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2014-08-25 00:00:00

水ラインの秘密②

テーマ:宇宙の真実
前回記事では、水戸-霞ヶ浦に存在する水ラインについてご紹介しました。

今回も、水ラインに関して最近分かったことをご紹介します。

私は福岡県に住んでいます。学問の神様、菅原道真が祀られている太宰府天満宮の近くなのですが、その太宰府天満宮付近には古代、都があったのは間違いないようです。その跡は、現在、太宰府政庁跡として管理されています。

この太宰府政庁跡から西側の九州山地までの間は、福岡市から久留米市南部以降にまで広がる筑紫平野の中で、一番狭い部分になっています。距離にして2㎞を切るくらいです。

この場所に、天智天皇が防塁として築いたとされる水城跡があります。
<WIKI:水城>

造られた時代は7世紀中頃、当時は唐・新羅連合軍と戦っていた時代(白村江の戦い)であり、敵軍の侵入を防ぐために造られた防塁とされています。

これが、ヤフー地図から拝借した水城付近の空撮写真です。

水城②

(クリック拡大)

右上から左下に走る斜めの緑ラインが水城跡です。水城は、高さ10m、幅80m程ある土塁で、現在では木々で覆われた森のような状態で保存され、現場では緑の森が直線状に繋がっているように見えます。

現在は、水城跡として公園として管理されていて、住宅街の中にある緑豊かな憩いの場所になっています。

水城①


水城④


水城⑤


私は、この水城が昔から気になっていました。そして疑問がありました。

それは、「天智天皇は、本当に敵から都を防ぐために水城を造ったのだろうか?」、ということでした。

唐・新羅からの攻撃を守るためであるなら、海岸から10㎞以上も内陸に防塁を築くことは腑に落ちません。造るなら元寇の際に博多湾沿岸に造られた防塁のように、海岸沿いに造るはずです。
<WIKI:元寇防塁>

それに、水城の中には水を通す木桶があったことが分かっています。水城の中を水が流れていたのです。

戦争に備えて防塁を造るには、中に水道を造るなどの時間的余裕はないはずです。

結論から言いますが、水城は防塁ではないのです。


それでは天智天皇は何のために造ったのでしょうか?

その理由は、浄化システムの補完のためなのです。

次のヤフー地図をご覧ください。
http://yahoo.jp/HrkHPn

福岡市南部に隣接した春日市、さらにその南の大野城市を中心としたマップです。たくさんの大きな池があるのが一目瞭然です。

これらの池は、神代に春日神を中心に造られた浄化システムの一環の湧水の池なのです。神代は、ここに春日神の都があったのです。従って春日という地名になっているのです。春日神社もあります。

水城のある太宰府市は、この地図では右側(東側)に位置し、山の麓で、池の数も少ないのです。(小さな池は幾つかあります)

神代は春日市辺りが中心だったのですが、上代に入って太宰府に都を建設したのだと思われます。(天智天皇は、その後近江大津宮に遷都)

都を建設する場合、波動(この場合、風水とも言い換えられる)が重要になってきます。太宰府地区は湧水が少なく波動が低くかったのだと思います。

そこで、天智天皇(実際には中大兄皇子の時代)は、太宰府地区の波動を補完するために、水城を考えだしたのです。

大野城市の牛頸山から水道を引き、それを土塁のように覆ったのです。

そして、太宰府政庁跡に水を引き、太宰府地区に小さな池を幾つか造って波動を高くしたのです。古代の人々は、神国日本の浄化システムのことを知っていたのです。


現在の水城跡は、最初の空撮写真を見ていただければ明らかですが、幹線道路、高速道路、二つの鉄道で分断されています。当然、水道も流れていません。

要は、太宰府周辺の波動が落ちているのです。太宰府天満宮というのは、現在学問の神様とされていますが、本来は太宰府地区を守護している神社だと思います。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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2014-08-18 00:00:00

水ラインの秘密

テーマ:宇宙の真実
先週まで台風の影響もあり、西日本、特に四国では豪雨が続きました。ただ、波動が上がって来ていますので、大災害は避けられています。

西日本では深い霞が見られています。世の中はだんだんいい方向に変わっていっています。

また、8月に入ってからは例年のような猛暑は緩和されています。これは一時的な気候変動ではなく、日本全体の波動が上がっているために、季節が本来に戻りつつあるのです。8月は旧暦では秋なのです。
<暦と季節と波動>

皆さんが持っている常識は、そろそろ変えていかなければなりません。


これまで、宇宙も地球も、陰陽五行で創られていることを書いてきました。
<陰陽五行>

特に神国日本は、五行のラインがはっきりしていています。その中でも、火のライン水のラインは、分かりやすくなっています。

火のラインは、火山の分布ラインです。地下のマグマの流れを利用して地球全体の波動循環が行われ、それによって浄化システムが行われているのです。
<火のライン復活>

その火のラインによって運ばれた高波動の出口が、九州に集中しています。阿蘇、桜島、九重、雲仙、霧島といった活火山です。九州が日本の中でも波動が高いのは、これが理由です。


今回は、もう一つの水のラインについてご紹介します。

五行の中心は奈良の吉野周辺でした。昨年5月に掲載した画像です。
五行レイライン


五行の波動ラインは、吉野を中心に日本全国にが放射状に広がっているのです。これが真のレイラインです。

水のラインは、吉野地区の丹生川沿いに鎮座する、丹生川神社三社が中心です。

水のラインは、河川、湖沼、池・湧水で目に見えるため、火のラインよりも分かり易く、その拠点は各地に水神系神社(貴船神社、弁才天系神社、龍神系神社等)が祀られています。

水のラインとは、水による魂の浄化システムが、日本全国、地下で繋がっていることを、そう呼ぶのよです。各地にたくさんの湖沼や湧水地がありますが、これらはほとんどすべて地下で繋がっていて、浄化された水が供給されているのです。その供給源が長崎県の五島灘北部なのです。

そういう目で日本地図を見てもらえれば、新たな発見、インスピレーションがあるはずです。

私は、日本の各地を巡ることで、浄化システムの全貌が分かりつつあります。
<浄化システム>

今回、私が着目したのは、茨城県中南部です。

茨城県の県庁所在地は水戸です。水戸は「水の戸」と書きます。漢字には必ず意味があります。水戸は、水ラインの出口という意味なのです。

水のラインは、全前述したように吉野を中心に東西南北に放射状に延びているのですが、実際の浄化水の動きは、長崎県の五島灘から地下を通って日本全国に運ばれます。その浄化水が各地の湖沼や河川、湧水地に繋がって、神気(精霊)を運び、生態系が維持されているのです。

水戸市には千波湖、少し南部には涸沼、さらに南には全国№2の面積を誇る霞ヶ浦、その東側には北浦というように、大きな湖が広がっています。

さらに霞ヶ浦は関東最長の利根川と繋がっています。千波湖、涸沼も川で海に繋がっています。

これらの湖沼、河川は、茨城県周辺の波動を上げるという役割もありますが、もっともっと大きな役割は、世界中へ神気(精霊)を運ぶことなのです。

次の図をご覧ください。

水ライン

水ライン(水戸)

水戸の水ラインは、浄化システムの東端にあり、その出口が水戸です。水戸の千波湖、その南部の涸沼、霞ヶ浦、北浦は繋がっていて、それぞれの湖で神気(精霊)を溜め込みます。

