南房総はかつて安房国と呼ばれていました。
その安房国には一の宮が2つ存在しています。
その1つが洲崎神社。
館山駅から海沿いをバスで下ること30分、神社前に着きます。
時刻は10時前ですが、真夏全開の陽射し。
御手洗山の中腹へと続く参道。
門の背後に見える急な石段に心が躍ります。
御手洗山は御神域の為、手付かずの自然が残されていて、県の天然記念物に指定されています。
子ソテツがたくさん付いている事からそう呼ばれているそうです。
後ろの社務所は基本、無人。
門の中に書き置きの御朱印があります。
門から振り返ると、鳥居の向こうには海。
148段、一段々踏みしめて御神前へと。
その一段々が身にも心にも染みてきます。
<御祭神>
天比理乃咩命
(アマノヒリノメノミコト)
阿波国から黒潮に乗り南房総に上陸し、この地を開拓した忌部氏の祖神、天天太玉命の妃神です。
*読みは"アマノフトダマノミコト"
四国、紀伊・伊豆・房総半島には共通の地名や文化があり、黒潮が繋げた歴史が窺えます。
(白浜、勝浦といった地名も共通)
房総半島で盛んな地引網漁は、紀伊半島から漂流してきた漁民によって伝えられたとも言われています。
旧国名においては、京都に近い方が"上"、遠い方が"下"となりますが、千葉県では、千葉市周辺が下総、房総半島北部が上総とされています。
これも、陸路ではなく海路を主としていた為だとか。
御手洗山の中腹にぽっかり空いた空間に鎮座しています。
耳を澄ませば、波と風の音と鳥のさえずり。
太古のままの自然、見上げれば燦々と射し込む陽光、まるで生き物の様に流れる雲。
自然に包まれた、古え感溢れる空間に吸い込まれ…
御本殿
(館山市指定有形文化財)
瑞垣から覗かせて頂くと…
朱色の社殿に細かな装飾が施されています。
創建は神武天皇の御代、紀元前600年頃と伝わります。
8世紀初頭という説もありますが、いずれにしても、相当な古社。
また、石橋山の戦いに敗れ、房総半島に逃れて来た源頼朝が源氏再興や北条政子の安産祈願をして、その成就の御礼に神田を寄進したと「吾妻鏡」に描かれています。
1772年に伏見稲荷大社から勧請されました。
緑に覆われ、しっとり。
境内にはシオカラトンボが舞っていました。
どこからともなく現れて、私の腕に止まってきました…
歓迎してくれたのだろうか?
私にとって、トンボはメッセンジャーの様な存在。
と言うのも…
10年前。
意識不明で入院していた祖母の留守を預かっていた時期がありました。
そんな、恐怖にも近い不安と淋しさに駆られていた秋のある日、
玄関前で空を眺めながら途方に暮れていたら…
いつの間にか、赤トンボが腕に止まっていたんです。
こちらが気付いても逃げる様子もなく、腕を離れても、
暫くは塀にかけた私の手の近くに止まっていました。
すると、心に祖母の声が聞こえてきたんです。
私の事でそんなに悲しまないで…私も悲しくなるからさ。
私は充分に幸せだったよ…
だから、もう心配いらないから、あなたは自分の人生にお戻りなさい。
そして、赤トンボは飛んで行きました…
その1ヶ月後、祖母は息を引き取りました。
まるで脱け殻のようだったあの頃から10年、
今も心の穴はぽっかり空いたまま…たまに想い出したり、
夢に見ては、その穴に堕ちそうになる事もあります。
そんな時、いつもこの赤トンボの事を思い出します。
そして、天国で心配かけちゃねと、また新しい一歩を踏み出します。
トンボがメッセンジャーだなんて、妄想でしかないのでしょうが、
自然の中に何かを見出す…日本人ならではの感性なのかなとも思います。
だから、これはこれでこういう事にしておこうと。
話を戻します…
境内から小道を進んで行きます。
鳥居の間から富士山を拝む。
海を隔てて見える富士山に古代の人々は何を思ったのでしょうか。
かつての別当寺、養老寺を通り、海へと続く参道を進みます。
林を抜けて行くと、浜の鳥居が見えてきます。
浜の鳥居
忌部氏はこの浜から上陸したのだろうか?
浜辺に出ます。
海底の竜宮から奉納されたと伝わります。
その形から"吽形"に例えられています。
そして、この"吽形"と対になる"阿形"の神石が三浦半島の安房口神社に祀られていて、ふたつで東京湾を護っているそうです。
浜の鳥居からの参道と御手洗山。
古代の息吹に触れられた素晴らしいお参りでした。
御朱印
微妙に御朱印帳より大きいサイズ。
次回は養老寺と洲崎灯台の風景を送ります。
続く
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