三英傑の真実 | 知っとうや(真実を求めて?!)

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前回、阿修羅幹部によるすり替わりについて書きました。
<すり替わりの真実>

明治維新の主要な立役者は、西郷隆盛を除き、ほとんどが阿修羅幹部によってすり替えられ、その結果、日本は間違った方向へ導かれたのです。

すり替えられたのは、明治天皇、三条実実、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、大熊重信、伊藤博文などです。

西郷隆盛もすり替えられそうになったのですが、何とか逃れ、最後まで抵抗したのです。それが西南戦争に繋がったのです。ちなみに、西郷隆盛の有名な写真や、銅像は偽物阿修羅の顔です。
<西郷隆盛の真実①>
<西郷隆盛の真実②>

西南戦争勃発の原因は、西郷らが征韓論を唱え、それに反対する岩倉具視、大久保利通らと徐々に溝が深まっていき、西郷が新政府に反乱したからだとされています。
<WIKI:征韓論>

実は、これは全くの捏造で、歴史は改竄されているのです。西郷は、明治天皇を初めとした阿修羅に乗っ取られた日本政府を、少しでもいい方向に持っていこうとしていたのです。

また、当時、隣国朝鮮も阿修羅に蝕まれつつありました。西郷は、その朝鮮を助けるためには朝鮮に開国を要求すべきと判断し、自らを朝鮮に派遣すること、つまり遣韓論(けんかんろん)を主張していたのです。征韓論とは全くの反対なのです。

この西郷の遣韓論を警戒した増上慢を初めとした阿修羅幹部は、西郷包囲網を敷き、ことごとく西郷を貶めて行きます。そして、遣韓論を征韓論にすり替えたのです。

西郷隆盛と大久保利通は、同じ薩摩出身で盟友だったと伝えられています。その大久保が、何故盟友西郷を裏切ったのか?

それは、後の大久保利通は、阿修羅によってすり替えられてしまった偽物だったからなのです。

このような阿修羅による為政者のすり替わりは、明治維新だけでなく、それ以前も頻繁に行われてきました。現在の正史とされている歴史は、ほとんどすべて勝者(阿修羅)による改竄の歴史なのです。私は、この改竄を暴いているのです。ちなみにすり替わりを繰返してきた阿修羅幹部達は、現世でも一般人のフリをして転生しています。

このようなすり替わりの歴史の中でも、明治維新に並ぶ、いやそれ以上のものが、戦国時代です。

以前、徳川家康は増上慢(阿修羅王)がすり替わった人物であることを書きました。
<家康の真実①>
<家康の真実②>


岡崎城主の松平元康は、戦の過程で、増上慢
世良田二郎三郎元信にすり替えられてしまい、すり替わった偽元康が後に改名し、徳川家康となって天下を取ったのです。

一方のすり替えられた元康は、滝川一益となって阿修羅系織田信長の家臣と成りすまし、明智光秀とともに能寺の変を計画します。

しかし、偽徳川家康にその計画が漏れ、偽家康に一歩先を行かれ、本能寺の変は明智光秀ではなく、ウォークインされた秀吉、偽家康の家臣である阿修羅達によって実行され、織田信長(偽物、詳細は後述)は殺害され、
元康と光秀の計画は失敗したのです。
<本能寺の変>
<秀吉と家康>

皆さんは、同じ阿修羅である偽家康が、何故、阿修羅系信長を殺害するのか理解できないかも知れませんが、阿修羅族は一見仲間であるように見えて、最終的には自分がトップになることしか考えていないのです。魂レベルが低い、波動が低いからです。

その後、滝川一益(松平元康)は、1586年に亡くなったとされていますが、これは表向きの話で、元康は、実は別人となって生き延びたのです。その別人とは、神道家の
神龍院梵舜(しんりゅういんぼんしゅん)です。

神龍院梵舜は、明智光秀がすり替わった
南光坊天海とライバルのように歴史上では扱われていますが、実は裏では繋がっていて、増上慢、徳川家康包囲網を敷いていたのです。このように、歴史の真実は常識離れした驚愕の歴史なのです。
<光秀と天海>

ただ、つい最近分かったことですが、戦国時代のすり替わりは、これだけではなかったのです。ここからはさらに驚愕の内容になります。

先日、
名古屋城に行ってみました。

名古屋城①


連休でしたので多くの人出でしたが、名古屋城は強い邪気に覆われていました。一般の人はそのことを全く気付いていませんでした。

何故、ここまで名古屋城が邪気に覆われているのでしょうか?

