松本零士インタビュー/オタクUSA誌掲載分(1) | アディクトリポート

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昨年末、12月4日に敢行された、ティム・エルドレッドによる、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-kokoko
松本零士氏へのインタビュー。

その主要部分は、エルドレッド氏が拠点とする「スター・ブレイザーズ」公式サイトに、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-ほそながお
2月1日から公開中。
訳文その1
訳文その2
訳文その3

これとは別に、3月22日発売の、OTAKU USA(オタクUSA)にも、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-おたこん
インタビューの他の部分が掲載されたので、
作家集団Addictoe オフィシャルブログ-1
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-2
今回から分載で、訳文を紹介します。

アニメとマンガ界の伝説の巨匠、
松本零士に、
オタクUSAが訊く

ー自由と冒険ー

作家集団Addictoe オフィシャルブログ-きじ1

子供時代の環境


--海外のファンのために、先生がマンガ家になるまでの過程を、ざっと教えていただけますか?

 私の父親はパイロットでした。戦時中なのに、父親が無類の映画好きだったので、映写機とフィルムを持っていて、南方戦線で戦っている間に、息子の私と弟は、家でミッキーマウスやポパイのアニメを映写して見てたんです。

 北九州には映画館が31館もあったので、子供時代はアニメに限らず、世界中の映画も観られる環境にありました。
『白雪姫』(1937・日本公開1950)
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-howaito
『ファンタジア』(1940・日本公開1955)
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-teijia
なんかを映画館で観て、とにかく同じ作品を何度も何度もくりかえし観て、目に焼き付けたもんです。
 そして次第に、アメリカ、フランス、ソビエト等、国によるアニメの表現力の違いにも気がついていったんです。

 戦時中は、父の任地で航空基地のあった、神戸の明石に家族で引っ越しました。それで1943年、昭和18年に明石の映画館で、『くもとちゅうりっぷ』という、虫を主人公にした、ミュージカルアニメーションを観たんですが、

そしたら同じ映画館で同じ日に、手塚治虫さんがいっしょに観てたんですよ。
 私より10歳年上で、私は5歳、手塚少年は15歳。で、同じ画面を見て、同じように火がついてるわけです。彼のお父さんも、家に映写機を置いてたんです。環境が非常に似てたんですよ。
 だから後年にお互いに、「なんだ、その時に出会ってるじゃないか」と、ビックリしてひっくり返りました。

 また石森章太郎氏、彼と私とは、生年月日が全く同じなんです。
 それでこの3人が集まって、いろんな古道具を買ってきまして、フィルムも『風と共に去りぬ』(1939・日本公開1952年)
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-ごうん
から何から全部買ってきて、この3人で集まって、3大アニメマニアと自称してました。

 少年時代に話を戻すと、父は戦争が終わってから失業して、ものすごい貧乏だったんです。
 ところが貧乏でも、10セントコミックというアメコミは、終戦直後とはいえ、アメリカ兵が持って来てくれたのが町中にあふれてて、5円、10円で買えたんです。だから山ほど持ってるんですよ。
 で、ここでもマンガの違い、日本とアメリカと、ヨーロッパの『バーバレラ』などのフランスの表現の違いに気がついたんです。

$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-てき2

 それから後につながる科学技術への萌芽といえば、まだ高校一年生の頃(1953~54)に、地元の駅のすぐそばの、井筒屋というデパートで科学展というのがあって、そこへ行ってみたら、日本製のカラーテレビが、いきなり展示されてたんですよ。 

 この年は日本でテレビ放送が始まっただけで、カラーテレビ放送は7年後の1960年に本放送が開始。一般に普及するのは、科学展からかれこれ20年ぐらい後ですからね。

 北九州というのは一種の異空間で、こうした不思議な出逢いが色々あって面白く、勉強になりました。そうした色々なものが、自分の中の刷り込みになっていますね。


つづく(何回連載になるかは未定)


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