霞ヶ浦とは、「霞が出るの湖」という意味です。霞とは何度も書いてきましたように精霊の集合体です。これから生物に転生する魂の集合体なのです。霞が深ければ深いほど、生態系の循環が活発化しているということになります。

世界中の邪気の浄化も、基本的には日本で行っています。ということは、日本から精霊が運ばれる仕組みが必要なのです。その仕組みの一つが、水戸から霞ケ浦にかけての河川湖沼なのです。

水戸から出てきた精霊は、霞ヶ浦を中心とした湖に集められ、その後、利根川等の河川で太平洋に運ばれます。そして、黒潮等の海流によって世界を循環して行くのです

それによって世界各地に、常に新しい精霊が供給される仕組みなのです。凄い仕組みでしょう。

戦後、日本は高度成長し、これらの湖沼は農地や工業用地として埋め立てられ、面積を大きく減らしました。これによって、世界中へ供給される精霊も減少したのです。

環境破壊の根本原因は、日本の浄化システムの破壊にあったのです。近年、霞ヶ浦では霞が見られなくなっていたはずです。

しかし、この霞ヶ浦の結界も、つい最近解けたので、今後霞が戻ってくるはずです。

そして、世界中の生態系も徐々にですが復活して行くでしょう。

ここ最近、世界的に航空機事故や地震、紛争が多いのは、それを恐れる阿修羅が意図的に仕掛けているだけの話です。犠牲なられた方は可哀そうですが、根本的な原因を見抜く目が求められているのです。

最後まで読んでいただきありがとうございます。



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2014-08-04 00:00:00

すり替わりの真実(幕末維新⑤)

テーマ:歴史の真実
先週の北海道でのモヤの騒ぎ。とうとう霞が騒ぎ出されましたね。

「シベリアの森林火災の影響か?」とか報道されていましたが、そんな訳ありません。です。

地球は本格的に変わりだしてきましたよ。楽しみです。

また、今年も猛暑ですが、昨年までにような不快感は感じないのではないでしょうか?

特に朝方。熱帯夜だったとしても、外の空気は意外と気持ちよくないですか?

これが、波動の変化なのです。

邪気に覆われていると、波動が低い上に熱がこもりやすい(保温効果)ので、ヒートアイランド現象が活発化し、ゲリラ豪雨となりやすいのです。まだ都心の一部では結界が張られたままで波動が低い地点があり、居心地が悪い場所はありますが、昨年よりは間違いなく過ごしやすくなっているはずです。

<暦と季節と波動>

近年、二酸化炭素排出により地球温暖化が叫ばれていましたが、それは波動が低い状態だから問題だったのであって、今後は波動上昇とともに温暖化は解決されていきます。

どんなに二酸化炭素が排出されようと、高波動によって浄化されるのです。これまで人類がどれほどまでに科学という名の下で洗脳されていたのか、身に染みて理解できるようになっていきます。

多くの方には信じられないことでしょうが、気候や自然現象を見ていてください。全ては波動が解決するのです。

************


さて、今回も、前回の続きである幕末維新のすり替わりの例をご紹介します。

まず、この写真。誰でしょう?

大村益次郎

(ウィキペディアから引用)

幕末維新のスターの一人、大村益次郎です。
<WIKI:大村益次郎>

しかし、この人物は、阿修羅によって本物にすり替えられたものなのです。おそらく1863~64年の頃です。前掲のウィキペディアにも、福沢諭吉が長州藩に入ったばかりの大村益次郎が、変貌した言動を吐いたことに驚いたエピソードが書かれています。

この偽益次郎は、阿修羅族であり、偽岩倉具視や偽三條実美と並ぶ幹部なのです。

後に暗殺されたのは、正規軍による粛清です。新撰組の存在と通じるところがあると思います。

さて、その大村益次郎も長州藩ですが、幕末の尊王攘夷運動において急進的に活動を活発したのが長州藩でした。

そのきっかけを作ったのが、誰もが知る吉田松陰です。
<WIKI:吉田松陰>

吉田松陰

(ウィキペディアから引用)

ところが、私は、吉田松陰をルーツとした木戸孝允、高杉晋作などの長州正義派は阿修羅の手先と主張してきました。
<WIKI:長州正義派>

ということは、吉田松陰も阿修羅だったのでしょうか?

私は、この点が分からずにいました。

しかし、先日、萩の松陰神社や松下村塾跡を見学して、真実が見え出してきたのです。

松下村塾跡

松陰神社

屋敷内の吉田松陰像

松下村塾①


松下村塾で学んだ長州正義派

松下村塾②


幕末の尊王攘夷運動のきっかけになったのは、前回記事でご紹介しました1853年の黒船来航ですが、日本ではこの少し前から尊王攘夷運動の機運は盛り上がっていたはずです。

特に、地方の薩摩藩、長州蕃、土佐蕃で、その動きが顕著だったのは皆さんもご存じのとおりです。

この時代は、朝廷を元の天皇制に戻そうという公武合体の動きがあったのです。そこに、黒船来航があったものだから、一気に公武合体(尊王)に攘夷運動に発展したのですが、攘夷の真の意味は外国人の排斥ではなく、そのバックにいる阿修羅の排斥だったのは前回ご紹介したとりです。

黒船来航に大きな影響を受けたのが萩にいた吉田松陰です。

松陰は、西洋文化を学ぶ目的で、二度海外渡航を試みますが、失敗し謹慎処分を受けます。

その後、有名な松下村塾を開き、長州藩の若手に陽明学や西洋思想などを教育し、育てていきます。

ところが、1858年、幕府が無勅許で日米修好条約を締結したことに怒り、時の老中、間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺計画を企てたとされ、捕えられ牢獄に入れられます。

そして、1859年安政の大獄の一環で処刑されたことになっています。

しかし、本物の吉田松陰は生き延びていたのです。死んだのは影武者です。

吉田松陰が、牢獄に捕えられることになった原因、
老中間部詮勝の暗殺計画は、実は阿修羅によって嵌められものででっちあげなのです。

当時の徳川幕府にも当然阿修羅が入り込んでいます。その筆頭が、大老井伊直弼。安政の大獄の首謀者です。

井伊直弼は、松陰の松下村塾に危機感を覚えていたのです。阿修羅排斥が主目的である、真の尊王攘夷運動が盛り上がることをです。

長州藩の若手が台頭する前に、トップの松陰を排斥しようとしたのです。

しかし、前述のごとく、本物の松陰は影武者とすり替わり、難を逃れます。

ただ、幕府は松陰の処刑を発表したので、松陰は別人に成らざるを得なかったのです。

その別人こそが、徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜なのです。驚きでしょう!

