21世紀に生き残った役者と歌手、そして・・・  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥

    
    
12月1日。今日は、俳優の根津甚八 さんの誕生日だ。本日で58歳。
「腹いっぱい、ハンバーグを食べてみたい」
当時、“赤テント”という劇団にいた若かりし日の根津さんは、
向田 邦子さんという作家…脚本家と はじめて逢ったとき そう云って、
冬の運動会 』というテレビドラマにて、主役、映像デヴューを果たした。
向田邦子さんが直木賞を受賞する以前の旧い話…。 
    
戦中戦後に生きた人々は、自分自分の生活の中で様々に試行錯誤し、
高度経済成長期に模索した人生において、
日本の1980年代という“飽食の時代”をピークに迎えるに間もない時期、
そういう時代背景を、屈折した家族の姿を描き出すことで見事に表現していた
ドラマ『冬の運動会 』。
もちろん、俺はマトモに観たことはない。
その後の1990年代、20代半ばを生きた俺が、まだ芝居の勉強していた…
…“俳優の卵の殻 ”(カス)だった頃、所属事務所 兼 養成所のレッスンで、
当時、講師だった、ある日活系の現役監督が “テキスト”としていた のが、
その、『冬の運動会 』の“台本”だった。
撮影現場で“カット撮り”に順応する役者としての、台詞と芝居の掛け合い
(自然体に芝居をこなすためのキャッチボール)を身に付けるために、
その台本のセリフとセリフの間には書かれていない部分を
練る、考えさせる、工夫する、自分なりの表現を確立させる…といった内容のレッスンだった。
週に一度、2~4時間。
その他に実際の撮影現場へ仕事として出向く勉強もあったが、
そんなことだけで”役者”になれるわけがない。
    
伊丹哲也さんの『パークエリアの夜
を毎日のように聴きながら(自分でも歌いながら・・・運転中の車の中とかな。)、
「自分が何者かを知るため、憬れの映像芸術という世界の中で生きてみたい」
と、そう考える俺のほか、50人くらいの塾生がいたか…
入塾希望者も毎月 何百人という数だった。
単に「役者になりたい」「テレビで活躍したい」という掛け替えない思いだけで
九州や東北から上京してきた者もいれば、
別の所属事務所や無名の劇団をあとにしてきた者、
残酷さや薄汚い部分は何も知らず、ただ「芸能界は楽しそう」と気楽な者…
様々な塾生が集い、争い、競い合い、葛藤し、散って消え去って行く中で、
新宿繁華街の幾つかのビルの中にあったレッスン・スタジオへ、
毎週日曜日、俺は群馬県高崎市から普通電車で通っていた。
    
その台本のほかに、倉本先生の『前略おふくろ様』と、
月刊『シナリオ』のWの悲劇、『男女七人夏物語り』など、
週と講師の違いによってテキストの台本も異なっていた。
すべて自分で、本屋で買う。新刊ではないので古本屋を捜し回る。
    
レッスンは普通のドラマ撮影と同じように行われることが多かった。
「用意、ハイ」の講師である監督の掛け声と共に カチンコが鳴る。
「カット!」と云われるまで芝居を続ける。
それをビデオカメラで撮る。
その場で画面で観る。
問題点を指摘される前に自分から応えさせられる。
といった具合に、一人一人が自分に厳しくありつづけることを要求された。
    
俺は、小学生の頃から、自称 “カンニングの名人”だったので、
レンタルビデオ屋でそれらの映像作品を何べんも観て、
台本には書かれていない芝居の仕種やセリフの言い回しをなぞってみたりもした。
“自分の芝居”ではない。
だから、そんなモノを自分のクセのようにつくり替えてみても、
現役の映画監督、テレビ監督にはスグに見破られた。
「カットっ! …それを映画の中の世良公則が演ってたの?」
上垣監督も鋭かったが、斉藤信幸監督はもっと厳しかった。
「太郎、おまえ、ビデオ持ってないのか?」
「はい…カネがないもんで」
「バカ! おまえ、役者に成りたいんだろ? 
役者 志してるもんが何も観ないでどうする! 
中古で買え! 何でもいいから観て勉強しろ。
何日かメシを喰わなくても死にはしないだろうから、
それくらいは自分に投資しろ…」
    