それは、戦国時代の歴史の改竄が、この名古屋城に凝縮しているといっても過言ではないからなのです。

名古屋城には、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑が関係しています。
<WIKI:三英傑>

名古屋城に入って、私が衝撃を受けたのは、三英傑の一人である、あの有名な豊臣秀吉の肖像画のインパクトでした。

この肖像画です。

家康


もの凄い神気を放っていました。めちゃくちゃ波動が高かったです。これぞ、まさしく豊臣大明神といった感覚でした。

その一方で、秀吉の肖像画の両隣には、信長と家康の肖像画がありましたが、この二つの肖像画は、全く神気を放っていませんでした。波動が極端に低いのです。



信長


秀吉


信長と家康の肖像画の波動が低い理由は、偽物がすり替わった阿修羅の人物を肖像画にしているからなのです。

名古屋城は、16世紀初め、今川氏親が築城したものが起源で、その後、織田信秀(織田信長の父親)が今川氏から奪取し、那古野城(なごやじょう)と改名したようです。その場所は、現在の名古屋城の二の丸付近にあったようです。
<WIKI:名古屋城>

二の丸の那古野城跡

名古屋城③


名古屋城②


そして、織田信長は、この
那古野城(1534年)で誕生したのです。

私は、これまで織田信長について、ウォークインされた増上慢の幹部であると書いてきました。

しかし、名古屋城に行って分かったのですが、
これは間違いでした。信長はウォークインされて悪者になったのではなく、松平元康と同様に、途中で阿修羅幹部によってすり替えられたようなのです。皆さんが英雄だと思っている織田信長とは、偽物の阿修羅だったのです。驚愕でしょう?

すり替えられたのは、信長が那古野城を出たとされる1555年前後のことだと推測されます。

それ以前の若きし頃の信長は、将来を嘱望された武将だったのです。幼名の頃は、駿府の
今川義元の元で人質にされていたとされていますが、これは歴史の改竄で、今川義元は、阿修羅に対抗すべき救世主として、織田信長と松平元康を小さい頃から英才教育していたのです。

その結果、那古野城で誕生した信長は、父親の跡を継ぎ、尾張を中心に名を上げる武将に成長していきます。

しかし、一人立ちした直後、阿修羅の罠に落ち、命を落としそうになったのです。

この際、織田信長は、松平元康と同様に、阿修羅幹部にすり替えられ、その立場を失ってしまうのです。これが前述のように1555年前後のことです。

すり替わった偽信長(前掲の写真)は、1560年、本物の信長と元康の育て親である今川義元を、
桶狭間の戦いで討ちます。この頃、元康も増上慢によってすり替えられます。

そして、偽信長がほぼ天下を手中にするのが1573年です。

一方、本物の信長は、命からがら逃げ延び、立場を奪われてしまったために別人になりすまします。

それが、木下藤吉郎という人物。

この人物こそ、後の豊臣秀吉なのです。
<WIKI:豊臣秀吉>

皆さん、理解できますか? ついて来られますか?

本物の織田信長が、後の豊臣秀吉になったのです。

木下藤五郎は、足軽の息子として偽信長の一兵卒となり、そこからだんだん出世していきます。さすがに、本家信長だけのことはあり、武将の資質が備わっていたからです。

そして、偽信長を倒すべく、滝川一益や明智光秀と裏で通じていたはずです。

しかし、時に強い憑依に悩まされ、情緒不安定な状況にあったのも間違いないでしょう。

それを乗り越え、偽信長が家康の部下に暗殺された際に、正気に戻り、天下統一へ走りだすのです。

天下統一後は、増上慢家康の策略もあり、朝鮮出兵というまずい政策を実行し、その結果痛手を蒙り、政権が不安定になっていきます。

さらに、増上慢家康の手引きによって、秀吉は少しずつ食事に毒を盛られていき、病死のようにして1598年に没します。

これに乗じて、すかさず天下取りに動いたのが、増上慢徳川家康だったということなのです。戦国時代の天下統一、三英傑の史実は現在伝えられている歴史とは全く異なるのです。

前掲の三英傑のうち、豊臣秀吉だけが天津神の魂の流れなのです。残り二人は阿修羅だったのです。


最後まで読んでいただきありがとうございます。