徳川慶喜

(ウィキペディアから引用)

孝明天皇がすり替わった勝海舟が、徳川慶喜を説得し、大政奉還を成し遂げたのは、徳川慶喜の前身が吉田松陰だったからなのです。

歴史の謎は奥が深いのです。

ただし、吉田松陰亡き後の長州藩は、松下村塾で学んでいた久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文なども主要メンバーは阿修羅によってすり替えられ、長州正義派となって松陰の思想とは違う方向に進んでいったのです。


最後まで読んでいただきありがとうございます。


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2014-07-28 00:00:00

すり替わりの真実(幕末維新④)

テーマ:歴史の真実
日本の歴史は、阿修羅による為政者等のすり替わりが頻繁に行われ、その結果、侵略・支配が繰返えされ、真実の歴史は改竄されてきたことを書いてきました。

一方で、阿修羅に対抗する正神界(本来宇宙には正神界、邪神界という定義はないのだが、阿修羅が勝手に作っている)も、ただ黙って見ているだけではなく、天の采配によるいい意味での重要人物のすり替えで、阿修羅に対抗してきたのです。

その典型が幕末・明治維新なのです。
<すり替わりの真実(幕末維新①)>
<すり替わりの真実(幕末維新②)>
<すり替わりの真実(幕末維新③)>

今回は、この幕末・明治維新のすり替えの中でも、天の采配によってすり替わりを行った、驚くべき事件・真相をご紹介します。

幕末の社会が混迷し、
尊皇攘夷運動が高まったのは、1853年のペリーの黒船来航がきっかけであるのは歴史の常識ですよね。

ペリーが日本に来た目的は、「当時の米国内では石油が発見されておらず、主力の燃料である鯨油を探しに捕鯨が盛んな日本にたどりつき、鯨油取引のため開国を求めた」と言われています。

ところが、ペリーが一旦帰国すると、米国で石油が発見され、鯨油の必要性は薄れたため、今度は貿易目的で開港を要求した、というような話も伝わっています。

この見解に関しては、私は阿修羅によるでっちあげだと思っています。

おそらく、黒船来航の背後には、
日本を支配したい阿修羅の強い思惑があって、阿修羅は外国の力を使い、日本に圧力をかけ、日本支配を行おうとしたのです。ペリーはその手足として使われたのです。現在のロシアのプーチンと同じです。マレーシア航空機撃墜事件は阿修羅の戦術に巻き込まれたのです。

阿修羅幹部は、長い間、安定していた徳川幕府を崩すには、国内だけで難しいと判断し、米国の力によって圧力をかけ、
尊皇攘夷運動の世論を高め、社会を混迷させていったのです。

それまで、鎖国によって一部の国としか交易を行っていなかった日本は、独自の素晴らしい日本文化を維持し続けていたのですが、明治維新を機に近代国家といういかにも耳障りのいい言葉に世論が騙され、阿修羅支配へ落ちていったのです。その結果が明治維新なのです。

明治維新が決定的になったのは、
大政奉還(1867年11月)とされていますが、実際にはその前(1867年1月)の孝明天皇の崩御なのです。

(孝明天皇 ウィキペディアより引用)

孝明天皇


公武合体や尊皇攘夷を阿修羅の思惑とは異なる方法で進めていた孝明天皇の突然の死によって、阿修羅主導の間違った明治維新につながっていったのです。

ちなみに
攘夷とは、「外国人を排除する」という意味だとされていますが、本当は意味は外国人ではなく、阿修羅に操られた外国人を排除することだったのです。当時の日本に圧力をかけてきていた米国を中心とした外国人は、阿修羅に操られていたからです。

孝明天皇が考えていた尊皇攘夷とは、阿修羅の支配を避け、本来の神国日本の形である皇室主導の政治を取り戻すことだったのです。

ところで、孝明天皇は、35歳という若さで亡くなっています。死因は天然痘とされていますが、これは阿修羅による改竄で、実際には
阿修羅による暗殺なのです。

刃先に毒を塗った刀で刺殺されたようです。
暗殺したのは、本来の伊藤博文にすり替わった阿修羅です。後に初代総理大臣になった伊藤博文とは、阿修羅がすり替わったものだったのです。驚愕です。

(伊藤博文 ウィキペディアより引用)

伊藤博文


ところが、暗殺されたと思われていた孝明天皇でしたが、実は死んでいなかったのです。死んだのは影武者だったのです。

ここから驚愕の歴史なのです。

阿修羅は、孝明天皇を暗殺し、皇位を継ぐ、幼少の明治天皇をすり替える計画でした。阿修羅の思惑を知っていた孝明天皇は、影武者の死を機に人生最大の大芝居に打って出たのです。

それが、
自身が別人物にすり替わることだったのです。

その人物とは、皆さんがよくご存じの
勝海舟なのです。驚愕でしょう!

天皇が、一般人にすり替わるというのはさすがに前代未聞なのかもしれません。

孝明天皇がすり替わる前の若き勝海舟はこの写真です。
(ウィキペディアより引用)

勝海舟①


孝明天皇がすり変わった1867年以降の勝海舟はこちらです。
(ウィキペディアより引用)

勝海舟②


幕末から明治維新にかけて、突然勝海舟が表舞台で活躍しだした背景には、孝明天皇のすり替わりが理由だったのです。

勝海舟は、真の維新メンバーを集めます。それが、以前紹介したフルベッキの写真のメンバーなのです。

明治維新

<すり替わりの真実>

これらのメンバーを統率したのが孝明天皇である勝海舟で、
真の維新群VS阿修羅という戦いが始まったのです。

そして、勝海舟が打った最大の手が1867年11月の
大政奉還のです。

元来、神武天皇以来、天皇が日本だけでなく世界の人類のトップであるべきなのですが、古代から阿修羅によって天皇の地位は下げられ、鎌倉時代以降は武家が力を持ち、実質的な権力トップは幕府という時代が800年ほど続きます。

孝明天皇は、この状況を本来の状態に戻したかったのです。それが当社の公武合体や尊皇攘夷の考え方だったはずです。

そこで、旧知の徳川第15代将軍徳川慶喜と、本当は自分の息子である幼少の明治天皇を手打ちさせ、大政奉還という日本史上有数の大事件を決行したのです。

これによって真の明治維新が成就するはずだったのです。

ところが、阿修羅はそう簡単にあきらめるような輩ではなかったのです。

阿修羅は、幼少の明治天皇をすり替え、皇室を侵略するという暴挙をやったのけたのです。1867年末から1868年初頭にかけてのことでしょう。

これをきっかけに、真の維新メンバーの多くは、暗殺されるなどして、阿修羅によってすり替えられて行ったのです。

実際に、明治初期に発足した明治新政府の主要メンバーで、真の維新メンバーで残ったのは西郷隆盛他ほんの数人だったはずです。

その西郷隆盛も西南の役で完全排除されることになるのです。

こうして、日本の近代は、阿修羅主導の天皇制に移行してしまったのです。大日本帝国憲法という悪名高い憲法が出来たのはこのためなのです。


最後まで読んでいただきありがとうございます。


2014-07-21 00:00:00

考古学はまやかし

テーマ:歴史の真実
私が歴史の真実の探求に関心を持ったのは、ムーとやアトランティスなどの先史文明が本当に存在していたんだ、ということが分かって来たからです。

調べてみると、世の中の常識では説明できないものが、この世にはたくさんありました。

それを自分なりに調べだしたのが約5年前。そこから宇宙人やら、神やらに発展していきました。実際には、ムーなどの先史文明は、神(天部)が中心となった文明のことだったのです。

そうすると、歴史常識的には低いとされている日本の縄文時代や弥生時代の文化度は、実は高かったのではないか、と考え直すようになります。

古代人は横穴式住居や竪穴式住居に住んでいて、縄文時代は狩猟民族、弥生時代は農耕民族と変化して徐々に文化度が高くなって行った、とされている歴史の定説に、どうしても疑問が生じました。

もちろん、古代は科学技術が現代のように発達していなかったのは間違いないのですが、あの壮健な出雲大社は、太古はより巨大な建物として存在していたことが明らかになっています。重機を使わずして、あれだけの建築物を正確に造る技術とは、我々想像している縄文時代や弥生時代の文化度とは全く異なるのです。

弥生時代後半、3世紀頃に存在していたという邪馬台国についても、実在・非実在が常に議論されていますが、九州に実在していたことは間違いありません。教えられてきた歴史は、全てが異なっているといっても過言ではないのです。

それでは、何故、これら古代(神代から上代)のことは謎だらけなのでしょうか?

