ガラパゴスのデザイン | あ~どうしたものか

あ~どうしたものか

社会問題=PTSD現象。

“郷土なくして人生なし”
ということで[複合汚染]時代をサバイバル、平穏死を子々孫々繋いで生きましょう。

[DSM]5から[アスペルガー症候群]が外されたことは、以前、DSMから同性愛が外されたのと同じような話で、結構なことだと私個人は考えている。世界には多様性があり、本人たちが別に困っておらず自分らのニッチを形成して静かに暮らしているところに、[精神科医][臨床心理士]が踏み込んできて「あなたがたの生き方はオカシイ。全員、[精神障害]です。治療しましょう」と言うのも変な話だからだ。そんなことを主張する人たちのほうが精神障害なのかも知れないくらいだ。ゆえに「本人たちが別に困っておらず」ニッチを形成して暮らして行ければ良いのであり、要するに「適応論じゃなくて個性化する」(http://ameblo.jp/raingreen/entry-11540717855.html)ことがポイントだ。

[ニッチ]の外から見ると、そのニッチは[ガラパゴス]みたいなものかも知れない。そこで[ガラパゴス]を保護して[変な人]が楽しく暮らして何が悪いという発想も出てくる。一方、ガラパゴス化しているとも言われる日本を[核][遺伝子組み換え]の実験場にしようという動きもある(http://touyoui.blog98.fc2.com/blog-entry-198.html#comment3968)。これは、取りあえず良い悪いの話ではなく、そういうふうに観察される[グローバル]な社会現象があるということだ。

こういう状況で、「[錦鯉]は綺麗だから、[宇宙ステーション]に連れて行って[実験動物]にしよう」というヒトが国籍や人種、民族に関係なく存在するということも想起しよう。これも、取りあえず良い悪いの話ではなく、そういうふうに観察されるグローバルな社会現象があるということだ。

こうしたことを思い起こしてみれば、今、我々日本人に必要なのは、EUの様子から「[グローバリゼーション]が進められるときは[ローカリゼーション]も同時に進む」という社会現象を認識して[グローバリズム]=グローバリゼーション信奉に振り回されず、我々の[ニッチ]における[生物多様性]を保障するガラパゴスをデザインすることではないのか。

これは「[天才]は一人にしてならず」(http://ameblo.jp/kaori-roselove/entry-11461113116.html#c12204806578)という話にもつながっている。「天才は大概、変だ」というのは真だけれど「変だから天才のハズだ」ということはない。もし、そう思っているヒトがいたら、大変な勘違いだ。単なるガラパゴスの[珍獣]かも知れないからだ。しかし、「珍獣がいてはいけない」というのも心が狭いし、「[ゴーギャン]みたいな[西洋人]がいてはいけない」というのも心が狭いと[東洋人]私個人は考えている。

参考文献:
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珍獣になってしまう原因はSPDにあると考えられる。このSPDは“Sozialdemokratische Partei Deutschlands”ではなく“Sensory Processing Disorder”だ(所変われば品変わる)。それについては、拙ブログでも
http://ameblo.jp/aya-quae/entry-10185699797.html
http://ameblo.jp/aya-quae/entry-10185638716.html
http://ameblo.jp/aya-quae/entry-11513509205.html
に書いた。

他所さまのブログにもSPDの一例についてコメントしたので、ここに再掲しておくことにする。[精神科]で対処するのが妥当なことではないことが判るだろう。

2016年3月1日追記:
PTSDは、PTSDとして対処しましょう。
参照:
http://ptsd.red


http://ameblo.jp/mamasan-runner/entry-10785486538.html#c11113813079
1 ■同感です。
> もしかして乳児期に、母国語に無い音
> を淘汰できてないのかもしれない。
>
> 発達障害者にはそういう人が多いのか
> も知れない、なんて仮説が思い浮かび
> ました。
実は、その仮説、私も密かに十年以上前から温めてまいりました。母語にない子音を淘汰できていないことは、外国語の習得にプラスです。その一方、母語でも、静かなところでないと聞き取りが困難になります。騒音と、言語として出された音の識別がしにくいのでしょう。
あ* 2011-01-31 13:24:51

http://ameblo.jp/mamasan-runner/entry-10785486538.html#c11113945411
2 ■私も同感!
音を必要に応じて聞き分けるのとか、苦手ですね~(^_^;)

