金メダル獲れてよかったね。 | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥

   
   
別に、こんなタイトルを掲げておいてても
この内容には ほとんど関係なく、意味はない。
ただ、いいタイトルが思い浮かばなかったので、
時節的なモノにしてみた。
 
んで、女性でも男性でも産まれ持った能力を活かして、
そこに、今現時点での自分自身をすべてひとつのことに集中させる
ってことはスゴイ!
見事だ。
オペラの歌曲に乗せ、
自分で決める位置から寸分の狂いもないラインを描きながら
氷の上を舞う。
おそらく、人によっては、そのVTRを何回観ても飽きない人もいると思う。
(…なんだ、ちゃんと内容に関係してるじゃねぇかよ
これで、高輪のプリンス・ホテルもまた格があがった。 
俺もいつかは あそこの“萩の間”で出版記念パーティを催したい。
最新刊『続・愛と情熱のSAD(o)CITY』 ¥480(時価)を
会場の片隅へ並べさせてもらって、サイン会は無し。ただ只管に酒盛りのみ。
 
んで、サッカーの中田選手や野球のイチロー選手。
たとえ、親の英才教育や巷の甲子園ドリームがどうあろうと、
天才ほど努力をしている人はいない。
…ちょっとちがうな。
努力とか学習や勉強、そういうことを「頑張る」ということではなくって、
「栴檀は双葉より芳し」
という言葉にもあるように、
その本人が生まれ持ったセンスに、いかに磨きをかけるか…
ということだ。だ…だんだろうな。
 
俺が大好きな映画『ワンス・アポンナ・イン・アメリカ』の中で (もう何十回も観た)、
主人公のヌードルスが結ばれない定め(身分の違い
)にある彼女に云う台詞に、
「スタートが速い馬は最初から違うんだ…」
てのもあった。
その通り、調教師や旗手、馬主の努力や訓練とは別に、
他の競走馬とは最初から一線を画する。
 
よくアホな親バカ連中の話のネタで、
幼児教育や上層教育モドキを重んじて、
「将来のことを考えて音楽を習わせるなら、
年齢が一桁代の頃から準備しといた方がいい」とか、
「うちの子は3歳から もう、お上手でしたのよ」
などという風潮がある。 ・・・・まぁ、世間の一部にな。
そういう習い事でも稽古事でも英才教育でも何でも、
本人が「やりたい」と望んでいるなら、それはそれでいいと思う。
でも、本来の持って産まれた能力とは別に、
教え込んで上達を喜ばせるモノなら、
それはやがて、本人の人生の中で苦痛の一つ(大半)になっちまうこともある・と思う。
とはいえ、俺の子供も今現在、英会話の塾なんぞに通っているんだけど、
妻は妻で色々と喜んでいる。
国際社会における標準共通言語が“English”なので、
そういう意味では、いつかどこかで役に立つのか、
学校へ通い始めてから やがて始まる英吾の授業で
英語が苦手な他の生徒達より優れた部分があると思われるだけなのか、
いま習っていることを活かすも殺すも本人次第だ。
でも、佐渡という島で生活して生きるためには、
一部の観光事業を除いては英語の読解力や英会話能力は必要ない人が多い。
ここで生きる人間として英語が話せたとしても、
友達同士との付き合いや仕事の中では大した徳にもならない。
…日本が今のような社会の状態である限りはな。
 
俺は一龍が産まれる以前から、胎教のスグ近くで、
ストーンズやU2の曲をガンガンかけまくってた。ラジカセで。
産まれてからも今日まで暇さえあれば、
ストーンズや その他のロック・アーティストの音や映像を観せて聴かせてる。
歌っている内容の意味は通じなくても、
演奏におけるフィーリング、スピリット、情熱的な部分…
そういうモノはロックならロック、ブルースならブルース、ジャズならジャズと、
それぞれに味わい深いモノがある。
それは、近頃のピコピコ、チャラチャラ、ドスンドスン演ってる以前の、もっと、
人が人に何かを伝えることを大切にしてた時代のモノの中に多い。
 