それは歴史が阿修羅によって改竄されたり、消されたりしてきたからなのです。

その改竄は、一体どのようにして行われてきたのでしょうか?

その一端が、少しずつ分かってきましたのでご紹介します。

日本の考古学の基礎を築いたと言われる人物に、米国人動物学者のエドワード・S・モースがいます。大森貝塚の発見者で有名な人物ですね。
<WIKI:エドワード・S・モース>

モースはダーウィンの進化論を体系化し、日本に初めて紹介した人物でもあるようです。

そもそも、進化論自体が間違いなのですが。冷静に考えてみれば分かることです。人は人間界、猿は畜生界。人種の違いも考えれば進化論なんてあり得ません。進化論は阿修羅が持ち込んだ理論です。

モースは、米国の動物学者ですが。1877年(明治10年)、40歳の頃、生態系な豊富な日本に渡ってきます。

その研究の途中、当時の鉄道に乗って横浜駅から新橋駅に向かう途中、現在の大森付近を通過していた時に、車窓から現在の大森貝塚を発見した、とされています。すごく嘘っぽいエピソードです。
<WIKI:大森貝塚>

貝塚とは、縄文時代の狩猟民族が食べていた貝の殻が、捨てられたものが積み重なったものとされています。

モースが、1877年に大森で貝塚を発見して以降、各地で同様な貝殻の堆積物が見つかり、縄文時代の集落の跡とされてきました。

これは事実なのでしょうか?

確かに、貝塚が見つかった場所の周辺には古墳があったり、住居跡があったりと、古代に集落があったことは間違いないと思います。

しかし、貝殻の堆積層が見つかったから、縄文時代は狩猟民族で、文化度が低かったと結論付けていいのでしょうか?

大森貝塚については、中学校の歴史の教科書に出ていたので、その名称は知っていましたが、貝塚自体に関心はありませんでした。

ところが、先日、仕事関係で都心から蒲田方面に向かっている途中、大森駅手前で、大森貝墟という大きな字の石碑が目に入りました。まるでモースのようですね。

その石碑に瞬間的に強い邪気を感じ気になりましたので、途中の大森駅のホームに降りてみました。

すると、降りたホームの目の前にモースの石碑がありました。日本考古学の生みの親みたいなことが書かれていました。

モースという名前くらいは知っていましたが、人物の詳細は知りませんでした。ましてや、考古学の生みの親とされているとは。

ただ、モースの石碑に、強い邪気を感じましたので、モースには悪しき謎が隠されていると感じ、後日、改めて大森貝墟の石碑を見に行くことにしました。

大森貝嘘は、大森駅から徒歩数分の線路沿いにありました。物凄い邪気を放っていました。

大森貝塚①

大森貝塚②


当然、大森貝塚の発見者モースの業績についても紹介されています。

大森貝塚③


また、大森貝墟からさらに都心よりに数分歩くと、大森貝塚公園がありました。この公園も物凄い邪気に覆われていました。

モース像に至っては、半端な邪気ではありませんでした。

大森貝塚④


さらに周辺を散策すると、古い神社や寺院がたくさん見つけられます。

大森駅前にある天祖神社

天祖神社①

天祖神社②


天祖である天照大御神を祀っている由緒ある神社です。他にも荏原神社や日枝神社、鹿島神社など、歴史の古い由緒あるが周辺にはありました。

これらのロケーションから、私が感じたのは、品川から大森、蒲田にかけての一帯は、神代、神々が活躍していた重要場所だったのではないか、ということです。

品川区の海岸沿いには天王洲という地名もあります。天王とは、太陽系の神々の王のことです。牛頭天王もその一つの存在です。

これら東京湾西岸地帯には、かつて(4000年強前だと推測)神代の都があったはずです。従って、重要かつ古い神社が点在しているのです。

古代(神代終了後の上代)の人達は、かつての神々を崇めるため神社を創建して祀ってきたのです。江戸時代までは、日本神話は普通に歴史の一環として教えられていたはずです。

ところが、そのことを隠したい阿修羅(増上慢偽明治天皇)は、明治維新を機に、すべての常識をひっくり返すために、歴史も変えていったのです。

その洗脳のツールとされたのが考古学という概念です。

モースは、まじめな動物学者として日本に来たのでしょうが、阿修羅によって考古学者の生みの親に祀り上げられてしまったのです。阿修羅と契約してしまったのでしょう。
<増上慢との契約>

阿修羅の目的は、神代を縄文時代に改竄することです。そして、上代を弥生時代に。

そのために、化石として残り易い貝殻の堆積層を貝塚と定義し、文化度の低い縄文時代という歴史概念を創りだしたのです。モース以降、考古学という欺瞞の学問によって、皆さんは洗脳されてしまったのです。哀れな事です。

コペルニクスが地動説を唱え、その後、天文学の常識は一変したと言われていますが、それまでは阿修羅によって天動説に改竄されていたのです。

同じようなことが、神代と縄文時代にも言えるのです。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

2014-07-14 00:00:00

古墳の真実

テーマ:歴史の真実
世界の歴史、日本の歴史は改竄だらけで、世界中、誰一人真実を知っている人はいません。

特に日本の歴史は改竄がひどく、明治以降は、阿修羅のお抱え歴史学者によって、全く反対といってもいいほど改竄されているのです。歴史とは勝者(阿修羅)に作り替えられた歴史なのです。

皆さんは、そういう改竄の歴史を学校で教えられていくことで、小さい頃からどんどん間違った歴史観に誘導・洗脳されているのです。歴史の常識ほど、恐ろしいものはないのかも知れません。中世・近代も全て改竄です。

そういう日本の隠された歴史の一つに、古墳があります。

古墳は、3世紀から7世紀くらいにかけての古代有力者の墓、と言われていますが、全てがそうとは限らないのです。古墳には、もっと深い謎が隠されているのです。

古墳は日本独特のものです。朝鮮半島にも一部点在していますが、それは日本人が、古代に朝鮮半島に阿修羅に対抗するために、影響力を持っていた頃の名残りなのです。

それと、古墳が造られた時代ですが、通説のように3世紀から7世紀に造られた古墳が多く発見されていることは間違いではありませんが、その時代よりも、ずっと古い4000年前後前の神代の時代のものも結構たくさんあるのです。

〇〇天皇陵などのように、はっきり名称が付いている古墳は、その天皇が在位していた時代の古墳だと考えていいと思いますが、はっきりしていない古墳は、神代(約3400年以上前)のものが多いと思われます。