関係あるかないかわかりませんが、私は歌詞を聞き取れないです。
歌を聞いていてもメロディーは入ってきますが、歌詞はまるで入力されません。
トイレの神様を聞いてい、てまわりが泣いていても、歌詞が頭に入らないので一人で気まずい思いをする事も。
歌詞を覚えるには歌詞カードを見ないと無理。
これって何かあるのかなあ?
シモーヌ 2011-01-31 15:50:37

http://ameblo.jp/mamasan-runner/entry-10785486538.html#c11114102747
3 ■どこかに閾値があるかも?
『トイレの神様』は存じませんで、息子に教えてもらって YouTube で聴いてみました。このくらいだと私は聴き取れます(文化の差違によるのか泣きませんが)。ところで、私の場合、桑田佳祐(サザンオールスターズ)は聴き取れません。サザンオールスターズの歌では歌詞を聴き取れないことは、実は亡き父も同じでした。おそらく、どれくらいだと歌詞が聴き取れなくなるのかは人によって違うのでしょうね。二度も失礼しました。
あ* 2011-01-31 17:50:41

http://ameblo.jp/mamasan-runner/entry-10785486538.html#c11115210587
4 ■Re:同感です。
>あ*さん
10年前、どんなことで気がつかれたのでしょう?
本当に、人間の能力というのは、決して一律ではないのだと感じました。
そして恐らく、完璧な定型発達という人はいないのだろう、多かれ少なかれ、なにか個性の範囲で能力差があるのだろうと思います。

しかし、音の識別の難しさ、いらない音を遮断できない不自由、辛いですね(_ _。)
ままさん 2011-02-01 09:03:09

http://ameblo.jp/mamasan-runner/entry-10785486538.html#c11115216597
5 ■Re:私も同感!
>シモーヌさん
音の不自由、世の中には結構いるんじゃないかと思います。
気がついてない人は多いでしょうね。

歌詞の苦手は何ででしょうねえ。
ちょっとすぐには理由が見つけられそうに無いです。
でも、どこかでヒントを見つけたら、ご報告しますね。('-^*)/

私の場合、「トイレの神様」については、あのテンポで、あの程度の言語情報量では、隙間が多すぎて注意を保てません。

虎なんとかの「ロード」だったか、すごい長い曲が流行った時も、聞いている人たちの根気のよさに感心したものです。

「サトウキビ畑」なら、一度聞き入ったら、大泣きで他の事が出来なくなるくらいになんでけど。
だから聞こえてきても、なるべ無視してます。
ままさん 2011-02-01 09:10:49

http://ameblo.jp/mamasan-runner/entry-10785486538.html#c11115221095
6 ■Re:どこかに閾値があるかも?
>あ*さん
私も「トイレの神様」聞き取れるけど、特に内容に関心をもてないので、最後まで聞くことが出来ません。
なので、私も全く泣きません。

サザンが聞き取れないって、デビュー当時から結構多かったですよね。
当時もなにか、発音の崩された日本語は受け入れられない、聞く心構えが簡単に用意できないという印象がありました。
正しい日本語へのこだわりかもしれませんね。
そのあたりも個人差ですね。
ままさん 2011-02-01 09:16:27

http://ameblo.jp/mamasan-runner/entry-10785486538.html#c11115737185
7 ■無題
>ままさんさん
隙間が大きすぎて注意力がつづかない!
まさにそんな感覚です!
ほとんどの歌は歌詞が聴覚としては届いても、言葉として意味をなさない、と言ったらわかるでしょうか。
それは、歌詞を聞き続けることに注意力が続かないという事と関係があるかもしれません。

英語もそういう時があります。
以前ボランティアで通訳をした時は、まる一日担当の外国人について歩き、プログラムの最後に小学校の全校生徒の前で通訳をしたのですが、その頃には疲れて注意力が続かず、散々な結果になってしまいました。