リズム&ブルースという、極めてシンプルでソウルフルな、
ジャズやブルースをはじめ、あらゆる音作りを融合させたようなジャンルがある。
別に、本来は、“ジャンル”ということではないんだろうけど、
この数十年間における人類のわずかな歴史の中では、
黒人と白人の文化交流を成し遂げ、親密にさせた材料(音楽芸術)の一つでもあった。よな。
今では、世界中のあらゆる人種や民族を超えて、
音楽を演奏し、歌い、踊る人達の基盤に近い部分もある・と思う。 
たとえば、この日本国内においても、
タイガースやスパイダース、テンプターズというグループ・サウンズはもとより、  
『抱擁』とか『うしろ姿』とか『ラブユー東京』とか…、
『女のためいき』『なみだ舟』等の狂おしく熱い、歌詞やメロディ・ライン。あるいは、
日本のバート・バカラックとも呼ぶべき(?)、不屈の古賀メロディ…など、 
いわゆる今でいうところの懐メロ歌謡の中にも 
ジャズやブルースの要素がふんだんに取り入れられ、
そういう歌謡ヒットが、そのときその時代その季節の人々の心を湧かせてきた。
そこには、あらゆる黒人音楽(ソウル・ミュージック)の要となった、
ジャズの発祥地、ニューオーリンズという街。
そこに実在した数々のミュージッシャンの功績が絡んでいることは無視できない。
 
彼らは、「自分が持っている能力とは何か?」とか、
何か成功の鍵を握るために、BigMoney の可能性を信じて演奏してきたわけじゃない。 
「生きるために必要だった」という、ただそれだけの思い、情熱から現在に至ってる…
と、思うんだよ、俺は。
んで、そういう感覚は、日本の第二次大戦後、焼け野原に散らばる、 
舞台演劇の参加者募集チラシを拾った人達にも云えることだ。
別に、誰かが踏んだ足跡のついた その紙切れを拾うことが どうのこうのではなく、 
「その時の私には もうそれしかなかったんです」
「僕なんて、もともと川原乞なんだから、誰に何を言われようと平気ですよ」
という俳優さん、女優さんは今でも生きている。(生きておられる)
そういう中で、昭和の映像芸術界の生き証人の一人、三国連太郎さんなんて、   
今はもう柔らかくなって、まん丸なお爺ちゃんに見えるかも知れないけど、
若い頃の演技、その当時の映像の中で、あの人が燃やしていたものは、 
「パンチの効いた役者さん」なんてもんじゃない。
恐ろしいほど殺伐とした雰囲気を全身から漲らせ、
ギラギラと輝いている。すべての演技において。
観ている人に、
「この人、このあと、どうなっちゃうんだろう?」 
という、ゾクゾクとした気持ちにさせる…
そういう凄まじいほどにまで、娯楽感を与える芝居をしてた。
「泣いて笑わせろ」などという、お笑い芸人の人達がよく口にする格言めいたモノ…とか…、
それ以上だ。 
一瞬一瞬が死ぬか生きるかの勝負。     
そういう映画の撮影中、かつて、若かりし頃の三国連太郎さんは、
『無法松の一生』の現場で、「カットっ!」という監督の声に対して、 
「ちょっと待ってよ、まだ僕の芝居は終わってないんだけど」などと食って掛かる勢いだったという。
現場で いちばんエライ人に向かってそんなことをしても、
次回の出演要請が減るわけでもない。
明日もなく昨日もなく、自分が今日を生きて、生き延びて行くためには、
その一瞬に全力を尽くす。それを数分間の映像のコマの中へ収めようとする意気込み。 
ハンパじゃない。そんな真剣な役者さんは、今はいない・に等しい。 
 
生前の黒澤監督に、ある人が、こんなようなことを尋ねた。
「もう一度、『七人の侍』を今の映像技術で撮るというお考えはありませんか?」 
監督曰く、 
「今の日本の役者に、あの村を守れるほどの頼りになる顔をした役者がいるのか?」      
 
昨日までのテレビ・スタジオでは、久世監督も現役だった。 (今もか?)
若い役者やベテランに分け隔てなく怒鳴りつける。 
「なんだその芝居は、そんな絵を人様に見せられると思うか!? なん年 役者やってるんだ!!」  
でも、女性には優しい。
   
