくだりで、
「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と約束されています。
8.終末論? 何それ??
これについても、他の福音派教会では基準がまちまちです。
終末論について教えないため、信徒達が天国を待望するという
基本的な立場に立てません。よって、彼らは現世的な祝福
(結婚や教会組織の拡大など)にしか希望を置けないのです。
9.原罪? 何それ??
驚くべきことですが、キリスト教の基本原理である「原罪」が
何であるかを教えていません。生まれたばかりの子供は罪がないと
教えている始末(ペラギウス派的な特質の一つ*)。
実はユダヤ教にも「原罪」(the original sin)という概念はありません。
「原罪」を否定する、性善説の立場です。人間は誰でも善を選択て、
それを実践する自由を持っていると主張します。
この意味では、ユダヤ教もペラギウス主義なのです。
パリサイ派の多くが、自分の正しさを主張できたのは、
罪の現実を、軽視し過ぎたためでした。
彼らは、罪の現実にあまりにも鈍感であったのです。
同様のことがこの教会の教理についても言えます。
*ペラギウス派:神は人間を善なるものとして創造された。
我々の堕落は個人的な罪の故。人間性を腐敗させる原罪というものはなく、
親から相続する罪もない。
一方、ペラギウスを異端と断じたアウグスティヌスは、
人は母の胎にみごもられた時から罪に汚れているとした(詩篇51:5)。
10.罪の告白大会??
元来、告白という意味のギリシャ語<ホモロゲオー>は、
<同意する、同じ言葉で語る>という意味です。聖霊によって示された事柄を
同じ言葉で神に打ち明けるという意味があります。
共同訳聖書では「公に」という言葉が記されていますが、
他の訳ではこの言葉はありません。
むしろ「神に」とか "Confess to Him" と記されており、
必ずしも信徒の間で行う必要に言及してはいません。
ヤコブの手紙5:16で「だから、主にいやしていただくために、
罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」と記されているのは、
ヤコブが手紙を書き送った教会では、実際に信徒間で争いがあり、
その関係を修復するために「告白し合い」なさいと戒めたものです。
ところが曲解した解釈では「聖書通りに」を合い言葉に、
文字通り、兄弟/姉妹の間で告白し合っていたのです。
この告白も、聖霊に促されて行ったものかどうかは疑わしいものでした。
何故なら、礼拝参加者や教会の成長率が減少したり、
その他教会内に問題が発生した場合などに、
リーダー等が声をかけて始まることが多く、
文字通り「罪の告白大会」という「行事」に成り下がっていたからです。
恥ずかしいことを告白するという(変な?)勇気が賞賛され、
実際は、人を高ぶらせる材料にしかなりませんでした。
ここには、御心に適った告白というよりも
自分達の必要(例:洗礼の数、成長率の増加)を満たすために、
神を動かそうとする傲慢ささえ見え隠れしています。
告白によって私達が聖められるのは、
イエスの十字架による犠牲によるのであって、
告白するという行為によって聖められるわけではありません。
11.「与える」という言葉の誤用から引き起こされる弊害
(既出)(その2)(その3)(その4)。
12.聖霊の実=個人的な実?