私ができる位なので、その方もたいした事は話されてはいなかったのですから、文字通り「聞く耳持たなかったんでしょうね」(^_^;)
シモーヌ 2011-02-01 18:04:06

http://ameblo.jp/mamasan-runner/entry-10785486538.html#c11115737185
8 ■Re:無題
>シモーヌさん
まあ、その感覚を知っているなんて、シモーヌさんったらやっぱりHyperさん♪

そして、歌詞が届いていても意味を成さないというのは、興味の狭さの特性もあるかもしれません。
私は自分が関心の無いことは聞く暇なしです。だっていつも頭の中が忙しいんだもの~(* ̄Oノ ̄*)
「聞く耳を持たない」とは、「聞く耳を保てない」の意味かもしれませんね。

ちなみに、私は苦手なタイプの声だと、日本語であろうと、脳がが勝手にシャットダウンします。
話してるのは聞こえいても、意味が全くわからなくなります。
高い女性の声のときが多いので、恐らくPTSDの影響と考えてます。(;^_^A
ままさん 2011-02-01 22:22:11

http://ameblo.jp/mamasan-runner/entry-10785486538.html#c11116758481
9 ■Re:Re:同感です。
>ままさんさま

> 隙間が大きすぎて注意力がつづかない!
これは「定型発達者」でもそうです。英語母語の「普通の人」が通訳なしの講演で、日本人の聴衆から「もう少しゆっくり」と促され、「もう少しゆっくり」「もう少しゆっくり」にしていくうちに、ある一定以上にゆっくり話そうとすると、何を話そうとしているのか、講師も聴衆もたどれなくなってしまいました。どれくらい隙間が大きいと話したり聞いたりするのに差し障りがあるかは個人差があるようです。

> 音の識別の難しさ、いらない音を遮断
> できない不自由、辛いですね>(_ _。)
私は、そんなことになっているとは気づかず、子どもの頃、中耳炎をやったから耳が悪いのだろうと思っていて、辛いと感じたことはありませんでした。30歳過ぎて欧州に行ってから、地下鉄のアナウンスが聞き取りにくいことで不要な騒音とアナウンスの聞き分けがイマイチであることに気づきました。私の場合、おそらく不自由さが大したことがないせいか、不自由でない状況を知らないせいか今も辛くは感じません。

生活音が少ない静かなところで暮らすと、一日の疲れが格段に違うことは確かです。ついでに、パキシル服用後は、気合いを入れなくても新宿の雑踏も歩けるようになりました。面白いことですね。

> どんなことで気がつかれたのでしょう?
母語が様々な子どもたち(2~6歳くらい)を観察していたら、特に日本人では母語にない子音が聴き取れなくなっているお子さまたちを発見して——というか、そちらのほうが「定型発達」なのでしょうけど——逆に自分のほうが変なのだと気づかされました。それと平行して、日本語にない子音の聞き取りと、音楽の聞き方も関係があるらしいことが観察されました。子音が聴き取れないお子さまは、録音の悪い音楽を聴かせても気にしない傾向があるのです。甚だしいケースでは、生のヴァイオリンと、 たとえば GarageBand のストリングと聞き分けられないくらいの大らかさ(?)です。それは何だろうと当時、調べたら、洗足学園大学の角田先生の研究に行き当たり、1998年にヘッドホンを買いました。
http://coxbazarinbangladesh.blog33.fc2.com/blog-entry-20.html
こんな話を研究なさった方がいらっしゃるのですね。

長々、失礼しました。
あ* 2011-02-02 08:17:45

http://ameblo.jp/mamasan-runner/entry-10785486538.html#c11116836726
10 ■Re:Re:Re:同感です。
>あ*さん
日本人にとって英語は文の構成がちがうので、ゆっくり聞くと、始めのほうの文節の記憶を文末まで持ち続けられず、逆に理解が難しくなると聞いてます。