ということで、当時、芝居のために煙草も吸い始めた俺は、
ロバート・デ ニーロの作品もぜんぶ観た。何十回も。
カンニングは そのあとのことだった。
お陰で、最近の何のどの、日本のテレビドラマを観ても、
涙も出なければ、ワクワクもしない。ゾクゾクもしない。
おそらく、人並みの感動はしてない。
    
根津甚八さんという役者…俳優は、最初からの俳優業の人生を歩んで来た人で、
その世代から下の方に よくありがちな 歌手あがり、お笑い芸人あがり、
あるいは、親の七光り、アイドルタレントあがり、英才教育系などではない。
若いときの三國連太郎さんなんて、どれも、ギラギラとしたモノがある。
三船敏郎さんも鶴田浩二さんもそうだった。
たぶん、撮っているスタッフ、監督も、ギラギラしていたんだと思う。
そういうモノを受け継いでる中に、高橋英樹さんや杉良太郎さん、千葉真一さんも、
若いときの映像の中では、ギラギラとしている。その他、田宮さんとか…。
俺も今でも尊敬する映画『ブラック・レイン 』の故・松田優作さんや萩原健一氏。
あの ギラギラとは ちょっと違う。
また、以前の館ひろしさんや現在の遠藤憲一 さんのギラギラとも、またちょっと違う。
なんというか…芝居の中で、「殺すぞ」と云わんばかりのギラギラ。
根津甚八さんにも、ちょっとだけ そういうギラギラがあったと思う。
…なんか、自分で云ってて、自分の頭の中でも“ギラギラの区別”が こんがらがってきた。
    
で、俺がそういう芝居を大好きだった時期
(日本のテレビ業界に幾らかギラギラした興奮が残っていた時期)
あるNHK大河ドラマの撮影現場で、こういうことがあった。 
    
俺が大好きな役者の一人でもある真田広之さんが、足利尊氏として、
颯爽と白い馬に跨って自分の城へ帰ってくるシーン。
栃木県佐野の、とある河川敷に用意されたオープンロケ。
(夜のシーンの撮影だったので一泊することになってた。)
俺は、足利尊氏の家臣として門番の役。
(ちなみに、この当時は “芸能ブローカー ”の存在は まだ知らなかった)
城の前、門構えのセットの脇で松明【タイマツ】を持たされてた。
(…丸太棒の先に巻いてある布に石油を染み込ませてあり、
長時間 持っていると熱い…というよりケムイ。石油臭い。
でも画面の外の茶の間にはワカラナイ)
で、まず ワンカット目。テスト。
松明を持った俺の左腕。その向こう、薄暗い陰から、
白い馬に乗った足利尊氏の姿が浮かぶ。
    
監 督 「ダメだダメだ。なんだ、その腕の日焼けの仕方は!?」 
    
どうやら、当時、水道配管工(日雇い人工)などをしていた俺の腕に輝く
くっきりハッキリ腕時計の跡を時代劇ドラマ撮影のカメラが捕えていた模様。 
    
監 督 「おい、どこの仕出しだ?」
助監督 「園田さん です」
監 督 「他にいないのか?」
助監督 「はい、この門の前に立つ家臣役の衣装を着けてるのは
      今 この二人(俺の他にもう一人いた)だけで、あとはみんな村人と旅人なので…」
監 督 「反対側のでいいだろ。ソレ遣えば」
助監督 「いや、オトトイのスタジオの時に別なカラミがあって、
      このあとのシーンにも立ち位置とセリフが決まってるので…」
監 督 「?。 どこが?」
助監督 「ここです」 ケツのポケットから台本を取り出して説明する。
    
しばしの準備中。特に問題はないが、内容が全国ネットのためか、
撮影の構図やツナガリには必要以上に神経質になるのが この手の連続ドラマ。
    
監 督 「そっか、わかった。じゃぁ 手を持ち替えさせろ」
助監督 「はい」 その場を立ち去りながら小声で、
     「はじめっから そうすりゃいいじゃねぇか、ブツブツ…」
     (放送日まで数ヶ月の余裕を持った大河ドラマの撮影であっても
      天候などに左右されるとスケージュールは過密になる。従って、
      各々のスタッフ、出演者共に苛々が募ることもある。人間だからな)
    
