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NHK-G 「ブラタモリ」
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■■ #16 「軽井沢 ~軽井沢はなぜ日本一の避暑地になった!?~」
【初放送】8/29(土)19:30~20:15
【再放送】8/30(日)13:05~13:50, 9/21(月)9:05~9:50
取材協力: 軽井沢ナショナルトラスト会長・大久保保、軽井沢町 教育委員会・建設課、佐久建設事務所。
資料提供: アジア航測、ITNソース/ロイター、0927productions。
映像デザイン: 山口高志
CG制作: 渡邊竜実
写真: 山田大輔
ディレクター: 山口忠継
プロデューサー: 垣東大介
撮影ロケ: 7/13(月)
軽井沢旧道(県道133号線)、旧軽井沢銀座、「軽井沢ユニオンチャーチ」、
「八田裕二郎別荘」、
「八田裕二郎別荘」、
六本辻交差点「六本辻ラウンドアバウト」、
出演: タモリ、桑子真帆アナ
ナレーター: 草彅剛(SMAP)
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【あらすじ】
ブラタモリ、リゾートへ。
タモリさんの軽井沢イメージは、林の中に土を盛った低い塀。苔があって。
ここでタモテバコ登場。
旅のお題は、「軽井沢はなぜ日本一の避暑地になった !?」
避暑地だから涼しい・気温が低い所。標高900m位ある?
真帆さん「100度で1℃? いえ100mで1℃違うんですよね」
ここで跡見学園女子大学観光コミュニティ学部観光デザイン科の教授・安島博幸さんが登場。
実はタモリさんと共通の趣味、真空管アンプ。KT88でジャズを聴くこと。今回のテーマとは関係ない。
軽井沢は何時から避暑地・別荘地になったか?
明治の中頃、130年前の1886年(明治19年)。当時は何もない浅間山の裾野。
今では、夏に400万人以上、年間830万人の観光客が訪れる。
この山合いの地が、どうして「日本一の避暑地」になったのか? をテーマに、
軽井沢に潜む歴史の痕跡に、タモリさんが迫る。
*
メインストリートの「旧軽銀座商店街」。
昔、何だったか? タモリさん「旧街道?」 流石、中山道六十九次の宿場町(江戸から18番目)。
江戸方面から最大の難所・碓氷峠を下って来ると軽井沢宿。交通の重要拠点で約30軒の宿屋があった。
タモリさん「旧中山道と書いて、1日中、山道と解く」。
大名と家来の宿・本陣、脇本陣。今はレストラン街・CHURCH STREET。「Cafe&Wine 脇本陣 江戸屋」。
今は靴屋・サトウシューズスタジオ、昔は萬屋という旅籠(はたご)。ここでご主人の佐藤俊幸さんが登場。間口13m、奥行き70m。江戸時代は間口で税を決めたから(京都の商家もそう)。
「万延武鑑」(大名や幕府役人のデータブック)・・・例えば加賀藩が参勤交代で泊まると、2カ月は食べて行けた程。
*
しかし明治になって一旦は宿場町としての機能を失って衰退の一途を辿っていた。
大名が居なくなっただけでなく、鉄道敷設により新道ができたため。
そんな時に訪れた大きな転機、そのキーワードは外国人宣教師。
「軽井沢会テニスコート」。
タモリさん「我々の世代には忘れられない。天皇陛下と皇后陛下の・・・」。
1957年(昭和32年)、お二人が出会ったスポット。全国にテニスブームが広がった。
隣接する「軽井沢ユニオンチャーチ」。
ここで代表理事のクレイグ・カックスさんが登場。軽井沢生まれの香川育ち、夏は軽井沢だった。
1886年(明治19年)、カナダ人宣教師で福沢諭吉の家庭教師だったアレクサンダー・クロフト・ショー(1846-1902)がたまたま訪問、
そんな時に訪れた大きな転機、そのキーワードは外国人宣教師。
「軽井沢会テニスコート」。
タモリさん「我々の世代には忘れられない。天皇陛下と皇后陛下の・・・」。
1957年(昭和32年)、お二人が出会ったスポット。全国にテニスブームが広がった。
隣接する「軽井沢ユニオンチャーチ」。
ここで代表理事のクレイグ・カックスさんが登場。軽井沢生まれの香川育ち、夏は軽井沢だった。
1886年(明治19年)、カナダ人宣教師で福沢諭吉の家庭教師だったアレクサンダー・クロフト・ショー(1846-1902)がたまたま訪問、
高林薫平の居宅を借り受けて7~8月滞在。雄大な高原と涼しい気候、故郷のトロントと似ていると感じた。
1888年(明治21年)、「つるや」(現・つるや旅館)の主人・佐藤仲右衛門の斡旋(あっせん)によって、
1888年(明治21年)、「つるや」(現・つるや旅館)の主人・佐藤仲右衛門の斡旋(あっせん)によって、
ショーは大塚山に別荘を設け避暑地としての軽井沢の歴史を切り開いた。
この別荘第1号は、民家を移転し改造したもの。
