■■ NHK-G 「ブラタモリ」


出演: タモリ、桑子真帆アナ

ナレーター: 草彅剛(SMAP)


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■ #23 「小樽 ~観光地・小樽発展の秘密は『衰退』にあり?~」


【初放送】 11/14(土)19:30~20:15

【再放送】  11/15(日)13:05~13:50


取材協力: 小樽市、石屋製菓、北一硝子、JR北海道、佐藤圭樹、渡辺真吾。

資料提供: 東京地図研究社、小樽市総合博物館、市立小樽図書館、乃村工藝社、奥山コレクション。


撮影ロケ: 9/9(水)
ブラブラ足跡マップ


【スタッフ】

映像デザイン: 岩崎敦
CG制作: 戸枝誠憲
写真: 山田大輔

ディレクター: 良鉄矢
プロデューサー: 山内太郎


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【ニュース】

北海道新聞11/11(水)配信、11/12(木)更新
小樽の市街地造成、100年前の痕跡発見 「ブラタモリ」ロケきっかけ、14日放送

[小樽発]
明治30~40年代に山の尾根を削って造成された小樽・花園地区の繁華街の一角に、「削り残し」とみられる高さ5~6mの高台が民家1軒分、残されていることが北大名誉教授とNHKの番組スタッフの調査で分かった。
100年前の市街地造成の痕跡が今も残されていることに、市民や歴史ファンの関心を呼びそうだ。
小樽市総合博物館や小樽観光ガイドクラブの山川隆顧問によると明治時代初期、花園周辺には人家がほとんどなく、水天宮から現在の小樽公園にかけて緩やかな丘陵が連なっていた。
明治30年代に入ると、南側の勝納・入船地区と、北側の稲穂・色内地区が先にひらけたため「街を分断する格好になっていた」花園の丘陵を削る必要が生じた。
最大で高さ10~12mの地面を削って平らにならし、市街地が造成されたという。
一帯には1899年(明治32年)に芝居小屋「住吉座」(後の松竹座)が開設。商店や民家が次々に建ち並び、発展していった。
高台が残るのは、花園橋から南に約50mの地点。NHK総合の街歩き番組「ブラタモリ」のディレクター良(よし)鉄矢さん(32)が見つけた。
明治時代の市街地造成の痕跡を探し、花園一帯をしらみつぶしに歩いていたところ「不思議な高台」を発見。上には民家が1軒建っていた。
地質に詳しい松枝大治・北大名誉教授に調査を依頼、市街地が造成される前の地層と確認された。
松枝さんによると、この高台の地質は「流紋岩質凝灰岩」。小樽がまだ海底にあった約1100万~1200万年前、海底火山の噴火により形成されたものという。色は白っぽく、スコップなどで簡単に削れる軟らかさが特徴。
当時の小樽は急速に発展し人口も増えていたことから、松枝さんは「(区画整理の完了を待たず)更地になり次第、どんどん建物を建てていったため、こういう“削り残し”が生じたのでは」と推測する。
番組は14日午後7時30分から放送予定。良ディレクターは「普段目にしているものにも意外な歴史が眠っている面白さを番組で伝えられれば」と話している。
(記者・市村信子)


 


【あらすじ】


今回の舞台は、運河の町・小樽。色内1丁目からスタート。

タモリさんは小樽は初めて。(人差し指で自分を指しながら) 「私もです」と桑子さん。
二人共、小樽は、運河とその夜景の写真しか見たことない。

ここで小樽市総合博物館(小樽市手宮1-3-6)の館長・石川直章さんが登場。

昭和50年代の運河の写真パネル。「汚ないですね!」

舟は沈んだまま、ゴミが浮かんでいて、メタンガスが噴き出している。ほんの30年前、運河はこのような状態で、当時の地元新聞には「町の恥部」と書かれた。
この運河のように、小樽の町がずっと淀んだ感じで活気を無くした時期が続いた。

