覚え書き(3) | かっとび!

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愛車Fiat500と音楽・映画の旅

この教会では、若いリーダーが多く育ち、急激に成長し始めました。
教会に若いリーダーが育つということは、キリスト教世界においても珍しく、画期的なことでした。
クリスチャンになったばかりの若い人達が自信を付け、
力強くキリストを証しする姿は、キリスト教界が長らく待ち望んでいた光景だったのです。
この教会ではそうした若いリーダーが一人だけではなく、
どんどん育っていきました。 アップ

大勢の人を前にして、壇上で話すのは勇気がいるものです。
自分も最初、初めて壇上に立って証しした時は足の震えが止まりませんでした。

そうして壇上に立って初めて、感じたことがあります。
それは、聞いている人達のサポート
皆が自分の一挙手一投足に注視して、
自分の言葉に対して、いちいちうなずき、反応してくれることの有り難さ。
そして、自分が言ったジョークがドッカン、ドッカン、ウケた時の快感といったら
俺はお笑いの世界でも食ってけるんちゃうか~と錯覚するほどでした。

しか~し \(*`∧´)/

これは皆、作られたこと。もっと言えば仕組まれたことだったのです。
前述した通り、信徒達は壇上の人を励ますためにそう教えられていたに過ぎなかった。
でも、怖れでつぶされそうになっている若者に、きっかけを与える意味では、
重要なことだったのかもしれません。
教えられた側(つまり聞いている信徒達)も「自分は与えている」と自覚しているので、
そこには基本、何の悪意も存在しません。

落とし穴はそこにありました。 ダウン

「あなたがたは世の光である(マタイ5:14)」
その言葉を胸に、会社においても、家庭においても、
その他あらゆる組織の中で、目立ち、義を信じて立ち上がる信徒がたくさん現れました。
確かに表向き、若いリーダーが大勢育ちました。

しかし、同時にこの場所は、
「人からの賞賛を求める人間」を大量に作り出す工場でもあったのです。
神からの賞賛ではなく、人からの賞賛です。

この部分は通常、キリスト教界では以下のように解釈されています。
「光はキリストである。信徒達はキリストの光を反映(あるいは反射)しながら、世を照らす」と。
しかし、この教会では「光はクリスチャン自身である」と信じられていました。
実際、彼らは目立つことに快感さえ覚え、至るところで大胆に証しし始めたのです。
これもキリスト教的には悪くないですね。むしろ喜ばれることでしょう。

そもそも、人からの賞賛を求めるって悪いこと
聖書の別の箇所にはこんな言葉もあります。
「名声は多くの富よりも望ましい。愛顧は銀や金にまさる。(箴言22章1節)」と。

難しいですね。
既に記した通り、実際こうした事柄を簡単に「良い」「悪い」で切り分けられるものではないのでしょう。

では、「人からの賞賛を求める人」ってどんな人でしょう?
実は、こういう人は、この教会の中だけではなく、世の中にもウジャウジャいます。
(前述の通り、世の中の80%の男性は異性からの評価を求めている)

例えば、

文字通り、賞賛を求めるのですから、この人はあなたのところにやってきて、
「ねえ、俺、こんなことができるんだ。すごいでしょ?」と同意を求めたり、
「俺、こんなもの作ったんだけど、見てくれる(聞いてもらえる)?」と、
評価を求めてきます。
礼儀正しいあなたなら「素晴らしいですね」と褒めるだろうし、
正直なあなたなら「うぜえな」と不快な表情をさらしてしまうかもしれません。

こういう人は一度褒めると何度も何度もやってきて、
「こんなのはどう?」「これも作ったんだ」とあなたになついてきます。
そして、あなたは「素晴らしいね」と言ったことを後悔するようになるのです。

組織のリーダーや社長と呼ばれる人がこういうタイプだと、
部下は悲惨です。
イエスマンばかりを大切にする社長や
「俺は仕事してるんだぞ、尊敬しろ」と妻に強要する亭主達がこの部類です。

こうなってくると、だんだん身近な問題として受け取れるようになります。

(つづく)