福岡県久留米市にある権現塚古墳

権現塚古墳①


二つ並んだ円墳

権現塚古墳②


また、古墳とされていない、各地にある小山なども、古墳であることが多いのです。そういう小山の周りには、小さな祠などが祀られています。これらも神代、又は上代の頃の古墳です。皆さんも、そういう目で探してみたら、意外に近所にたくさんの古墳らしき小山を発見するはずです。

徳島県阿南市にある小山。これはまさしく古墳

阿南②

阿南①

神代の古墳は、当時活躍していた神々(天界の存在)の死後、それらの神々崇めるため、大きな墳墓を造り祀ったのだと思われます。

宮崎県西都原古墳群の男狭穂塚古墳、女狭穂塚古墳がその典型で、それぞれ、これらは大己貴命と木花咲耶姫命の陵墓なのです。神代の時代は、
円墳や方墳が主です。

立入禁止の宮内庁管理の古墳

西都原古墳①


分かりづらいが奥が古墳。
西都原古墳②


ところが、神代が終わり、神々がいなくなって(追い出されて)地球が人間中心文明に移行すると、地球を統治する人間のトップは、日本の天皇に移行されます。天皇の祖先が天照大御神というのは、ここから来ている純然とした事実なのです。

上代からは、それまでの円墳や方墳よりも、前方後円墳が多くなっていき、その規模もだんだん巨大化していきます。

特に、第15代応神天皇の頃からは、墳丘の長さが400メートルを超えるような超巨大なものになり、次の第16代仁徳天皇陵(大仙陵古墳)は、世界最大の墓(古墳)となっています。

(仁徳天皇陵とされる大仙陵古墳。宮内庁によって厳重に管理され、中には入れない。)

大山古墳②


素晴らしい波動を放っている。

大山古墳③


先日、この大仙陵古墳を訪れたのですが、素晴らしい波動でした。古墳全体から素晴らしい波動を放出していました。写真からもなんとなく感じられるはずです。

宮内庁が厳重に管理していて立ち入れない、これらの古墳は、特別に重要な場所なのです。

何が重要なのでしょうか?

私の初期のブログの頃、陰謀系やスピ系をよく調べていた頃ですが、大仙陵古墳には戦後GHQが立入り、そこに契約の箱とか、アークとか、隠されていた三種の神器を発見して持ち帰ったとか、阿修羅系の雑誌ムーなどでは根拠のないことが書かれていました。そのくらい、世界最大の古墳、大仙陵古墳には謎が秘められているのです。

現状は、宮内庁が厳重に管理し、発掘もされていません。そこには、それなりの理由があるのです。

大仙陵古墳を筆頭とした大規模な前方後円墳について、私が違和感を感じるのはその巨大さです。

何故、莫大な労力と時間をかけて、あのような巨大な古墳を造る必要性があったのか?、なのです。

神代の時代、神々を崇めて、人間が大きな円墳を造ったことは理解できます。

しかし、上代以降の天皇は人間トップとはいえ、同じ人間界の存在です。それなのに、神代の神々よりも大きな前方後円墳になっています。何故でしょうか?

また、最大の大仙陵古墳に祀られているとされている仁徳天皇は、庶民の生活が苦しいのを見て、租税を免除し、そのために宮殿はぼろぼろになっても倹約を続けたと言われる聖帝です。今の政治家とは大違いですね。

そのような時代背景において、いかに仁徳天皇のためとはいえ、あのような巨大な古墳をを造るでしょうか?

それは、仁徳天皇の意思にも反しているはずです。
<WIKI:仁徳天皇>

私が思うに、このような宮内庁が厳重に管理し、立入りを禁止している古墳には、別に大きな秘密があるのです。

それは、宇宙と繋がったワープゾーンだということなのです。

以前、宇宙の六道輪廻の出入口として宍道湖を紹介しました。
<宇宙の六道輪廻>

人間にも、少数ですが、通常の六道輪廻には属しない上の六道輪廻に属する人たちがいるのですが、その人たちの魂の出入口が宍道湖ということなのです。

要は、宍道湖は普通の人には見えないけれども、宇宙と繋がった次元の異なるワープゾーンなのです。

大仙陵古墳をはじめとした宮内庁が立入禁止している巨大な前方後円墳は、宍道湖と同じように宇宙に繋がった場所なのです。凄いでしょう!

神代の時代、神々はこれらの場所を通じて、宇宙からやってきていたのです。

しかし、神代が終了し、人間中心文明に移行すると、人間は使う必要性が亡くなったために天の意思によって、封印され、天皇の古墳にすり替えられて、次に使う時代が来るまで宮内庁によって厳重に管理されているのです。

前方後円墳の形が、鍵穴の形をしているのは、宇宙の扉を表しているからなのです。

そして、再び、その封印が解ける時代が、すぐ目の前に迫っているのです。10年以内です。楽しみですね。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

2014-07-07 00:00:00

霞の真実

テーマ:宇宙の真実
全国的に梅雨の末期に入り、各地で豪雨が降っています。

しかし、今年はそれほど大きな被害は出ていません。波動が二年以上前の状態だったら、大きな被害続出だったはずです。全国的に波動が上がった証拠なのです。

ただ、先日、三鷹市のごく狭い地域でひょうが降り、車が通行できないようになったシーンが報道されていましたが、あのような場所は局地的に波動が低い場所なのです。その地域の寺社仏閣に結界が張られているからなのです。

阿修羅は、その波動が低い場所を狙って、集中的に気象操作を仕掛けているのですが、昨年までとは全国的に波動レベルが上昇しているので、大災害が避けられているのです。


さて、当ブログをご覧の方は、霞(かすみ)のことはご存じだと思いますが、世の中の一般の方は、霞には全く気が付いていません。未だにPM2.5だと騒いでいます。面白いですね。
<PM2.5の欺瞞>
<暦と季節と波動>

霞とは、一体どのようなものなのでしょうか?

ウィキペディアで調べてみると、次のように簡潔に書かれています。
<WIKI:霞>

「霧・もや・煙霧などで遠くの景色がぼやけて(かすんでいる)様。文学的表現であり気象学的定義はない。春の季語。」

これを読んで驚きました。霞の原因は全く分かっていないのですね。

昔から霞という言葉が存在するのに、分かっていないのです。これは、霞の真実が、阿修羅によって意図的に隠されているということでもあるのです。都合が悪いのです。

「気象学的定義はない」とされているので、マスコミは、阿修羅系学者等によって霞をPM2.5とすり替えられていることに気づかず、毎日天気予報でPM2.5情報を流しているため、一般大衆もいつの間にか洗脳されていくのです。所詮、人間レベルの科学力では分からないことが多いのです。

あと数年したら、この霞に対する世界の常識は一変しますから、楽しみに待っておいてください。

それでは、今回は、霞の定義について、ご紹介します。

まず、この記事を再度読んでみてください。

<魂と浄化システム>

神代に造られた神国日本の浄化システムは、地球上のたくさんの生物が死んだ際に発生する欲望にまみれた魂、これが邪気の正体であり、この邪気を浄化しています。

ところが、阿修羅によって日本全国の浄化システムは、それを守護している神社等に結界が張られ、十分な浄化ができないような状態に陥っていました。

これが特に明治以降、日本の波動が下がり続ける原因であり、近年の空は邪気まみれの青い色が常識になっていたのです。

その結界が、二年前から解かれだすと、日本全国各地、さらには世界まで波動が上がりだし、空が青い状態から薄い青になり、ところによっては白く見えることもあります。雲の見え方もくっきりになっています。