或る人の「小樽には何もない」という発言は衝撃的だった。その方は今は凄い有名人となられている。
その人とは? タモリさん「芸能関係の人ですか?」、桑子さん「タモリさんじゃないんですか?」、タモリさん「来たことないもん」。
石川さん「実はこちらの方です」と写真パネルを見せる。
昭和59年7月発行の「小樽電字瓦版」には、「'84小樽博 爆笑、タモリ登場 ! どっと5万人」。

タモリさん「俺、来たことあるのか?」、
石川さん「ゲストでおいでになっています。この席上で、『博覧会のくせに、な~んにもないところ』とおっしゃった」。
タモリさん「全然覚えていない。それぐらい印象にないんだよ、この町は」。
石川さん「そこが今日のテーマと密接に関わっているんです」。
31年振りの小樽。


ここで、タモテバコの登場。旅のお題は、「観光地・小樽 発展の秘密は『衰退』にあり?」

 タモリさん「記念すべき回になりますね。バツ悪いよ、記憶から消えてるんだもんな」。


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石造りの倉庫は立ち並び、明治や大正を偲ばせる街並みが人気の「ノスタルジックタウン」。
今や年間750万人の観光客が訪れる北海道を代表する観光地・小樽 発展の秘密は『衰退』にあり?

石川さん「元々、この小樽って、どういう町だったとお考えですか?」、
タモリさん「港町ですよね」。
石川さん「衰退があるってことは、一度、発展しなきゃいけない。先ず、港町としての発展のところに迫って行きたい」。
1875年(明治8年)の実測図。札幌から西に約30km、ニシン漁で栄えた3000人の漁村。
明治以降、港町として大いに発展した小樽だったが、戦後は産業構造が変化したこともあり、急速に衰退してしまった。
では、どうやって今のような観光地となることができたのか? その秘密は、急速な「衰退」そのものにあった?
そして、観光地として歩み出すきっかけを作ったのは、まさかの・・・タモリさん自身だった !?


観光都市になった北海道小樽市の「繁栄と衰退」をテーマに、発展の痕跡を辿り、
波乱万丈の歴史のドラマにタモリさんが迫る。


□ 観光地のど真ん中、「メルヘン交差点」

「蒸気時計」(小樽市入船1-1-2)が11時を知らせる。1997年、常夜灯(木製の灯台)を再現。蒸気時計はバンクーバーと小樽にしか存在しない。
ここは元々は海岸線だったという、メインストリートのカーブ。

平地が少ないので埋め立てた。むしろ埋め立てないと追い付かないことが起きた。
1880年(明治13年)、石狩炭田が見つかり札幌⇒小樽の鉄道を敷設し、本州へと積み出した。札幌の海の玄関口として発展した。
1887年(明治20年)頃から、どんどんやって来る貨物・荷物を収容する倉庫の建設ラッシュ。

人気スポット・石造りの倉庫の中で見つけた意外な歴史とは?

□ 「堺町通り商店街」

北菓楼(きたかろう、堺町7-22)、福鮨(堺町5-26)など同じ色の石造り洋館。

タモリさん「粗めの凝灰岩かな」。石川さん(正解に呆れながら)「地元では軟石(なんせき)という言い方。柔らかくて加工しやすいから。もう一つとても重要な理由がある」。
タモリさん「遮熱(しゃねつ)ということもあるでしょうね」。石川さん(またもや!)「話には聞いていましたけど・・・。火事に強いんです」。
明治に起きた大火の写真パネルには、石造りの倉庫が焼け残っている。小樽の倉庫は火事に強いから、荷揚げしようか⇒発展⇒埋め立て。

倉庫の工夫から、港発展の歴史を探る。

□ 「北一硝子の倉庫・三号館」 (堺町7-26)・・・1891年(明治24年)に建てた。トロッコのレール跡、明治の地下足袋跡まで。

小樽の倉庫の特徴「木骨石造」・・・木の骨組みを石で外装した。タモリさん「上部構造が木材の方が屋根は簡単、石だとアーチ形で大変」。
石川さん(またまた苦笑い)「倉庫需要に応えて、工期短縮と費用削減」。