ということで、そのシーンの撮影は、例によって、
テスト、本番テスト、本番
と進んで、無事、終了。
俺の登場シーンは右腕だけだった。
スタッフ、地元民、他の役者、仕出しの俺にまでも、
一人一人に丁寧に挨拶を交わす余裕の真田広之さんだけは、
一泊せずに帰って行った。(他の映画の仕事も忙しかった様子)
    
次に、別な日の設定で、足利尊氏の城に新田義貞が訪ねて来るという
シーン替わりの撮影準備に入った。 
かつて、『エメラルドの伝説』で一世を風靡した あの役者さんが、
やはり、颯爽と茶色い馬に跨って足利邸の門の前に現れる。
ところが、その馬が、なぜか、落ち着かない。
    
馬に乗った新田義貞、 
「んだぁ、どぉーした おらっ
と唸って、自分の足の踵で馬の胴体を蹴る。
「ドォぉ、ドォ、ドォーッ」
なおも暴れようとする馬。
「なんだぁ゛~っ、どうしたっ ドォっ!」
なおも強く蹴る新田義貞。
治まらず動き回る馬。
義貞、引き下がらず何度も蹴る。
「イヤイッ! カッ! コノヤロッ!」
ガンガン蹴る。馬よりも荒れている様子。
側で手綱を引く馬の業者の人、
「…馬が可愛そうだ…」 小声。本人には云えない。怖い…) 
    
ようやく、馬も落ち着きを取り戻し、撮影準備も整う。
    
新 田   「おいッ! 誰かアタマ見てくれ!」
馬の業者 一瞬、焦る。
新 田   「メイクっ!」
スタッフ  「はい!」 
    
どうやら馬と激しくやりあってるうちに
カツラの上に付けている被り物(帽子のような物、アゴ紐で留めている)
が動いたのではないかと気にしていた模様。
    
新 田   馬に乗ったまま
       「どうだ? ズレてないか?」
スタッフ  暗がりの中、下から見上げて
       「えぇっと・・・、はい。大丈夫そうです」 
新 田   「バカヤロォ゛ーッ テメェの目線で見るんだよっ!
        脚立もってこいっ
スタッフ  「ハイッ!」
助監督  「少々お待ちくださーい! 準備中です!」(他人のフリ
    
いつになく(?)緊迫感 漂う、大河ドラマのロケ現場だった。
…『ブルーライト・ヨコハマ』のヒットから22年。
ベテランの役者といえども、それぞれの人生にも色々ある。
体長を崩されていた時も、『ブラック・レイン 』のオーディションで落選した時も、
お母さん、ココが鉄ですCMで頑張っていた時も、
我々一般庶民には関係ないコトでも気になる者には気になる。
噂の飛び交う世間…。
それでも、役者人生はつづく。継けなければならない。
たとえ何度 逮捕されようとも…。
(あの、“涙した傘”を銭湯の女将さんに返しに行った
あの日から変わってない萩原さんの役者魂。
俺は再び観れると信じてます。 …記事中の数々の失礼、 お許しください)
    
で、結局(?)。それから数週間後、新田義貞役は降板して、
新たに根津甚八さんが抜擢されていた。
というより、俺には、そこに、見えない部分の”役者同士の絆”
があったように思えた。
根津さんは本来、歌手ではないが、かつて、”歌手”という役柄で、
やはり、NHKのドラマ。鶴田浩二さん主演の連続モノで
墓場の島』という唄を歌っていた。
そのドラマには、あの『傷だらけの天使』で、萩原さんが相棒役に認めた
『カリフォルニア・コネクション』以前の、『はーばーらいと』の水谷 豊さんや、
優作さんの大親友、『ワタシ、タバコ、ヤメナイワ 』の桃井かおりさん等の顔ぶれ、
そういう共演もあった。 
俺はそのドラマを今までに3回 観た。
偶然、テレビを点けたとき、リアルタイムでNHKで放送していた。(うち2回は再放送
そのときの根津さん。・・・・ギラギラしていた。
「コイツは何者なんだ?!」というほど。
上海帰りのリル』というシングル・レコードを売り出す、 ちょっと前だった。
(『ファーラウェイ』という曲もなかなかいい。ウマイ・ヘタに拘らず・・・)
    