そして、山沿いには白く
がかかることが多くなり、遠方の視界が悪くなり、山などが見えにくくなっています。これは、霧や煙霧などではなく、波動が高い状態なのです。

以上が前掲記事の概略ですが、この記事では霞の正体は何なのか、はっきり言及できていません。あくまで浄化システムが稼働し、波動が高くなったので、霞が出ているとしか書いていません。この時点では、私はそこまでしか分かっていませんでした。

その後、各地を巡る中で、霞の真実が分かったのです。

宮崎県霧島に霞神社という名の神社があります。霞の中に佇む神社です。

(宮崎県霧島の霞神社)

霞神社①


修験道の縄張りのことも霞と呼んでいたそうだ。

霞神社②

薄らとした霞の中にたたずむ。

霞神社③

霞神社から見た霞。

結論からいいますと、霞とは、浄化システムによって浄化された魂、つまり精霊の集合体なのです。

主として、植物及び動物、微生物など人間を除く生物の精霊なのです。精霊とは転生する前のまっさらな魂のことです。

地球上の生物の魂は、一部の阿修羅を除いて、全て六道を輪廻をしています。実質的には、現在では六道に神界はなく、阿修羅界も十界から離れてしまっているので、阿修羅界に支配されている魂以外、地球上の全ての生物の魂は、基本的には人間畜生(動物)餓鬼(植物)地獄の四つの界を輪廻しています。

これは、私の見解です。

人間の場合、寿命が来ると、その魂は霊界に行き、反省会が行われ、審判を受け、次の転生先が決まります。

再度、人間に転生する魂もあれば、生前罪を犯し、動物や植物に生まれ変わる魂も結構多いようです。

さらに重罪を犯したり、自殺した場合等は地獄へ送られるようです。

とにかく、地球は魂の修行の場ですから、転生を繰り返して行くことで、魂の波動を上げて行くことが宿命なのです。

その結果、魂の波動が上がれば、上の六道輪廻に転生でき、佛様になる魂も登場することになります。本来の仏教とは、宇宙の存在のトップである佛様になることを目指す教義なのです。従って、誰でも簡単には成佛はできないのです。

地球上の人口は約70億人と言われています。毎日15万人以上の人が亡くなっています。ということは、毎日たくさんの数の魂が、霊界で審判を受けていることになります。さぞかし、霊界はごった返していることでしょう。

ところが、動物や微生物、植物レベルまで考えると、毎日死んで魂が発生する数は、想像もできないような天文学的数字になるはずです。兆や京レベルの単位よりはるかに上でしょう。

これらの畜生界、餓鬼界に属する膨大な数の魂が、死ぬたびに霊界へ行って反省会を行い、審判を受けられる訳がありません。

反省会を受け、審判を受けるのは、人間出身の魂だけだと言っていいと思います。

それでは、畜生界、餓鬼界、地獄界に属している魂は、どうやって次の転生が決まるのでしょうか?

人間界の魂が、畜生界、餓鬼界に属する魂、つまり動物、植物などの人間以外の生物に落ちた場合は、その界において、決められた一定期間が終了するまでは、
植物なら植物、動物なら動物というように自動的に転生し続けなければならないのです。

例えば、植物だったら50年間、動物だったら100年間というように(
正確な期間は知りません)。その期間の中で、植物だったら死ぬとまた植物に、動物だったらまた動物に転生するようなのです。

「それなら樹齢千年を超えるような木はどうなるの?」

と聞きたくなると思いますが、この場合は特別で、おそらくこれらの木は神界に属するのでしょう。木の神様なのです。ご神木などは特別な存在なのです。

さて、霞の話に繋げていきます。

霞は、山沿いや植物や昆虫が多いゴルフ場等の緑地でより濃くなります。

それは、霞の正体が、人間以外の植物、動物の魂が浄化された精霊だからです。

これら精霊は、一度わざわざ霊界に戻ることなく、前述しました一定期間の終了が来るまでは地球上で待機し、次の植物や動物としての転生を待つのです。

そして、転生準備のために転生先が見つけやすい、山や森などに自然に集まってくるのです。

二年前までの結界が張られた波動の低い状況では、浄化システムの処理能力が現在よりも極端に低かったので、誕生する精霊の数も少なく(一方で邪気は増えて行く)、転生待ちする精霊が少なかったのです。

だから、霞はあまり発生せず、空が青かったのです。

それとともに、地球上の植物はだんだん少なくなっていたのです。種がたくさんできても、種の数に比較して、次の世代の植物に転生できる精霊の数が足りないので、発芽率が悪くなっていたのです。

動物の場合も同様で、おそらく受精率が悪くなるのです。

波動が高い場所だと作物が豊作になるのは、この理論と同じです。波動が高い場所は、植物の精霊が多いのです。
<結界の真実②>

現在は、浄化システムの結界が解け、誕生する精霊が大幅に増えました。そして、邪気はなくなってきました。

たくさんの精霊は、植物や動物に転生するため、転生しやすい山などに待機し、より良い待機先を競争しているのです。転生できる魂より、転生待ちの精霊が多いので、精霊が山などにあふれとなって見えるようになったのです。

今後は、自然の生態系が波動上昇とともに活発化していくのです。凄い仕組みでしょう!すべて波動上昇が地球の諸問題を解決するのです。阿修羅でさえもです。

理解できましたでしょうか?

霞が深い場所とは、精霊がたくさんいる場所。だから波動が高く気持ちがいいのです。

これから、世界中の緑が復活していきます。


最後まで読んでいただきありがとうござます。


2014-06-30 00:00:00

二人の日蓮

テーマ:歴史の真実
前回、前々回と、源義経と親鸞、それに法然についての真実の歴史についてご紹介しました。
<義経と親鸞>
<法然と親鸞>

源義経がすり替わった親鸞は、阿修羅から法然を救うため、さらには世の中を救うために仏教家として再度立ち上がったのですが、結果的には法然とともに阿修羅の罠に嵌り、親鸞という名前すら阿修羅トップの増上慢に乗っ取られ、すり替わられてしまったのです。

それでは、本来の親鸞(源義経)は、その後どうなったのでしょうか?

ここからが、さらなる驚愕の展開になっていくのです。

本物の親鸞は、偽親鸞が暗躍しだした中で、再起するタイミングを待つため、ひっそりと活動し、全国行脚しながら結界を解いていたのです。1215~1250年くらいの間のことだと推測します。全国各地に親鸞の足跡があるのは、この時のものです。

そして、その後、1250年代になって、親鸞は歴史上重要な人物と出会うことになります。

それが日蓮(1222年~1282年)なのです。
<WIKI:日蓮>

鎌倉時代には、後世の現代に至るまで、多大な影響を与え続けることになる仏教家が登場します。

法然、親鸞、栄西、道元、そして日蓮等。

何故、この時代に、このように歴史に名を残す重要な仏教家が登場したのでしょうか?