少なくとも俺は、そういう世界に骨を埋める覚悟で、
たとえ、カマを掘られようが、クソを面に塗りたくられようが平気な顔して生きて、
「役者の仲間入りを果たしたい」という気持ちで・・・・
そういう芝居が大好きだった時期があった。    
今でも、流行りのテレビ番組や映画の中にマトモに映っていない人の中には、
それに似た考えの人がいる。確実にいる。
でも、その人達は昇れない。          (ご注意 今の俺は別口だぜ。俺のことじゃない
どうしても表舞台で脚光とスポットライトを浴びることはできない。 
日々生き凌ぐ肉体が限界になって、
そこへ宿る精神がズタズタに引き裂かれようとも、
自分が今、地獄の三丁目(50番街)の曲がり角に立たされていようとも、
その人達を拾い上げ、引っ張りあげるほどの余裕ある人も、
今はもう(ほとんど無に等しく)いない。
いるなら、あんなテレビ番組はない。 
日本の映像芸術界が韓国のフニャけたドラマに乗っ取られるほど、
映画もテレビ演劇も、ここで…この狭い日本の中の都心の一部で、
今日のこの時間(19時から23時の間)だけ、数字が確保できればいい。
どうせなら、すべての番組の画面の端っこに、
現在の主張率 およそ12.8●●スポンサー調べ)」
とかなんとか表示させておけばいい。
コンバーターのボタンを押す人も、
グルグルとチャンネルを回す茶の間の爺さんも、お婆ちゃんも、
自分のポイントアップのために参考になる。その表示の回転が。
これは面白い! 是非ともNHKから実現してもらいたい! 
 
泣けるぜ。    
今の日本の音楽業界もそれそのものだ。 
回転する数字に追われる毎日…。並べるネタの数の割には中身は薄っぺらだ。
回転寿司を急いで食べる下請け製作会社のスタッフも、今日を惰性で生き凌ぐ。 
それのどこに、情熱や慈しみが感じられる? 
照明機材用の鋭く細いワイヤーロープを首に巻いて、
レインボー・ブリッジから飛び降りた、某テレビ局のスタッフも、
黄昏の芸能ブローカー ”のように、したたかに生きてりゃ良かった。
それでも決して、気楽なもんじゃないけどな。 
 
 
巷の音楽業界が本当の意味で リズム&ブルースの素晴らしさを理解できるなら、
テレビと雑誌と連動させたCDの売り上げランキングも、 
どこも似たり寄ったりに乱立するフランチャイズのチェーン店の従業員マニュアルも、  
今日までの音楽と人間の関わりを もう少し大切にした内容にできる・かも知れない。 
 
 
リズム&ブルースや、そこにロックンロールを融合させた
ストーンズやビートルズ、キンクス、エルヴィス、ドアーズ、U2…等の
アーティストの作りあげてきた音の世界は、最早、黒人だけのモノ(ジャンル)ではない。
確かに、プリンスやP・ファンク、ジェイムス・ブラウン、ハービー・ハンコック等、
果ては パンク・ムーブメントやプログレッシブ・ロック世代の
アーティストの功績から現在へ至るラップやファンク・ミュージック、ヒップホップなど、
クラシックからの発展系にあるような現代音楽や前衛ジャズの“贅沢文化の行き詰まり”とは別に、
(…その云い方の何が悪い! つまんねぇモンはつまんねぇの。)
若者文化の中で拡く発展・発達している部分も、流行の中にあっていいと思う。
但し、散漫だ。シンプルなクオリティには欠ける。どれも。
今の日本の“流行り廃り聞き流しミュージック”は特にだ。
カラオケ・ボックスが運送トラックのコンテナーから始まった時代に、もう一度 戻った方がいい。
   
   
俺の偏った音楽談義はともかく、
今日の話は、『人間が本来、生まれ持った能力』についてだ。
しかもそれを活かして生きる場所において、魂の無駄遣いをしてないかどうか…
アホか。そんなの考えて生きてるヤツなんていない。どこにも。   
でも大事なことなんだぜ。
昨日とか明日じゃなく、今日を真剣に生きるためにはな。
小さく纏まった場所で燃え尽きたつもりなんてのもオヤジ臭いhttp://ameblo.jp/badlife/entry-10006383674.html
どうせ灰になるならデッカクやろうぜ!
ぜんぶ、世界中を燃やし尽くす。
それは今、ニューオーリンズ では ちょっとお休み中だ。
でも、マルディグラは、かつてにない盛り上がりを見せてた部分もあるようだぜ。
      
   http://helpno.exblog.jp/   このページは常にニューオーリンズ の最新情報
   
   
   
全国のストリート・ミュージッシャンの諸君、
一発かましてやってくれ! 
「俺たちはピアノも英会話も習ってないけど、
ギター一本で いつでも歌えるぜ。
あんたらの心にキャッチーなナンバーでな」
てな具合に、
路上のパフォーマンスだけに終わらず、
ステージの上で輝く日を俺は待ってるぜ。
   
   
そして、役者の遠藤憲一さん、
どこまでも登ってください。
俺は、人間の底辺から のしあがる根性が大好きです。