その、『上海帰りのリル』という唄は、日本の戦後復興時期に流行った
“昭和歌謡のスタンダード”みてぇなモノで、
現在の60代後半、70代、80代前半の世代なら、一般的によく知られた唄だ。
それをなんで、1980年代に根津さんが歌ったのか? 
俺には判らない。
単に、リバイバル・ヒットを飛ばそうと思ってヤッタ・・・とも思えない。
ただ、もの哀しいメロディの、モノガナシイ歌詞。そこに詠われた時代。
おそらく、きっと、根津さんの中には、
「伝えるべき何か」があった・のかも知れない。
(「あったに違いない」と云いたいけど、確認していないので云えない) 
    
その根津さんは、『玩具の神様』という倉本先生の書いた台本。
そのテレビドラマの中で、テレビドラマ製作のディレクター役をやっていた。
…番組プロデューサーだったか? ヒニクにも
主演は、館ひろし さんだった。
共演に、パチンコ大好きのあの役者さんとか・・・まぁいろいろ。
そういえば、ミッキー・カーティス さんも出てた
で、館さんの、「・・・友よ
あの最後の一言、セリフに、俺は泣けた。
「友よ」
    
なんか、今これを読んでる人で、
そのドラマを観てない人には全然まったく通じないかも知れないけど
「友よ」  
                   …ちなみに、女の名前ではない。
    
簡単にいうと、現在のCMスポンサーのために視聴率だけを追っかけまわしてるような、
中身のウスッペラなテレビ業界。
それを風刺するように、独りの有名脚本家を取り巻く現実と葛藤。
そこに、ある詐欺師との心の繋がりを描くことで
物語の展開をワクワクさせてくれた内容のドラマ。3回シリーズだったか?
あの、倉本先生自らの筆による台本で。
俺は久々に「いいドラマ…名作のひとつ…」と思った。   
なんと云っても、かつて巷で「●●役者」呼ばわりされていた館ひろしさんが
先代と渡哲也さんのあとを継ぐような趣で演じる芝居。
その中に、ひと言が輝く、
「・・・友よ」
    
いいじゃないですか。
東麻布の小さな家具屋の横に愛車のベンツを止めて
アンティーク家具を見て楽しむ館さん。
遠藤憲一 さんとコンビで何か一本ドラマを演ってほしい。(願望
(…ちなみに、俺はその店でピラミッド型の電球スタンドを買った)
    
    
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少々余談になるが、(どっから どこまでだ?!
昭和歌謡、懐メロ、日本の演歌、日本人の血を歌った唄・・・の中には、
そういう時代の流れや節目節目にあった様々な人々の生活、人生、
“ある一つのドラマ”を歌にしたモノが多い。
それこそ、一つの物語がコンパクトに凝縮され、
しかも、誰にでも判りやすい(はずの)内容仕立てになっている。
たとえば、『旅姿三人衆』とか『うしろ姿』、『女のためいき』『無法松の一生』など、
そのメロディはもとより、楽曲の完成度は、
海外でも もっと評価されるべきほどの名曲がある。
かつて、shionogi の ラララ「ミュージック・フェア」の番組内で
森進一さんが歌った、五輪さんの『恋人よ』 なんて、
ジャズのスタンダード『枯葉』を凌ぐほどだ。誰が歌ったとしてもね。
また、布施 明さんの『マイ・ウェイ』(日本語歌詞)なんて、今のいま歌われても、全然 古臭くない。
むしろ、NHKの『のど自慢』の中でゲストとして、それらを歌う姿は、
日本人が絶対に失わせてはいけないモノを感じる。俺はな。
マルチ・アーティストの福山くんや「エルヴィス・コステロ命」の、あのグループ。