話しのスピード、音の識別、周波数、それぞれと環境や体調との関係、謎だらけですが、何かしら発達障害者のQOL向上のためのヒントがありそうですね。
卒業研究テーマ探しの参考になります。
たくさん教えてくださってありがとうございます。
ままさん 2011-02-02 09:49:08


こういうコミュニケーションが可能になったのは、元はと言えば、錦鯉がクジラと一緒に泳いでいたからだ。

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これね、クジラが三頭、仲良く泳いでいると思うでしょ。違うんだな~それが。一人はクジラじゃなくて錦鯉なのだ——と私の無意識が言ったので、多分、それは正しい。そう言える根拠は、私の身体は頭が良いからだ。

私の身体は頭がいい (文春文庫)/文藝春秋

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2013年5月30日追記:当事者さんのブログをひとつ挙げたので、対照的なアプローチでお過ごしのブロガー氏をもう一人、挙げておくことにした。
http://marginaleyes.blog78.fc2.com/
このブロガー氏のコメントもピックアップしておこう。
http://ameblo.jp/kyupin/entry-10491158475.html#c10773089733
> 貴方は自分の意見を絶対と思っている
> ようですが、実際の所、発達障害に関
> しては明るくない一般の精神科医に過
> ぎないだろうと推察します。
>
> 去年頃、貴方は「ネット上のニセモノの
> AS」を否定しているだけかと好意的
> に思っていましたが、そうではなかっ
> たのですね。
> 今、発達障害専門医の元、きちんと確
> 定診断されているほとんどのASはニ
> セモノだと仰りたかったのですね。

http://ameblo.jp/kyupin/entry-10491158475.html#c10773090978
> 貴方の独自の診断基準によると、今世
> 間で行われつつある教育的支援も就業
> 支援も、ほとんど受けられる対象者が
> いなくなるだろうと思います。
> それどころか発達障害に関して蓄積さ
> れた情報のほとんどは無駄になってし
> まうでしょう。

http://ameblo.jp/kyupin/entry-10491158475.html#c10775165483
> 上のコメントは本音がダダモレだった
> ので、もう少し丸めます。
>
> 私がASであろうがなかろうが
> 「真実」には興味がありません。
>
> 私が拘るのは、私にASという診断名
> が下りているからこそ、適切な社会的
> 支援を受けられたという事実です。
> 今病院の外にあるAS向けの支援が有
> 効な人は、全てASの診断名でいいの
> ではないかとすら思います。
>
> 大事なのは私が困っているということ
> と、病院の外にあるAS向けの支援が
> 私に合っているということです。
>
> 真実の探求は、研究者にお任せします。
三咲 2010-06-09 19:36:08

http://ameblo.jp/kyupin/entry-10491158475.html#c10778792270
> 三咲さん何か、2年前にコメントを書
> いておられた時に比べてずいぶん落ち
> 着きをなくされてるように感じますが
> …罵倒するのはどうでしょうか。2年
> 分の「支援」の成果がこれだというこ
> とでしょうか。そんなはずはないでし
> ょう。しっかりしてください
Prudence 2010-06-12 12:12:22

そのとき、私がしたコメントは以下のとおり。今も、この考えに変わりはない。
http://ameblo.jp/kyupin/entry-10491158475.html#c10774015325
40 ■診断学体系は見直される
> 現状では診断学体系の見直しに伴う
> 混乱に巻き込まれないように、「今こ
> の人に何をするとよいのか」(©神田
> 橋先生)という眼差しを患者(自分もし
> くは家族)に向けて、各人にあった養
> 生を進めるのが実践的でいいと思いま
> す。新しい診断学体系は「今この人に
> 何をするとよいのか」が分かる治療、
> 介護、発達支援の指針になるものに
> なるはずです。
あや* 2010-06-08 21:38:18



