初めての方は、このブログを通して貫く基本概念である主観と客観との違いについての説明をしている以下の記事をご覧ください。

 

 主観と客観

 客観についての補足

 外国人には思い遣りがガチでないという事実

 優しさ(主観的)と思いやり(客観的)

 二種類の「正しさ」

 日本の常識は世界の非常識、日本の非常識は世界の常識

 

 外国で生活をされた方はおそらく気付かれたことがあると思う。日本以外の外国人の声は、よく通る。しかも大きな声で長く話すことができる。ナイトクラブ(ディスコー若者が踊る所)などに行くと、ものすごい大音量が響き渡っているにも関わず、外国人同士では互いによく会話をできる。ところが、日本人がこれに混じるとまず相手に声が届かない。

 

 これは単純に、日本以外の外国では、通常、腹から声を出しているからである。欧州であろうと、南米であろうと、シナであろうと、朝鮮半島であろうと、北米であろうとアフリカであろうと、これは全くもって共通のことである。無論、通常は大声で話さないので特に気付かないが、先ほど例に出したナイトクラブなどではそのことが顕著にわかる。それゆえ、日本人は長く話すとすぐに声が枯れる(喉を痛める)し、長く話すことが苦手である。また、よく通る声で話すこともできない。喉から声を出していれば当然である。

 

 これは実は日本人の外国語発声下手と関わってくる。実に不思議なのだが、腹から声を出した時と喉で声を出した時では、英語であれフランス語であれドイツ語であれ、まるで通じ方が違うのである。日本人は慣れているが、外国人は喉から発生する音に慣れていない上、喉から出した方が音が弱いため聞き取れないのである。日本人の英語が通じにくい理由としては、数ある側面の一つとしてこうした面も観察されるのである。

 

 では、なぜ、日本列島においてのみ、人々は喉から声を出して話すのか、ここから先は筆者の推測的分析である。主観的な判断は入らないものの、完全に科学的に証明された話ではないことを前置きした上で紹介したい。

 

 そもそも、腹から声を出すことで得られるメリットは、1、騒音の中でも声が通る 2、大きな声がでる、3長く話せる という三点である。お気づきになられた方もいらっしゃるかもしれないが、これらの特徴は、自己を主張する際に必要な要素である。つまり、自分の言っていることを相手にわからせるためにも、喉からボソボソと話していたのでは用を足さないのである。また、議論ということになれば、長々と声を枯らさず話さなければいけないが、そのためには腹から声を出すことは必須である。

 

 方や日本語。日本語の会話では、自己主張を求められたり必要とすることは、日常生活でもビジネスの場でもまずない。また、大きな声を出すことをこれほど嫌がる文化も珍しい。自己主張などもってのほかで、そんなことを日常する人間は、普通の人間とは認識されない。自らを抑え、謙虚であることを求める世界でも稀有な文化である。さらには、会話も関係を円滑にすることが目的で、議論をすることはまずもってあり得ない。長く話しをしなければいけない状況など、通常あり得ないのである。

 

 別に近代だけではなく、おそらく(筆者の観測的分析)は、歴史をはるかに遡ってこうした発声の方法が存在したと考えられる。というのも、こうした「喉で話す」人は、一部の例外を除いては、北は北海道から南は沖縄まで、普遍的に見られるからである。一国の中でこれほどしっかりと共有されているものは、文化以外の何ものでもない。

 

 試しに日本語でも腹から声を出そうと思えば出せるのでそのように話してみるといい。遠からず「うるさいね」という声が聞こえてくるはずである。まあ、状況にもよるであろうが。ちなみに、日本語でも歌を歌うときは、腹から声を出すのが常識であるが、はるか以前の日本では、日本人も腹から声を出していたことの名残なのかもしれない。

 

 日本では、文化的側面として、自己主張を嫌い、議論を嫌い、長々と話すことを嫌い、さらには大声で話すことを嫌うために、人々は自然に喉から話す発声を共有していったのであろう。方や日本以外の全ての外国では、自己主張こそ命で、議論こそ必要で、長々と話すことこそ大切で、大声で話すことを了とする文化が育まれたために、腹から声を出す発声が一般化したのであろう。

 

 日本の常識は、まさに世界の非常識であり、世界の常識は、日本の非常識以外の何ものでもないという筆者の常日頃から考えている理論が、こうした発声の方法からも垣間見えてくることを紹介した。

 

 筆者のこの理論を楽しんでいただけたら幸いである。

 

 今回もお読みいただき、ありがとうございます。

 


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