あるいは、サムクックをカヴァーしたトータス松本さんとか、...etc. (“many other ”ではない!)
そういう、今のヤング・ジェネレーションにキャッチーな曲作りをする人達もいて、
確かに、楽曲として完成度の高い、心に残りそうな部分はある。残りそうな部分は。
でも、”重み”が感じられない。
かといって、夢と現実の狭間をトリップしただけのドラッグ・ソングの二番煎じ
のような軽さはない。
別に、かつてのプログレッシブ・ロックや
歌声喫茶を湧かせたフォーク・ソング(暗めあがり)
のような“重圧感”を期待してるわけじゃない。
そういう意味で(?)、ロックンロールのスタンダードの中には、
演奏時間が短い分数でありながらも完成度の高い楽曲が多い。
まぁ、“踊るロックンロール”としては、それが特徴といえば特徴なんだけど…。
一つ一つの中に”判りやすいドラマ”が見事に描かれて表現されている。
たとえば、エディ・コクランの“Summer time Blus ”。
歌詞が英語なので、ロック・ミュージックなんてほとんどまったく聴かない世代や、
頭の中がジャンル別けされた多くの日本人には馴染みがないかも知れないが、
それは、佐野元春氏の『Night life 』にも通じる部分がある。
解散寸前までの甲斐バンドにも、そういう曲づくりが伺えたし、
You Are The Rain 』。
伊丹哲也さんの歌にも、それはあった。(…ふぅ、やっと出てきたよ、ここまでで。)   
    
演奏時間が短い分数でありながらも完成度の高い楽曲。
しかも、欲を云えば、GコードやCコードのメロディで歌われる、心に響くメロディ、唄、
心に染み渡る音楽。
特に、「G」。ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・ティ・ド♪の中で「ソ」の音、音色。
この「ソ」の部分は、日本のミュージック・シーンを空中分解させた(?)桑田さんの
『エリック・クラプト』の「ソ」であり、
かつて、『♪ロック・ミー・アマデウス』と、
ディヴィッド・ボウイeー ドイツ人版のような人(ファルコ) 
に歌われた何世紀も前のモーツァルトが、
作曲する際に主旋律として最も大切にしていた「ソ」。
    
理屈で云う分には色々とゴチャゴチャ書くことはできるが、
要するに、「ソ」という音、コード。「G」を基準にしたメロディ・ラインには特別な響きがある。
きっと、「ソ」という音の、その響きは、
人間の胃心肺肝を健やかにさせる意味でも、
ヒトの身体の血液の循環のどこかと関係してるに違いない。
それは、人間についてを何も知らない、どこかの科学者が、
「脳ミソ」についての云々を考察する以前に、また、
「α派が…」などという腐ったバカを云う以前に、ただ単純に、
五線譜に刻まれる♪(音譜)の位置での「ソ」。
その響きが、素直に、「きれい!」と楽しめる子供たちの心…。
純粋に音楽を聴く、奏でる、聞かせる、愛する、伝える…という、
五臓六腑の発信 肉体の中にある魂からの発信。
それが、ヒット曲。あるいは、それに値するほどの完成度の高い楽曲だと思う。
    
で、こんな理屈を並べてるアホは、全世界にいないと思うけど、
キース・リチャーズの “open G ”のギター奏法 …。
今もストーンズがバンドとして継続、健在している理由の根源の一つがココにある・と思う。
基本は「G」。「ソ」の音だ。
しかも、あの開放弦の音色、独特の響きは、チャーリーワッツのドラムと、
ロン・ウッドのリズム・カッティング技術、ミック・ジャガーの vo
(本来は、びりっケツ・ワイマンのベースもあって・・・・目さまして早く戻って来いっ!)
そういうモノが揃ってはじめて生きる。
基本は「G」。「ソ」の音だ。しかも、ロック・バンドで。
永遠に残り、伝え続けられるモノの中で…。
    