皆さまも御身ご大切に。
放射能防御は大切です。


2013年6月1日追記:コメント欄に書こうと思ったのが、何故か書けないので本文に追記することにしました。

核心へのアプローチ
社会システムにおける発達論、教育論については、ルーマン社会学の視点が有効と私は考えております。また、教育現場の人には、関係論的に現象を記述するアプローチが実践的で良いと考えております。それを少しばかりでも進めれば、
http://www.chukyo-u.ac.jp/educate/psychol/kyoin/kujiraoka.html
にあるように、「従来の個体能力論的な発達論を批判」するしかないのは自明です。「人の生涯を見据えた発達理論の新たな構築」を目指すしかありません。そうでなく「従来の個体能力論的な発達論」に留まるかぎり、結局は「優生学」(http://bit.ly/12VWoyy)に堕するしかないからです。[発達障害]論者は、「従来の個体能力論的な発達論」に留まっているに過ぎない人々であり、「昨今の虐待問題、非行問題等の、個々具体の臨床的問題に切り込め」ず(©鯨岡峻)、Christopher Krumm や Adam Lanza のような悲劇的なケースを生み出してきたのは、残念ながら必然です。
 そういうわけで[発達障害]論を擁護しつつ当事者研究をなさると、核心を外すことになるでしょう。

===以上、コメント欄に何故か書き込めなかった内容===

2013年6月9日追記:研究に関連して、以前の日記を貼り付けておくことにした。
人生を棒に振ることはない
http://ameblo.jp/aya-quae/entry-10772974644.html

どこまでも真っすぐに究理して人生を棒に振ることはありえません。
“Beruf”(召命)=「内なる声」= cōnscientia
だからです。

これは通常、世間で言われている「自尊心」とは違います。
http://ameblo.jp/aya-quae/entry-10604860048.html
> “From Mao to Mozart
> - Isaac Stern in China (1980)”
>
> "Every time you take up
> the instrument, you are making
> a statement, your statement. And it
> must be a statement of faith that
> you believe. This is the way
> you want to speak"

↑ 逆に言えば、何らかの言明が “a statement of faith”になっているかどうか?
については、各人の自己糾明が必要ということでもある。コメント
http://ameblo.jp/aya-quae/entry-11540782517.html#c12310150380
でも言及した例:
(1)当事者が「お母さんは『かけがえのない…物』として認識」などと言うとき、それは当人にとって “a statement of faith, your statement” なのか?
 誰が、どういう状況で言わせたのか? 「発達障害専門家」による「研究」によって、そんなことを言わざるを得ない社会状況に、そうした当事者を追いつめていくうちに、自閉症者は、どんどん自閉的になって行くだろう(例:http://ameblo.jp/autist/entry-11450728483.html 自閉脳の特殊性をあげつらっても治らない。特殊なるがゆえに社会的マイノリティとして、いたぶられ、発症した[PTSD]に対処する必要がある)。

(2)自閉脳における脳の血流は、測定事実として提示されているが、その結論——「自閉脳は人も物も『物を見る部位』で認知」するから、自閉症者は人を物扱いする必然性がある——というのは、あなたにとって “a statement of faith, your statement” なのか?

精神科医の皆さまが専門知識(自閉脳における脳の血流がどうなっているかなど)を取得なさるのは結構だが、喧伝されている “a statement” ——「自閉脳は人も物も『物を見る部位』で認知」するから、自閉症者は人を物扱いする必然性がある——というのは、そうした精神科医の皆さまにとって、“a statement of faith, your statement” なのか? そうした言明によって、あなたの患者を追いつめ、言い繕いをさせることが、あなたがたの精神医学なのか?

参考:
「主体性がない知識取得の無意味さ、自称精神科医たちの発達障害学習」
http://ameblo.jp/phantom-nightmare/entry-11547062652.html



2013年6月21日追記:
『広汎性発達障害の診察ができるかどうかの調査』
http://ameblo.jp/kyupin/entry-11509534850.html
> 古いタイプの精神科病院で、広汎性発
> 達障害を積極的に診ようとしないのは、
> 種々の理由がある。その1つは、外来
> だけならまだしも、入院時に大きなト
> ラブルに見舞われかねないためである。
> 一般の感覚では信じられないことが起
> こる。
として、いくつか例が上げられているが、いずれも、受け入れ側、患者側双方がアサーティヴであれば回避できるトラブルと考えられる。患者がアグレッシヴと言える (←記事内では「想像力の欠如」で「常識」がなく「自己中心的」と表現されている)言動を取らずに済むように、アサーション・トレーニング (http://bit.ly/12ZdwsH)を行なうと良い。ストレス・コーピングができて、精神衛生環境がよくなる。また、