既出ですが、改めて確認しておきます。
異端的な教会では「個人的な実」という言葉が使用されていました。
「個人的にキリストに導いた人数」の意味です。
さて、このような解釈には注意が必要です。
マタイ7:21「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな
天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを
行う者がはいるのです」という言葉。これに続く言葉には注意が必要です。
「『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、
あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟を
たくさん行ったではありませんか』
ところが、主はこの人たちに向かって
「わたしはあなたがたを全然知らない」と言われます。
これはどういうことでしょう? 主は裁きの日において、
人の実績や成果を基準に裁くわけではないという意味です。
勇気を振り絞って伝道し、多くの人を救いへ導き、
恥ずかしい罪の告白を兄弟姉妹の前で行ってきたとしても、
それは裁きの日に何の役にも立たないということです。
13.「世の光となりなさい」って書かれてませんけど…
注解書には、動詞や名詞の使用方法について
しつこいほど詳しく記されています。
名詞であれば複数形なのか単数形か、
定冠詞は付されているのかいないのか、など。
「あなたがたは世の光である」の「~である」は
存在動詞「ある」に、助詞「で」を足したものです。
本来の存在を示す用法です。ここでの本来の意味は、
「(既に)あなたがたは世の光である」の意味です。
ところが異端的な教会では「世の光になりなさい」として用いられます。
既に光である者に対して、光になれとはこれ如何に (-"-;A
言葉を換えていうと、人の努力によって他者に違いを見せ、
キリストに導きなさいと迫っているのです。
このように見てみると、カルト的な教会では、
聖書の言葉の語尾を変えてみたり、少しだけ足してみたり、
大胆にも新たな言葉を付け足していることが分かります。
カルト的な教会は、ある意味、正統派の教会よりも多く努力し、
多くの人を導き、キリストを知らせてきたのかもしれません。
事実、私が在籍した教会も、一時は千人を越え、
日本各地に当該教会の支部を設立していました。
途中で離れてしまった人達もいたことから推定すると、
この教会によって、のべ数千人に渡る日本人に
キリストが宣べ伝えられたことになります。
ところが、教会組織の崩壊後、
今もこの教会に残っているのは100人足らずだと聞いています。
2千人だったとしても、95%の人は離散してしまったことになります。
私達のように別の教会に接ぎ木された人間はまだマシですが、
離れてしまった多くの人達は、教会に行くことを止め、
聖書を読むことを止めてしまいました。止めたというより、
怖くなった、イヤになったというのが本当のところです。
さて、このようなカルト的な教会は(あるいはその指導者達は)、
裁きの日に、神の前で何と申し開きするのでしょう?
「忠実にやって参りました」とでも言うのでしょうか?
「では、忠実さの証を見せなさい」と言われたら、
教会に残っている人達を指し示し「これがそうです」と言うのでしょうか?
これは私の個人的な見解ですが、
主は「これだけではあるまい」と言われるような気がするのです。
「残った者達がお前達の言う『実』だとしたら、
お前達から離れていった者達もお前の『実』である」と。
その時には、皆が口に手を当て、
イザヤ5章を思い起こすことになるでしょう。
「(わたしは)良いぶどうが実るのを待った。
しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった(イザヤ5章)」
多くの人達に伝道し、改心させたとしても、
神のことを誤解させ、誤って教えたことについて、
必ず咎められるはずなのです。
現に彼らの多くは、聖書にウンザリ、教会にウンザリ、
そして神にウンザリしてしまったのですから。
教師や指導者の立場にある人達が厳しく裁かれるというのは、
こういう一面によることが大きいのでしょう。
このカルト的な教会が崩壊しつつも、完全に消滅しないことには、
教会の中に正しい心で主を知ろうとする者がいるからではないでしょうか。
裁きの時には、ヨブの友人がヨブに祈ってもらわなければならなかったように、
牧師や教師もその兄弟姉妹に祈ってもらわなければならないのかもしれません。
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
とはいえ…
このブログでこうした記述することには、
「見分ける指針」を記しておきたいという願望によるものです。
聖霊によって見分けることができない場合の指針として。
ネヘミヤ 1:6 耳を傾け、目を開き、あなたの僕の祈りをお聞きください。
あなたの僕であるイスラエルの人々のために、今わたしは昼も夜も祈り、
イスラエルの人々の罪を告白します。
わたしたちはあなたに罪を犯しました。
わたしも、わたしの父の家も罪を犯しました。
1:7 あなたに反抗し、あなたの僕モーセにお与えになった
戒めと掟と法を守りませんでした。
これは預言者ネヘミヤの有名な祈りですが、彼に限らず
ハバクク、イザヤ、エレミヤの祈り、
そしてイエス御自身の十字架上での言葉のように、
民の罪を自分の罪としてとりなすことは、
私自身はなかなかできていないのです。(ノω・、)
「この教会の罪は私の罪です。赦してください」と
口で言うのはたやすいことです。
口先だけなら何時でも誰でもできるでしょう。
ここで問題にしているのは「心」の問題で、
心から最善を願っているかと問われれば、
正直なところ、「…」なのです。
むしろ知れば知るほど「こんなこと、教えやがって」と
怒りが沸々と湧いてきます。
でも、いつか…
上の預言者達のような心を持ちたいと願っています。(b^-゜)