    
さて、そういう、人類音楽史上、凄まじいバンド、The Rolling Stones
あの、カッコイイおやじ組の演奏とパフォーマンスが1964年に華開いて以来、
様々なミュージッシャンへその影響を及ぼして現在に至る事実。
これを否定できる人も 恐らく この世にはいない。
(存在そのものを知らなければそれまでだけど…残念なことに
で、かつて、
「俺はツイストをストーンズのようなバンドにしたかった」
と、そう云っていた世良さん。今も時々歌ってる・・・と思う。役者もやりながら。
いつだったか、一日限りでツイストを再結成したLIVE企画があった。
ストーンズもスゲェけど、今のツイストもスゲェ BAND だなと思った」
興奮しながらラジオの中で語っていた世良さんがいた。
同じ、”コッキーポップ組”のアーティストの中でも、
伊丹哲也さんは、まだ歌い続けている。
役者なんてやってない。 (別に世良さんがワルイと云ってるわけじゃない
    
赤い狐のオヤジは、『エデンの東』をパクって 中学校の先生になる以前に、
九州の地でまだ無名だった時期、
ラジオの深夜放送で、第一期の吉田拓郎オールナイト・ニッポンを聞いていたという。
「『拓郎が逆立ちして ひっくり返って鼻血を出したぁ』という、
放送の中での騒ぎを聞いて、そこへ行きたくて行きたくてたまらなかった」
赤い狐の説教オヤジは自分のラジオ番組の中で、そんなことを云っていた。
夢のフォーライフ四人組 を揃えに揃えて
自分の大好きな「坂本竜馬」なんて”時代物ドラマ”をつくっておきながら、
もう音楽活動はやってない。
俺よりも理屈の多いラジオ番組とゴルフ。雑誌の人生相談くらいだ。
役者としても、今はもう、かつてのような、
世の中に衝撃を与え続け、現実の嘘の教育の中に生きる世代に影響を及ぼすような
そんな芝居もやってない。出来上がってしまっていて、面白みに欠ける。
撮っている監督にも問題あると思う。ギクシャクはしてても ギラギラはしてない。
別に怨みはない。殴られたことはあるけど。肘鉄とケリもな。このページでチャラになった
で、フォーライフ四人組 って云い方も失礼だけど、
俺にとっては常に“音楽の先生”だった4人とも。
小室等 さんの“東京23区コンサート”には一度も行ったことがない。
今でもやってるのか? 
そこへ、売れてバカ騒ぎされる以前の井上あきみさん がゲストで2曲。
ギター一本で駆けつけて自分のつくった歌(過去のヒット曲)を披露していたことがある。
そのFMラジオ放送を録音したカセットを俺は今でも持ってる。
「…こんな言い方は失礼かも知れないんですけど、
その お三方がもしも亡くなられたりした時には、そのお葬式の会場へは
誰よりも僕が、いちばんに駆けつけなければならない…」
そう言っていた井上あきみ さん。別のラジオ放送)
御免』という歌は小室等さんに宛てた歌らしい。
例えばそれは、ストーンズの“Waiting on a friend ”のフィーリングに通じるモノがある。
かつて『はーばーらいと』という曲を水谷 豊さんに提供した人の、その曲が
    
フォーライフ四人組 の企画したクリスマス・アルバムという内容も素晴らしい。
俺の世代。1980年代、第二期の拓郎さんのオールナイト・ニッポン。
その深夜放送では、クリスマス時期になると、そのアルバムの内容を
ほとんど全部、拓郎さんは ON AIR 中に流してくれた。
「次の曲は、泉谷しげるのきよしこの夜
元気いっぱいの拓郎さんだったけど、
今のように贅沢な、AMステレオ放送ではなかった。
バリバリ、ビービー、隣のモスクワ放送の混線がうるさい。
    
拓郎さんの、Bob Dylan の入れ込みようはハンパではない。
“伝える” “伝え続ける”ということを大切に
「送り手本意で本当にゴメンナサイ」と、笑いながら何度も云っていたあの声。
そのカセットテープも証拠の品として録ってある。
(ほかに、アルフィーの坂崎さんとラジオで生演奏をした放送日や
TBSラジオの「小室等の音楽夜話」と「ANN」を入れ替えて放送したテープも、
全部ある。…生きることをサボっていなかった時代の証拠の品だ。俺の勝手だけど)
    
泉谷しげる の兄貴も俳優業 忙しくわが社のサイト では、
オレはボブディランなんぞ 聞かない。とか云っている。
じゃぁ、拓郎さんはどうなんだ? 
    