港の変化で町も変化。或る地形が発展を紐解くヒントになる。
石川さん「お好きな地形が見えて来ると思いますが」。タモリさん「もう見えてます」。

移動中、突然、桑子さんが「おっ、これは!」と叫ぶ。「タモリさん、ラムネありますよ」タモリ「飲もうか !」桑子「やった ! (とガッツポーズ)富士山以来の♪」
石川さん「小樽は1895年(明治28年)からラムネ作っているんです」。桑子「私も」と栓を開けようとしてタモリのピンクシャツに泡を吹き掛けた。
タモリ「やっぱりラムネは小樽だな」といい飲みっぷりを披露。石川「細々とした生活物資は小樽で作って道内へと運ぶことが多くなって行った。モナカの皮だけで船を出した」。
石川さんが説明している間も、桑子はずーっとチビリチビリ飲んでいた。

<という私もたまたま、真夜中にキリンレモンを飲みながらコレを書いている。>


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□□ 「海食崖」・・・海に面した陸地が波に浸食されてできた崖。

その上にできた町発展の痕跡を探す。20%勾配の急坂を上る。タモリ「(前回までの富士山と違って)酸素が多いからいいよ」と言いつつも息が荒い。
石川「石狩湾と増毛(ましけ)連峰が見えています」。タモリ「あ~増毛 !」桑子「ゾウモウだ !」タモリ「行ってみたいよ」
石川「小樽には毛無山って言うのがあります」タモリ「そこは行きたくない !」石川「毛無山からは増毛連峰がよく見えますよ」。

石川「雰囲気がガラッと変わります」タモリ「廻船問屋の財を成した家ですか?」石川「どうしてそれが分かるんですか !?」

□ 「板谷宮吉邸跡」・・・二代目(885-1962)のお屋敷があった。東雲町1-19。
現在は「海宝樓」というレストラン・バー・温泉・岩盤浴・資料館…の複合商業施設。
造船・海運業で金満番付の全国18位。越後国宮川(現・新潟県柏崎市)の御用商人の出。


更に石垣の上にあったお屋敷は
□ 胴鉄金物商・「名取高三郎邸跡」・・・甲斐国白州(現・山梨県北杜市)の農家の出。高級マンション。
その他に岐阜の出の篠田洋物店。

小さな漁村から商業都市への変貌。高台には豪商の高級住宅街。
名取邸跡のマンション「ライオンズヒルズ小樽東雲町」7Fから小樽港を臨む。
1905年(明治38年)には日露戦争勝利で南樺太領有権を得たことで、物流が急速拡大した。貨物船取扱い総トン数が全国4位に躍り出た。
小樽の町に職業不詳の人間が急増した。流れ者も小樽に行ったらね荷揚げをはじめ何とかなるだろうと流れ込んだ。
人口は明治初期3,000⇒明治43年には90,000人(40年で30倍)。


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前方に、タモリ「マニアックな人がいる。既にマイク付けている」。
桑子「何をされてるんですか?」「この付近の地質を調べているんですよ」と答えるがバレバレ。
「これ分かりますか?」と質問して、タモリが答える前に「流紋岩質凝灰岩」と答えながら、崖をピッケルで崩す。タモリ「大丈夫ですか?」

ここでようやく自己紹介、北海道大学・名誉教授(地質学の権威)の松枝大治さん。
「タモリさんと同じ高校 (福岡県立筑紫丘高校) 出身なんです。2年下なので」。タモリ「一緒にいました?」松枝「いや」タモリ「結構、有名だったんですが」と見栄を張る。

松枝「あちらに見えているのは鳥居。上の方に『水天宮』がある」。

□ 「小樽水天宮」(相生町3-1)

高台にある神社の参道が物語る小樽発展の秘密とは?
本殿と鳥居の向きが違う。
古い参道が別にあった。
小樽駅と南小樽駅の間に新しい町ができ、新しい鳥居と参道を作った。