それは、この時代が末法に入る重要な時代で、天の采配でそれまでの天皇や武将の魂が、仏教家に生まれ変わって、世の中を別方向に導こうとしていたからなのです。

その時代の流れを汲みとって、自ら親鸞に転身したのが、源義経だったということにもなるのです。

そして、この鎌倉仏教の後半に登場した超大物が、日蓮ということになります。

実は、日蓮は法然の魂の生まれ変わりなのです。法然時代、阿修羅に誘導された無念を晴らすために、天の采配で生まれ変わったのです。

凄いでしょう!普通の方には、信じられないことだと思います。

法然から生まれ変わった日蓮は、法然と親鸞が阿修羅の罠に嵌ってしまい、偽親鸞が登場し、本来の二人が意図していた教えとは異なる専修念仏が広まったことを正そうとしたのです。

現在の千葉県鴨川市小湊で誕生した日蓮は、地元の清澄寺で学んだ後、三井寺や薬師寺などを遊学します。

(誕生寺)

誕生寺①

日蓮が生まれた小湊の誕生寺

(誕生寺の幼少の日蓮像)

誕生寺②

良く知る日蓮とは雰囲気が異なる。


そして、再び
清澄寺に戻り、現代社会でも誰でも知っている「南無妙法蓮華経」というお題目を広めていきます。飛鳥時代から伝わっていた法華経にさらに独自で磨きをかけ、大衆に広めようとしたのです。

(清澄寺)

清澄寺①

若き頃の日蓮が学んだ清澄寺。

(清澄寺の日蓮堂)

清澄寺②

物凄い神気。日蓮のオーブも写っている。

有名な「立正安国論」を発表した頃(1260年)のことです。

阿修羅が広めつつあった、専修念仏の「南無阿弥陀仏」に対抗しだしたのです。

当然、阿修羅は、邪魔者の日蓮を排斥しようとします。

それらの一連の流れが、1260年から始まる松葉ケ谷法難に始まる、日蓮の数回に渡る苦難なのです。

日蓮は何度も命を落としそうになったようですが、いずれも奇跡的に助かったとされています。

ところが、この間、日蓮はどうも命を落としたようなのです。1262年頃のことだと思います。

しかし、救世主、日蓮がこのまま亡くなったとなっては、世の中は阿修羅の思う壺になります。

そこで、天は、後釜の日蓮を用意したのです。

それが、源義経がすり替わった親鸞だったのです。驚愕でしょう!

親鸞は1262年に亡くなったことになっていますが、義経はこの年に親鸞を捨て、二代目日蓮にすり替わったのです。

そして、初代日蓮の跡を継ぎ、「南無妙法蓮華経」のお題目を大衆に広めていったのです。

二代目日蓮も小松原法難や辰口法難で危機に陥りますが、そこは覚醒した人物、天の采配を受けながら切り抜けて行きます。

そして、二代目日蓮のクライマックスが、元寇の神風です。この神風は二代目日蓮が法力によって起こしたものなのです。

そうでなければ、二度も偶然のように台風は来ないです。世の中に偶然はないのです。すべて因果応報。

二年前の記事にやっとつながりました。
<神風を起こす>

千葉県の清澄寺を中心に活躍したのが初代日蓮、人生後半の山梨県久遠寺を中心に活躍したのが二代目日蓮です。二人合わせて真の日蓮なのです。


最後まで読んでいただきありがとうございます。


2014-06-23 00:00:00

法然と親鸞

テーマ:歴史の真実
前回記事の続きになります。
<義経と親鸞>

親鸞は、源義経がすり替わった人物だった、ということでした。

親鸞といえば、浄土真宗の開祖と言われていますが、実際は違います。これは後述します。

義経がすり替わった親鸞は、仏教を学ぶために比叡山延暦寺で修行します。10年間くらいでしょうか。

そして、当時広がりつつあった一般大衆の仏教、「南無阿弥陀仏と念仏さえ唱えれば死後は平等に往生できる」という専修念仏を基本理念とした、日本の浄土宗の開祖である法然と出会います。
<WIKI:法然>

と、歴史上では伝えられていますが、実際には、親鸞は、阿修羅に悪い方へ誘導されつつあった法然を、救おうとしていたのです。

平安時代の仏教は、密教であり出家僧が修行を積み、悟りを開くことが目的でした。それ以前に始まった修験道からの流れだと思います。

平安時代の末期、「末法の時代に入った」と世の中が喧騒になると、これまでのような密教による出家僧だけでなく、一般大衆を救済しなければならない、という考えが広まりだします。そこに登場したのが、法然で、法然によって専修念仏が広がりだします。

しかし、いつの世も、阿修羅は一般大衆を洗脳した上で支配下に置きたい訳ですから、大衆に影響力がある権力・影響力のある人物、宗教・団体等を真っ先に狙っていくのです。

現代社会でもたくさんの新興宗教があり、それらの公称会員数を合わせると、日本の人口の二割以上を占めるはずですが、それらの宗教団体はほとんどが阿修羅の支配下です。影響力がある団体等は阿修羅に狙われるのです。
今も昔も同じことです。

末法の世界に入ったと言われていた時代です。法然の専修念仏は急速に一般大衆の中で広がっていきます。

これを阿修羅が見逃すはずがありません。阿修羅は、法然を支配下に置こうとしたのです。

この時に登場したのが、前回記事でご紹介した義経がすり替わった親鸞だったのです。

親鸞が法然に近づいたのは、阿修羅の手に落ちかけそうになっていた法然を、バックアップすることが一義的な目的だったのです。そのために法然の弟子となり、内から法然を守ろうとしたのです。

しかし、専修念仏と、天台宗などの当時の既存仏教は、阿修羅によって対立構造を煽られ、朝廷を巻き込んでの衝突に発展します。これが承元の法難等の騒乱です。
<WIKI:承元の法難>

これらの歴史は、表向きの歴史書だけ読んでも分からないことです。何故、宗教対立によって戦争にまで発展するのか。それは、当事者たちが阿修羅によって魂を悪い方向にくすぐられ、対立するように持っていかれるからです。人間の欲望をくすぐるのです。人間は欲望に負けやすい動物なのです。

現在のように、中東やロシアで衝突が起きているのも、まさしく阿修羅が見えない世界で跋扈しているからなのです。

話が飛びましたが、承元の法難によって、専修念仏は朝廷から停止され、法然と親鸞は流罪となります。1207年のことです。

流罪から戻った法然は、しばらくして亡くなり(1212年)、一人になった親鸞は、法然の後をついで東国布教の旅に出たとされています。親鸞の足跡はここからは不明な点が多いのです。
<WIKI:親鸞>

そして、親鸞が再び歴史上に登場するのは、1230年代半ば、62、3歳の頃です。この後は、執筆活動が中心となり、1247年には有名な「教行信証」を完成させることになります。これが、後の時代、浄土真宗の教義に繋がっていくのです。

ところが、実は、帰京した以降の親鸞は、義経がすり替わった親鸞とは異なっていたのです。

皆さんが歴史の教科書等でよく目にする肖像画の親鸞です。(ウィキペディアから引用)

親鸞


この肖像画の親鸞は、晩年の親鸞を描いたものですが、若い頃の親鸞(義経がすり替わった人物)とは異なります。

本物の親鸞は、もっと柔らかい顔をしています。

皆さんが、よく知る肖像画の親鸞こそ、増上慢(阿修羅トップ)がすり替わったものなのです。

法然の死後、親鸞は消息不明となり、帰京した際には増上慢がすり替わっていたのです。

そして、その偽親鸞の死後、法然や本物の親鸞が広めようとしていた浄土宗とは異なる教義の浄土真宗が誕生し、今日まで大きな影響を与えてきているのです。浄土真宗とは阿修羅の宗教なのです。

明治天皇は、明治9年(1876年)、
親鸞に対して見真大師の称号を与えています。時代的におかしいと思いませんか?