お前に言われる筋合いはないとか怒鳴られそうだな。
それでも俺は、拓郎さんが癌なんかに負けてもらいたくない。
ストーンズのようにバンドにはならなかったけど、
唯一、この日本の中で、ストーンズの関係のような四人組だ。
ツイストを結成して解散した世良さんにもできなかった。
    
そんな拓郎さんのことを桑田さん は、ある一枚のアルバムの中で、
『よしだたくろう の うた』という曲をつくって歌っている。
「かまくら」…「KAMAKURA」というタイトルのアルバムだったか? 
やはり、ラジオ番組で桑田さん自身が、そのアルバム発売前日に
「…本人に怒られるかも知れないな」
とか言いながらも、バンバンと曲を流してた。
EAST WEST で登場したサザンの桑田さんが。   
で、別のラジオ番組で、世良さんは、サザンオールスターズについて
こう云ってた。
「初めてあいつらを観たとき、『スゲェ バンドが出てきたな』と思った。
同時に、『…あぁ、俺達の時代はもう終ったな』とも思った」
などと発言していたのも覚えている。
(残念ながら、この二つの放送を録音したカセットの証拠はない。俺の記憶の中だけ)   
    
    
    “今、胸に咲く戦友(とも) ” 
    
    
という曲が、
2005-12-01現在はまだ、DEMOの状態で 
伊丹哲也さんのサイトで聴くことができる。
   
   
http://home.p02.itscom.net/fighting/
   
あの歌が、
今日ここまで書き記した内容と どういう関わりにあるか…。
俺の勝手な解釈もあるかも知れないけど、推測はない。
俺が今日まで観て聴いてきた非常に狭い範囲の中での事実だけを書いたつもりだ。
だから、哲也さんのその曲を
聴く人が聴けば判る・と思う。
    
「音楽を愛する心」がどうのこうのなんて言葉で表現されるほどのチッポケなもんじゃなく、
日本のミュージック・シーンが、今のようにウスッペラな
こんなになっちまった意味も含めて(…俺がそう思ってるだけじゃねぇだろ、実際。)、
俺が考えてしまったように、今になって無理に建て直しする、「しよう」まではいかなくても、
その経過や、あの日から今日に至るまで、
どのヘンからブチ切れてしまったのか? 
そういうことが、ちょっとだけでも判ってもらえたらな…とも思う。 (誰に?) 

まぁ、そういうこった。 
    
“今、胸に咲く戦友” という曲は、
哲也さんが、かつてのファンに向けて歌っているようにも聴こえるし、
もっと単純に、一緒に演っていた仲間に対して攻撃してるようにも聴こえる。
そして自分に対しての攻撃…というか戒めのような、切ないモノ。
しかも、今も“伝える”ということを止めるどころか、サボってもいない姿勢。
そういう凄まじいパワーを感じる。
俺は今、日に5回以上は、その曲を聴いている。
あまり聴き込むと自分が苦しくなることもあるので、加減している。
たったその一曲で、自分の頭の中に様々な”ドラマ”が想い浮かぶ。
そんな曲は今まで聴いたことがなかった。
(…かつて、尾崎豊の歌の何曲かにはあったかも知れないような気もするけど。
現実に生きる形として存在し、歌い続けている部分では哲也さんしかいない)
そういう意味では、先に述べた、ロックンロール における、
“演奏時間が短い分数でありながらも完成度の高い楽曲”
という意味とは また違った意味で、“完成度の高い楽曲”だ。
クリアで、“生きる”エネルギーに満ちあふれてる。
    
    
   
                                   つづく 。  非公開記事へ
    
        
http://scrapbook.ameba.jp/pinkcadillac003_book/entry-10006684495.html
    
    
    
    
     なお、今日ここに、俺が勝手に登場させてしまった人物、すべての方に対して、
     失礼があったこと、心よりお詫び申し上げます。 ごめんなさい。
 
                                      まだちょっとつづくけど。