(つづき)
私達は誰に対して駄々をこねているのでしょう?
私達は何かを求めているのに、その何かを得られない時、
その欲求不満を誰かに (あるいは物に) ぶつけます。
子供が駄々をこねるのは親に対して。
では、大人が駄々をこねる時、それは誰に対してでしょう?
前回の詩人 (詩篇73編) が最終的に行き着いた境地を覗いてみましょう。
73:25 天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。
地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。
73:26 この身とこの心とは尽き果てましょう。
しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。(新改訳)
「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう」とは
天国では神以外に何物も持ち得ることはないという告白です。
「地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません」は
今回体験したことを踏まえたうえでの詩人の強い決意です。
詩人は如何にしてこのような告白をするに至ったのでしょう?
「神からの祝福」>「神ご自身の人格」?
もちろん、自分に対しても、他者に対しても、
「神の祝福があるように」祈ります。
そのように教えられますし、それはよいことです。
キリスト教の伝統にさえなっている感覚が私にはあります。
ところが、私達は「神からの祝福」を「神ご自身の人格」より
優先してしまうことがあるのです。
神からの贈り物を神御自身より大切にするということは、
花を贈ってくれた本人よりも花を愛するようなもので、
花を贈った本人も複雑な気持ちになるしょうね。
この考えが危険なのは、これだけにとどまらず、
もし、望んだ物が得られない場合、
「愛されてない」と感じてしまう点にあります。
結婚相手を願ったのに…
仕事での成功を願ったのに…
健康を願ったのに…
単に幸せを願っただけなのに…
願いが叶うどころか、まったく変化がない。
それどころか、まるで反対の事態に陥ってしまう。
そんな時、私達は神の愛を疑ってしまうのです。
しかしこれは、本当に神を愛していると言えるでしょうか。
神から賜る物 (者) を愛しているに過ぎないのではないでしょうか。
自分の中で「神からの祝福」>「神ご自身の人格」となり、
優先順位が逆転している時、私達は
途方もない危険に身をさらしていることになります。
ヨブ記ではサタン (悪魔) が、善良なヨブを陥れようとしています。
1:8 主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。
地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、
悪を避けて生きている」
1:9 サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。
1:10 あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。
彼の手の業をすべて祝福なさいます。
お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。
1:11 ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。
面と向かってあなたを呪うにちがいありません」
ここでサタンは、ヨブは祝福されているから、
神を愛しているに過ぎないと言っているのです。
サタンは、罪深い人間の自己中心的な性 (サガ) を知り尽くしています。
私達は、このサタンに相対しているのです。
体験をもって知る
ここで再び詩篇73編に戻りましょう。
詩人は自ら歩んできた道程を振り返り、
どこで道を踏み外したか瞑想しています。
73:3 それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである
すべての不幸はここから始まりました。
他者が祝福されているのを見て、自分はどうなのか、
愛されてはいないのではないかと思ってしまったのです。
そこから彼の転落 (足をすべらせた) が始まりました。
詩人ははっきりと自覚したのでした。
自分が、祝福を願うより先に、人が神の御人格を知っていれば、
そのような逆転は起こり得るはずがなかったのだと。
イタイ思いをしましたが、彼は体験を持ってそれを知ったのでした。
それは、彼にとっては「幸い」でした。