これは、まさしく、自分(明治天皇にすり替わった阿修羅)の魂が、偽親鸞にすり替わったことを意味しているのです。意味が分かりますか?

ちなみに、最澄が法然に生まれ変わり、空海が親鸞(源義経)に生まれ変わっているのです。最澄と空海の時代も同じような関係だったのです。

それでは、最初の本物の親鸞はどうなったのでしょうか?

ここには、さらに驚愕の展開になっていたのです。いずれご紹介します。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


2014-06-16 00:00:00

義経と親鸞

テーマ:歴史の真実
私がご紹介する歴史の真実は、それが事実であったとしたら、皆さんの歴史観が一変する驚愕の内容なはずです。

もちろん、細かい点は別として、大まかにはこの内容が真実だと判断して書いています。全て現地調査とインスピレーションからです。

このような内容を、本業が別にあり片手間でブログ書いている私が、考えて書けるはずがありません。すべて、波動、霊性が高まったのたまものなのです。

内容を信じられるかどうかは、皆さんの波動によるのです。

それでは、今回も驚くべき歴史の真実をご紹介します。


私の好きな歴史上の人物の一人に、牛若丸こと源義経がいます。弁慶とともに誰しもが知っている人物ですね。
<WIKI:源義経>

ところが、源義経の短い生涯には多くの謎が付きまといます。

幼少期は鞍馬寺で天狗によって修行を受けた。
突如頭角を表し、腹違いの兄、源頼朝とともに行動するようになる。
平氏討伐では、人間業と思えない活躍を見せた。
源頼朝と決別し、追われる身となる。
奥州で自刃した伝わるが詳細不明
、等々です。

これ以外に伝説として、義経は津軽海峡を渡って北海道に逃れ、その後、大陸へ渡ってジンギスカンになった説もあります。私は、二年前には義経=ジンギスカン説は十分有り得ると考えていましたが、それは違いました。

日本人としては、もっと驚くべき展開になっていたのです。

源義経については弁慶の出会いとともに、源平合戦の主役の一人として語られることが多いです。

そもそも、何故、平氏と源氏が対立するようになったかと言えば、背後には全て阿修羅がいて、朝廷のサポート役として武家社会を確立しつつあった平清盛を貶めて、朝廷を混乱させだしたのがきっかけなのです。たぶん、平清盛もいい意味で何度かすり替わっているはずです。

源頼朝、源義経兄弟の登場は、阿修羅に支配されつつあった清盛、及びその後の平氏政権を、正常な状態に取り戻すためだったのです。

従って、平氏が悪い、源氏が悪いという、単純な問題ではなく、正神界VS阿修羅界(邪神界)の代理戦争だったのです。他の改竄された歴史も全てそうなのです。

阿修羅は、一般大衆に対しては憑依・ウォークインによって、また時の権力者等に対しては、すり替えという手法によって、朝廷を支配しようとしてきたのです。人類中心の文明が始まった神武天皇の頃からずっとです。

平氏政権の混乱の中、頼朝と義経は一致団結し、阿修羅の手に落ちていた平氏政権を討伐し、正常な状態に戻します。この結果が、頼朝が立ち上げた本格的武家政権の始まりである鎌倉幕府なのです。

しかし、その頼朝も、鎌倉幕府を立ち上げた1192年には、すでに最初の頼朝からすり替わっていたのです。

頼朝が、突如、義経を排除しだしたのは、1185年初め頃です。義経が平氏を討伐した直後、実質的に源頼朝が朝廷と並ぶ時の権力者トップに着いた瞬間です。

義経が、後白河法皇に平氏討伐の戦勝を讃えられたことがきっかけで、妬んだ頼朝との関係が悪化したと言われていますが、本質はそうではないでしょう。

この時点で、頼朝はすでに阿修羅の罠に落ちていたのです。

その後、義経を匿った奥州藤原氏を巻き込んだ戦いとなり、二年後の1187年には義経は自刃し、奥州藤原氏も頼朝に敗れたことになっています。

この後、頼朝は1192年に征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府を開きます。その間には約5年の歳月がありますが、この間は、まさしく朝廷VS阿修羅との攻防であり、頼朝は当初の人物からすでにすり替わっていたはずなのです。それが頼朝、北条政子のコンビであり、朝廷をサポートするための鎌倉幕府の開設だったのです。


ここで、主題の義経に関する話題戻ります。


義経は、阿修羅の策略に惑わされた頼朝によって、奥州平泉に追い詰められたことは間違いないと思います。

ところが、そこで人生最大最後の一大演技を行ったのです。それは影武者を使った自刃です。


義経は、源義経という人間を死んだことにし、別人にすり替わったのです。

そして、そのすり替わったの人物というのが、仏教化としての後の親鸞なのです。驚くでしょう?

最澄、空海の場合と同じような流れなのです。歴史は繰り返すです。
<最澄と空海>


親鸞の幼名を見ててください。松若丸です。牛若丸の名残りを残していますよね。もちろん、親鸞にすり替わった義経が、自分で幼名を松若丸としたのでしょう。
<WIKI:親鸞>

それでは、何故、義経が仏教家になったのでしょうか?

その前に考察すべきは義経が頭角を表す前に何をやっていたかが重要なのです。

義経と言えば、平氏討伐を行ったことがまず思い浮かびますが、それ以前の不明の頃は、全国各地を巡り寺社仏閣等の結界を解いていたと推測されるのです。

全国各地に、たくさんの義経が来た痕跡があるのはそのためなのです。

(白山麓にある金釼神社)

延暦寺


金剱宮②


そういった最中、阿修羅が平氏政権を乗っ取ってしまうという事態が起き、後白河法皇がトップに君臨する朝廷も危機に陥ってしまったのです。

そこで一旦、頼朝とタッグを組み、平氏討伐に動いたのです。

ところが、前述のように、頼朝もおかしくなってしまい、自らも危機に陥ります。源義経のままではミッションをやり遂げることが難しくなり、仏教化に転身したのです。

この時点での義経は覚醒しており、常人レベルではなく神レベルの身体能力、神通力を持っていました。従って壇ノ浦の戦いでの八艘跳びや、海に沈んだ安徳天皇(実際には影武者)を救ったり、という伝説が残っていますが、これは厳然たる事実なのです。

その義経が何故仏教化になったのか?

それは、当時の時代背景が、出家僧を対象にした密教から、一般大衆を対象にした大乗仏教に移行しつつあったからです。大衆に仏教を広めることで、世の中が全く違うものになると朝廷が考えていたからです。

従って、仏教を普及させるために義経は親鸞になったのです。

ところが、偽物の親鸞が登場してしまうのです。

つづきは次回に譲ります。


最後まで読んでいただきありがとうございます。


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