先日、今年初めての家庭集会がありました。
その日は自分にとって、また一つ大きな発見があった日でした。
「真理とは何か?」
この質問にすっきりと答えられる人は何人いるでしょう。
イエスはここに単純明快な答えを出しています。
ヨハネ14:6「わたしは道であり、真理であり、命である」
この箇所は、多神教を信じる日本人にとって、
最もつまづきやすい箇所でもありますが、意味をよく吟味してみると、
ここで言われているのは「真理とは人格である」ということです。
ガラテア5:22-23 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、
喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、
柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
カルト教団は、これをさらに枝葉を加え、
信者を増やすことを第一義とします。
私が以前通っていた教会でも、実際に聖霊の実とは、
自分を通じて救われた人の数を示していると教えられていました。
今でもキットそのように教えられているのでしょう。
実際、聖書のどこを繰ってみても
「聖霊の実=救われた人」と記された箇所は見つかりません。
確かに時が経てば自分の影響によって救われる人は現れるでしょう。
しかしそれは、聖書の言うところの「聖霊の実」そのものではなく、
結果として付随してくるものに過ぎません。
聖霊の実はもっと大切なもの、「人格」に関することなのです。
財産も仕事も人も共に天国に行くとは限りません。
天国に唯一持って行くものがあるとすれば、
真理によって錬られた「人格」であることは間違いありません。
友人Tさんの新居にて
私達の教会では、牧師先生夫妻が信徒達のために家まで出向いてくださり、
週に一度ほどの頻度で聖書を一緒に開き、皆で話し合い、
互いの必要のために祈る時間をもうけています。
これは、下の聖句;
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、
わたしもその中にいるのである。(マタイ18:20)
に基づくものであって、
イエスの人格に触れる意味で行っているものです。
「人格に触れる」と言っても、堅苦しいものではなく、
お茶とお菓子をいただきながらお喋りする
…みたいな時間が大半だったりします ( ̄ー ̄;
定期的に集まり始めてそろそろ2年になろうとしていますが、
最初の頃と比べてみても、着実に自分達が階段を
上がっている感覚があるのです。もっと具体的に言うと、
イエスに対する信頼感がより確かなものに変わってきたことになります。
人がイエスと出会う手法はそれぞれ異なり、
中には劇的な経験を伴う場合もあります。
経済的な危機が急転したり、望んだ仕事を得たり、
病気が癒されたり、超自然的・霊的な体験の中で出会ったり…
12人の弟子の中のナタナエルもその一人で、
自分がいちじくの木の下で祈っていたことをイエスが知っていたというだけで
(自分しか知るよしもなかったのに)、イエスを信じました。(ヨハネ1:48)
奇跡を通じてイエスを知ること、それ自体悪いことではないのですが、
人は何度もそれを期待してしまう傾向があります。
事実、5千人の給食のシーンも典型的な例で、この奇跡の後、
人々はさらにパンを出してくれと
湖の反対側までイエスを追いかけます。(ヨハネ6:30-31)
自分に奇跡的なことが起こると、同じ方法で願えば、
他の人にも起こるに違いないと考えてしまうし、
奇跡を見ればイエスを信じるようになる、
人間ならそう考えてしまうのも無理はないでしょう。
そうなれば楽ですしね。自ら労苦して変わる必要もないし。
実際、奇跡を見て信じた人は、
そう何度も奇跡が起こらない事実に直面すると、
イエスから離れていきます。キット失望するんでしょうね。
前述の 5 千人の奇跡を見て、一時的に驚喜した人達も
その後、イエスの言葉につまずいて、
「弟子たちの多くが離れ去り(ヨハネ6:66)」と記されています。
奇跡は何度も起こらない…??
奇跡を強調し過ぎるのはカルトの特徴です。
実際、望んだような奇跡は起こらないかもしれないのです。
正統派のキリスト教会でも
リバイバルを願う祈りは、これまで至る教会で、
数知れない人の祈りの中で唱えられてきました。
ところが、一向にリバイバルは起きませんでした。
奇跡らしい奇跡も起こらなかったのです。
でも、それは私達のために、極めてよかったのかもしれません。
ロイドジョンズなどは「そのことを神に感謝する」と言うくらいです。
いくら品行が立派で、頭のいい人でも
「一人で信仰を守っています」と
平気で言ってのける人や無教会主義の人を、
私は基本的に信頼していません。
前述のロイドジョンズ牧師は、自分の許を訪れる人で、
最も多く問題に悩まされ、途方にくれている人は、
規則的に教会に来ない人だと言っています。
そうした生き方は「非聖書的」と言うにとどまらず、
「無遠慮な言い方をすれば、彼は愚か者である」とまで
断言します。恵みの時に聖霊のバプテスマが臨むこともなく、
あらゆる恵みの機会をことごとく取り逃がしていることに
なるからです。
イエスを信じられるようになること自体、奇跡なのですが、
これにはなにやら不思議な経験が伴うことはありません。
例えば、プルプル震えるような声を聞いたり、
光に包まれるなどのスピリチャル体験をせずとも、
極めて静かに、自分でも気づかないうちに
自分の思いを満たしてくれるものなのかもしれません。
奇跡を見て信じるだけではなく、イエスの人柄に触れて、
より深く知りたいと願うことが大切なことと思われます。
その方をより深く信頼できるようになることが期待されている気がします。
こういうことを考え始めたのは、
映画「ヨハネの福音書」を見てからで、
誇り高いファリサイ派の学者にこう言うシーンがあります。
ヨハネ8:42「神があなたたちの父であれば、
あなたたちはわたしを愛するはずである。
教会に来ることは、イエスの人柄に触れることであり、
それは同時に真理に触れていることになります。
イエスを中心に据えた交わりに加わることは、
自らが癒されるためにも、疑問を払拭するためにも、
障害を克服するためにも、自らの喜びを増すためにも、
信仰を深めるためにも、善いことなのです。
この勧めは、聖書の命令であって、
元来私から出たものではありません。
何らかの理由から教会から足が遠ざかっている人、
教会の人間関係に辟易している人…一人ひとりが、
家族として迎えられる教会に出会えるよう切に願います。
来週には、この家庭集会を楽しみに集っている
ご婦人が洗礼を受ける予定です。
併せてお祈りください。(‐^▽^‐)