仲間が次々と集まって、別荘を建て(明治末期に約100軒)、1906年(明治39年)に教会を建てた。
飾りも拘りも何もない。避暑にやって来る宣教師の誰(教派)でもが通える教会 = ユニオン(共同)チャーチだと、シンプルにした。
後に移築され「ショーハウス記念館」となった。「ショー記念礼拝堂」とともに現存する。
この別荘第1号は、民家を移転し改造したもの。
仲間が次々と集まって、別荘を建て(明治末期に約100軒)、1906年(明治39年)に教会を建てた。
飾りも拘りも何もない。避暑にやって来る宣教師の誰(教派)でもが通える教会 = ユニオン(共同)チャーチだと、シンプルにした。
後に移築され「ショーハウス記念館」となった。「ショー記念礼拝堂」とともに現存する。
外国人が集まると欲しくなるものは? タモリさん「外国のグッズ」。
宿場町に与えた変化を探す。
再びサトウシューズスタジオに戻る。
ここで先代のご主人・佐藤重二さん(91歳)が登場。
例えば、川水の運搬屋や靴の修繕屋。商店街へと生まれ変わった。レース・花、ハチミツ・豆腐、・・・。
*
現存する最古の別荘。
ここで久し振りに、神奈川大学工学部建築学科・教授の内田青蔵さんが登場。
1893年(明治26年)、日本人別荘の第1号は元海軍大佐の「八田裕二郎別荘」。
純和風建築に見えるが、ベランダと食堂を採りいれている。
タモリさん「函館や長崎などの港町ではない、長野の寒村が西洋の影響を受けた不思議」。
第2号は「三井三郎助(高景)別荘」。後者の「三井三郎助別荘」は、現存する最古の洋和館別荘。
旧軽井沢愛宕山下にあり、明治33年(1900年)に建てられた。
ハーフティンバー(木骨様式)、三面ガラス張りのサンルーム、本格的なシャンデリア、明治期の家具や絹のブラインド、当時としては珍しい水洗トイレ、など。
*
地形の特徴が分かる場所。
ここで日本大学文理学部地球システム科学科・教授の高橋正樹さんが登場。
ボートに乗って見つけた、地層に隠された軽井沢誕生の秘密とは?
軽井沢の大地の秘密が隠されている、2万4千年前の地層。
火砕流(火山が噴火し高温のガス・軽石・火山灰の一団が100km以上を流れ落ちる現象)。
サラサラしているので平らになりやすい。
2万4千年前、浅間山噴火で川が堰き止められて湖ができた。
⇒2万年前、湖底噴火で火砕流が湖を埋め、溶岩ドームが「離山」、平地が「軽井沢」。
・・・
⇒近世では1783年(江戸天明3年)の大噴火で、関東一円に火山灰が降り注いだ。
その時の軽石が今でもちょっと掘ると出て来る。軽石沢→軽井沢という説。
土地造成が容易。
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今度は、別荘地への発展の様子を見る。
明治では外国人別荘。
大正では日本人別荘、そこには或る人物の戦略があった。
ここで再び、内田青蔵さんが登場。
明治20年代の軽井沢は草原だったが、植林して緑豊かな環境に変えた。
その計画者の1人、貿易商の野沢源次郎。
新たな町づくりの痕跡を探す。
道路の不思議な曲線に隠された、明治の実業家たちの努力の結晶とは?
碁盤目でなく、敢えて道を円弧状に曲げた同心円の環状道路と、直線道路の交差。
中心はロータリーになった「六本辻」交差点の「六本辻ラウンドアバウト」。画期的なパリのような西洋的街並み。
著名な政治家(大隈・近衛・後藤・徳川)に別荘を購入してもらい、上流層の生活スタイルとして定着させ、ブランド化する戦略。
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「軽井沢はなぜ日本一の避暑地になった !?」
タモリさんのまとめ
・ 先ずは、浅間山のお陰で、950m位の広大で真っ平らな土地ができた。
・ もう1つは、人間の方々。外国人宣教師さん、野沢さん。
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「塩沢湖」・・・1961年(昭和36年)、地元住民によって広大な敷地の中に造られた人造湖。
軽井沢で唯一、ボート遊びができるスポット。ボートに乗り湖面から見える浅間山の雄大な姿が眺望できる。テニス・パターゴルフ・アーチェリー・ゴーカート・サイクルモノレールなど、多彩な施設も。
「塩沢湖」を中心にして、軽井沢の文化の象徴「睡鳩荘」「明治四十四年館」「ペイネ美術館」などのミュージアムが湖畔に広がる。
「軽井沢タリアセン」・・・軽井沢町塩沢湖、エリア名・南軽井沢。英国ウエールズ語で「輝ける額」を意味する。
「離山」・・・軽井沢町のほぼ中央に位置する。浅間山の側火山であり山全体が火山台地。山容がなだらかであることから、「テーブルマウンテン」の別名を持つ。山麓は別荘地として開発されている。登山口から山頂までは高低差300m程の緩やかな登山道。
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