新しい町造りの最中の写真パネル・・・凝灰岩の10m以上の崖が所々残っている。
1894年(明治27年)頃、傾斜地の尾根を削って強引に平地にして行く。高さ10m以上X長さ600m以上。
ところが5年後の写真パネルを見ると、崖を削り終えない場所(花園地区)にも住宅が建っている。待てずに急速町造りをした。


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次に、運河に近い大通りへと移動。小樽の最盛期に迫る。
最も栄えた時期の象徴が、この色内1丁目

□□ 「北のウォール街」交差点付近にある。

ホテル、観光物産ショップ、工場。

□ ノスタルジィックな「ホテルヴィブラントオタル」(色内1-3-1)・・・写真右

タモリ「雰囲気のある、港のこういうホテル、いいですね。これは元々、銀行か何かですか?」石川「どうして銀行って分かるんですか?」タモリ「空間と柱が銀行っぽい」ここは銀行だった建物をホテルとして再利用している。

それは、「旧北海道拓殖銀行小樽支店」・・・1923年(大正12年)、鉄筋コンクリート造4階建。 「北海道拓殖銀行」は後に破綻。

タモリ「拓銀かあ」桑子「拓銀、私は知らないですもん」

向かいは、
「旧三菱銀行小樽支店」・・・色内1-1-12、1922年(大正11年)、鉄筋コンクリート造4階建。
「旧第一銀行小樽支店」・・・色内1-10-21、1924年(大正13年)、鉄筋コンクリート造4階建。

少し離れて、
「旧日本銀行小樽支店」・・・色内1-11-16、1912年(大正元年)、煉瓦の上にモルタルを塗った造りの2階建て、ルネサンス様式。
1924年(大正13年)現在で25の銀行が営業しており、日本を代表する経済都市となっていた。


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なぜ壊さないで遺しているのか? 

□ 「旧三井銀行小樽支店」・・・色内1-3-10、1927年(昭和2年)鉄骨鉄筋コンクリート造・花崗岩張り。
今は普段、「白い恋人たち」の石屋製菓所有の非公開。
ここで、石屋製菓常務取締役・本間哲平さんがご案内。再利用していないまま。

歴代小樽支店の銘板・・・三井銀行(1880)⇒帝國銀行(1943)⇒三井銀行(1954)⇒太陽神戸三井銀行(1990)⇒さくら銀行(1992)⇒2002撤退。

1924年には25行⇒現在は3行。
原因は戦後の急激な衰退にあった。

・ ニシンは1955頃に姿を消した。
・ 石炭は1960頃からのエネルギー革命により、石油時代へ移行した。
・ 海運は1965頃から、苫小牧・太平洋ルートへ移行した。

1975~84年(昭和50年代)頃・・・次の所有者が何かに使用するか、壊して建て替えるかの両方とも成り立たず、銀行の建物が取り残された。

そんな1984年にタモリさんがやって来た。タモリ「無遠慮に、『何にも無い』と言った。(噛みながら)穴があったら入りたい位です」。


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石川「ところが、その後、或ることが切っ掛けで、倉庫や銀行といった残されていた資源を、観光目的として再利用して行こうという動きが始まります。切っ掛けとなった場所にご案内します」。

□ 「北運河」(色内3丁目)

ゴミ捨て場だったから、
1965年頃、運河を埋めて自動車道路計画。
1973年頃、市民の反対運動が始まる。
1983年頃、運河杭打ち着工、半分の幅を埋め立て道路を造る。国を巻き込んだ大論争、市議会紛糾。
1986年、妥協点が見つかり、道路工事終了・遊歩道(プロムナード)が完成。その後は観光客が押し寄せて来た。

タモリさんの訪れた翌年1985年度に転換が始まったことになる。計らずも !!
残されたものを如何に利用するか、考える気風が生まれた。
今や観光スポットとして、年間750万人が訪れる都市となった。


 タモリさんのまとめ
急速に衰退すると、為す術(すべ)もなく残っちゃう。急速冷凍の方が鮮度を保つんです。