「本能寺の変」 | 知っとうや(真実を求めて?!)

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⚡2900年続いた人類中心文明は、近い将来、五六七(弥勒)時代となり、本来あるべき姿に戻ります。それまでは産みの苦しみが続きますが、見事に成就して欲しいものです。⚡

[追記] (9月27日21:50)


吉野ヶ里で金星系UFO複数(8機)を撮影できました。次の写真を拡大すれば山沿いに小さく写っているのが分かります。


知っとうや2-吉野ヶ里UFO



一部を拡大したもの。
知っとうや2-UFO拡大版



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以前、戦国時代について書きました。

<参照:戦国時代の真実>


要点は次のとおりです。


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戦国時代は倭人系VS金星系の代理戦争だった


倭人系は、今川義元、武田信玄、上杉謙信など。


金星系は、いずれもウォークインされた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。


徳川家康は、世良田元信が松平元康(倭人系)とすり替わった人物である。


居場所がなくなった松平元康は、滝川一益と名前と人相を変え、逆に信長の側近中の側近となり、内部から信長を止めようとした

<参照:家康の真実①>

<参照:家康の真実②>


最終的には金星系が勝利。徳川幕府が始まり、260年間の鎖国となった。


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今回は、この戦国時代の中で、信長が暗殺された本能寺の変(1582年)の真実を深堀りします。

<WIKI:本能寺の変>


本能寺の変は、歴史上有名な出来事で、誰もがその概要を知っています。


「天下統一を目前に迫った織田信長が、京都の本能寺に滞在中、家来の明智光秀の謀反にあい、暗殺(最終的には自刃したとされる)された。首謀者の光秀は秀吉軍に討たれ、ここから秀吉の天下となった。」


ところが、これは金星系による歴史の捏造なのです。恐ろしいですね。我々は、教育という名のもとにウソの歴史を教えられ、それをベースにして現在の社会が成り立っているのです。嫌になりますね。


本能寺の変の真実は次のとおりです。


朝廷を実質的に支配したい金星系は、戦国時代に突入させ混乱を引き起こします。そして織田信長に目をつけウォークインします。ウォークインされた信長は、朝廷派(倭人系)の重鎮今川義元を桶狭間の戦い(1560年)で破り、同じく朝廷派の武田氏、上杉氏も徐々に追いつめていきます。そして、1570年代後半には天下統一が目前に迫ります。


不利な情勢になった倭人系は、世良田元信(後の偽者「徳川家康」)にその地位を奪われた松平元康が、滝川一益と名を変え、なんと信長の家来として忍び込みます。いわゆるスパイ、間者です。そこで目覚ましい活躍をし、頭角を現します


松平元康は、信長の家来に紛れ、トロイの木馬作戦による、内部から信長をストップさせる戦略をとったのです。元康扮する滝川一益は、すぐに信長の信頼を勝ち取り、短期間で織田四天王と呼ばれるまでになります。


そして、松平元康(滝川一益)と明智光秀が練り上げた信長ストップの最終計画が、本能寺の変だったのです。


ところが、作戦実行の直前で大きな誤算が生じます。


当時、信長の家来だった家康が、元康と光秀の動きを察知し、計画を事前に知ることになります。家康は入手した二人の計画を秀吉に伝えます。


信長、秀吉、家康の三人は、表向きは友好関係にある金星系同志です。


しかし、同じ金星系といえども、自分たちがトップに立ちたいという欲望が強かったのです。秀吉と家康は、あまり年齢が変わらない信長に天下を取られてしまっては、自分たちの天下が来ないと考えたのでしょう。特に家康はしたたかで、場当たり的な秀吉と異なり、長い時間をかけ、じっくりと計画を練っていたのです。


二人の計画を知った秀吉は、その計画を逆手にとって利用し、信長を倒すことを決意します。後で分かることになるのですが、結果的に、秀吉は家康の計画にまんまと乗せらることになるのです。


1582年6月、茶会を開催するために本能寺にやってきた信長を襲撃したのは秀吉・家康連合軍なのです。直接の実行犯は家康の家来のようです。信長は驚いたことでしょう。同じ金星系に討たれるとは。


さらに秀吉は、間髪いれずに明智光秀も討ちます。そして、本能寺の変のすべてを光秀の謀反であると擦り付け、歴史を捏造してしまうです。未来が変わった瞬間です。


この後、光秀とともに当初、信長暗殺を計画した元康(滝川一益)も没落し、隠居させられます。こうやって豊臣秀吉の天下となり、歴史は金星系によって捏造されたのです。


ところが、金星系(魂)のボス、家康はしたたかです。次の次を描いていたのです。秀吉を降ろすために、次の手を打っていくことになるのです。これは次の機会に書きたいと思います。


本能寺の変を計画した松平元康は、ミスにより計画を仇敵の家康に知られてしまったのです。それによって戦国時代以降、現代までにつながる歴史が変わってしまった、といっても過言ではないのです。元康はさぞかし無念だったでしょう。


先日、元康が生まれた岡崎城を訪問しました。


こちらが岡崎城。こじんまりとしつつも立派な城でした。
知っとうや2-岡崎城③


知っとうや2-岡崎城②


岡崎城からの眺め。

知っとうや2-岡崎城④


岡崎城は、三河松平家の居城。本来ならすり替わった金星系徳川家康とは全く関係がありません。家康が徳川と名乗ったのは、自らの出自を消すためでもあったのです。


しかし、岡崎城は、今では家康が自分の居城であったかのように歴史が捏造されています。


岡崎城の隣には、徳川家康を祀る龍城神社(たつきじんじゃ)があり、結界が張られていました。物凄い邪気でした。
知っとうや2-岡崎城①


こちらは元康が幼少時の竹千代像。こちらも封印されていました。
知っとうや2-岡崎城⑤


お祓い後の岡崎城。空気が変わりました。
知っとうや2-岡崎城⑥


元康の銅像。右下に素晴らしい光が。元康も少しは溜飲が下がったのでしょうか?

知っとうや2-岡崎城⑦

(クリック拡大)



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