前回の続きになります。
明治維新は薩長土肥を中心に進められますが、中でも長州の木戸孝允、薩摩の西郷隆盛、大久保利通の三人の立役者は、維新の三傑と呼ばれています。
三傑の選び方には異説もありますが、その場合でも西郷隆盛は必ず入っています。そのくらい西郷の明治維新に対する貢献度は断トツに高く、新しい時代の日本を作ることに人生の全てをかけたのです。
ところが、明治維新が終わり、明治新政府が出来ると、どうも西郷が描いていた日本と異なってきたようです。その一つが、明治天皇のすり替えではないか、と私はみています。
こちらは、即位直後の明治天皇の写真です。真中の人物です。
(クリック拡大)
一方、こちらの写真は明治維新後、少し時間がたってからの明治天皇の写真です。有名な写真ですね。
見づらいかもしれませんが、二つの写真では明治天皇の雰囲気が異なるのが分かると思います。
先帝の孝明天皇が35歳という若さで急逝し(これも毒殺されたとの噂)、明治天皇は16歳という若さで即位したようですが、下の写真の明治天皇は、16歳前後には見えないほど風格のある姿です。
この下の写真の人物は、実は大室寅之祐であり、明治天皇にすり替わったものではないかと言われています。その可能性は高いと思います。本物の明治天皇は即位数カ月で消された可能性が高いようです。
西郷隆盛は、冒頭述べたように明治維新の中心人物ですが、どうも、この明治天皇のすり替えのことを知らされていなかったようなのです。すり替えを主導的に行ったのは、維新後に新政府の中心メンバーとなった人たちでしょう。おそらく、金星系にウォークイン、または憑依・洗脳された人たちが中心だと思います。
維新後、しばらくたって、このことに気づいた大和魂の塊である西郷が、動揺しないはずはありません。その後は、次第に明治政府との距離が開いていったようです。
大政奉還の10年後、1877年に西南戦争が勃発した理由は、朝鮮との修好条約締結問題をめぐって、陸軍大将である西郷と、明治政府との間で意見が食い違い、西郷が陸軍大将を辞任し鹿児島に帰って私学校を開設した、というのがきっかけとされています。
しかし、実際には、西郷が、自らが影響を受けた島津斉彬と同様に、(明治天皇にすり替わった)金星系の魂胆に気づいたからだと思います。
従って、西郷は、再度、新たな日本を目指そうと考え、鹿児島へ戻ったのです。これを警戒した明治天皇、及び明治政府が、西郷つぶしを図ったのが西南戦争の発端なのです。
政府は、西郷を暗殺しようと計画します。西郷は、これに対抗し、1877年2月に西郷軍を編成します。これによって、実質的に西南戦争が開戦します。
しかし、西郷軍は旧薩摩藩を中心とした戦力。明治政府の戦力の前では不利な情勢は明らかです。次第に鹿児島市内に追い詰められていきます。
そして、1877年9月には、わずか40数名が、鹿児島市内城山の洞窟に籠城して抵抗するだけになります。
「これまで」と敗北を認めた西郷は、9月24日に切腹し、西南戦争は終結したとされています。
こちらが西郷が最後に籠城した洞窟です。西郷の墓と南洲神社の参拝後、見学に行きました。
この洞窟周辺は、物凄い邪気でした。これまで経験した中でも最大級でした。身体中が痛くなりました。丁寧にお祓いして、やっと収まりました。正直言いますと、ここは見学するべき場所ではないです。怨念が邪気となっているのです。ここで、西郷は息を絶えたのです。
この場所にも、西郷隆盛、島津斉彬、天璋院篤姫の三人の前世を持つ方と行きました。
一通り見学して落ち着いた後、私にはインスピレーションが湧きました。
それは、「ここで自刃した西郷は、影武者であって、本物の西郷はどこかで生き延びたのではないだろうか」、という感覚でした。感覚なので、それ以上のことはその場では分かりませんでした。
篤姫さんは、「有名な西郷さんの顔写真は、実は別人と言われています。本物の写真が残されていないのは怪しい。」とその場で話していました。
これが有名な西郷の顔写真。この人物は西郷とは別人物。西郷の影武者のようです。
帰ってから、調べました。
確かに、ネット上ではこの西郷の顔写真に疑問が投げかけられていました。
以前も紹介しましたが、維新メンバーオールスターの写真があります。
(クリック拡大)
こちらが上記写真の人物の名前を書いたもの。
(クリック拡大)
最後列真中(13番目)が西郷隆盛です。見づらいかもしれませんが、明らかに前掲の有名な西郷の写真とは異なる顔ですね。
その後、私なり調べ、さらにインスピレーションも湧きました。
金星系に睨まれていた西郷は、常に維新前から命を狙われていたのだと思います。従って、西郷には常に影武者が存在しており、実物の写真も撮らせないようにしていたのだと思います。
維新オールスターの写真は維新が成就し、気が緩んでいるときに撮られたものでしょう。
西南戦争で敗北濃厚になった西郷は、洞窟で自刃したのではありません。亡くなったのは西郷の影武者です。
西郷は、次なるチャンスを待つために、直前に日本を離れることを決意したのです。行き先はロシア。ロシアで再起を誓ったのです。
実際に、西南戦争の後、「西郷隆盛がロシアで生きている」という噂は流れていたようです。一般紙でもニュースになったそうです。
また、西南戦争から14年後の1891年、来日したロシア帝国ニコライ皇太子が邦人警察官に斬りつけられるという切傷事件(大津事件)が起きます。
この事件の背景には、ロシアに逃げ延びた西郷隆盛が、復讐のためにロシア皇太子と一緒に日本へ戻ってくる、という噂が国内に広まり、それが引き金になって発展した事件のようです。
結局、この時は西郷は姿を見せなかったようですが、西郷がロシアで生きていたことは間違いないようです。そして、ロシアでその生涯を終えたのだと思います。
とにかく、歴史には驚くべき謎が隠されているのです。
最後まで読んでいただきありがとうございます。