> 説明しても自分たちのやり方の方が正
> しいと訴え、容易に考えを改めない。
> これこそ、彼らの疾患性であり、単に
> 「特殊な意見を持った人々」とは大き
> く異なる点
とあるが、これは法哲学に立ち戻って、無意識の共有部分が少ないがゆえに生じる文化摩擦の一種だと考えて、どちらが正しいかを議論するのは取りあえず無駄なことだということを説明する。その上で、管理責任者が決定権を持ち、責任も取ることを伝え、ここは、そういうシステムになっており、別の法哲学をベースにしたシステムが好ましいと思うのであれば、そういうシステムを採用した医療機関と診療契約を結ぶように申し渡せば良いだろう。

夜、歯医者さんを叩き起こす話が出てくるが、私は統合失調症のヒトに頼られて、徹夜になったことがある (http://ameblo.jp/aya-quae/entry-10595609035.html)。この女性は、そのあと、かかりつけの先生に「迷惑だからやらないように」と叱られたそうだ。しかし、彼女と二人夜明かしをしたあと、朝、私が「徹夜になって、へろへろです」とアサーティヴに伝えたところ、彼女も「眠れなくて疲れちゃいますよね。私もへとへとです。もう、こんなことにはならないように気を付けますね」といったことを仰って、私はお茶を一杯差し上げ、トイレをお貸ししてからお帰りいただいた。彼女は十分に理性的であり、主治医から叱られなくても、再度、そういうことにならないように気を付けたことだろう。この女性とは対照的に、我が [DV]親父は、私がいくら寝不足になっても、配偶者として、しっかり話を聴く義務があると主張し、寝不足で朦朧としているところに、ガミガミ怒鳴り散らしてパワーハラスメント&モラルハラスメントを行なう。今では殺人予告までしている。このような人物と婚姻関係にあると、命がいくつあっても足りないので、棲み分けすることにした (http://ameblo.jp/aya-quae/entry-11534373063.html)。

精神科医もいろいろであり、離婚を決意するような治療は失敗だという主張もある (http://ameblo.jp/kyupin/entry-11553968178.html)。一方、 [発達障害]系の安原ドクター (http://bit.ly/18PH4eh)なら、こうした「棲み分け」を理解してくださりそうだ。しかし、私は現在、 [PTSD]への対処こそが核心だという立場だ。

http://touyoui.blog98.fc2.com/blog-entry-196.html#comment3966
たかが言葉、されど言葉
我が家は先祖代々「アホ」ですが、「不言実行」「質実剛健」を是としてきました。「教育は平等…健康の優劣に関係無いもので、なければならない」 (http://amba.to/104wKXE)ので、 [発達障害]論ではなくsensory processing another order ゆえの生き難さに素直に対処し、社会的マイノリティとして [アサーティヴ]な姿勢を保って他者との擦り合わせを図り、 [PTSD]を予防する学習がポイントです。 [懲罰的な医療]は誰にとってもNGということに気付きましょう。それは [復興の主体]たる患者にダメージを与えるからです。下手すると患者を [PTSD] (つまり「医原病」)にします。このことを書いたのが『[大笑い!精神医学]』だとも言えましょう。それとは別に言葉は大事です。言葉は [PTSD]克服の魔法の言葉 (http://bit.ly/Z9Dt3G)にもなれば、言葉遊び (http://bit.ly/WP3gAb)に堕することもあります。そんなことが分からないで [大学人]だったり [臨床心理士]だったりすれば社会に害毒をもたらすので国家資格化なんて、とんでもないことです。
2013-03-06 15:10 あ*



皆さまも、お大事に。


極東の僻地にて
世界が「アングロサクソンの妄想性障害」から覚める日が来ることを願いつつ。


http://ameblo.jp/momo-kako/entry-11557355964.html
の一読もお奨め。