こんにちは。
今回は、現代の世俗化と真のクリスチャンの生き方について話をします。
過去記事「聖書預言の正しい解釈方法」で1世紀の生活を模倣する必要はないと申しましたが、それは書いたとおり、集団生活についてです。勿論、聖書にあるとおりの集団生活が実現することが可能ならば、それは大に結構なことです。ただ、できればの話です。しかし、個人の生活については、聖書にある戒めを守ることはできるはずです。それにも拘らず、ほとんどのクリスチャンは、誘惑に負け続け、まったくその通りの生活をしていません。つまり、世俗化に飲まれているのです。以下、普段のあなた自身の生活と比較してみてください。
新約聖書 テモテへの手紙一 2章9節
婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。
旧約聖書 イザヤ書 3章18~24節
その日には、主は飾られた美しさを奪われる。足首の飾り、額の飾り、三日月形の飾り、耳輪、腕輪、ベール、頭飾り、すね飾り、飾り帯、匂袋、お守り、指輪、鼻輪、晴れ着、肩掛け、スカーフ、手提げ袋、紗の衣、亜麻布の肌着、ターバン、ストールなどを。
芳香は悪臭となり、帯は縄に変わり、編んだ髪はそり落とされ、晴れ着は粗布に変わり、美しさは恥に変わる。
世間には、雑誌、テレビ、芸能人等の影響から、服装やアクセサリーについて、必要以上に着飾ることに誘惑されて、その通りにしている人が大勢います。その影響を受けて、彼らの真似をしたり、その美醜について評論したり、競い合ったり、多くの金銭をつぎ込んだりする者もいるでしょう。クリスチャンでそのようなことをしているなら、恥ずべきことです。何故、この世の物に必要以上に執着するのですか。物欲に支配されてはなりません。ブランド等の高価な服、けばけばしい服、露出の多い服、宝石、ピアス、香水等は何のために身に着けているのですか。身を飾るためでしょうが、それは何のためですか。他人に綺麗と言われたい、思われたいがためでしょう。それが何になるというのでしょうか。寒暖のために季節に応じて服装を変えることはあって然りですが、必要以上の装いや飾りは要らないはずです。まして、それらを得るために金銭欲に溺れたり、物欲に溺れていることがどういうことなのかを知りなさい。また、それだけでなく、外見で人に良く見せようとしないことが大切です。敢えてみすぼらしい格好をしろと言っているのではありません。しかし、必要以上に外見を飾るのは、他人から良く見られようとする心理の表れです。何故、他人の目ばかりを気にするのですか。本当に気にしなければいけないのが何なのか分かっていない証拠です。
入れ墨というのも罪だということは知っていましたか。刺青やタトゥーとも呼ばれますが、同じ物を指し、タトゥーというのは日本語ではなく、英語のtattooから来ているだけです。
旧約聖書 レビ記 19章28節
死者を悼んで身を傷つけたり、入れ墨をしてはならない。
上記聖句のとおり、明確に、入れ墨は禁じられた行為です。入れ墨は、ご存知のとおり、一度入れたら、元どおりにはなりません。消そうとしても痕が残ります。ピアスにしても、体に穴を開ける行為であり、元には戻りません。ピアスを長い間してなくて穴が塞がることもあるかもしれないし、塞がらないこともあります。塞がったとしても何らかの痕は残ります。入れ墨もピアスも、周囲の影響から、他人に良く見られたいという欲求から来るものです。誰かがしているのを見て、かっこいいとか綺麗、かわいいと思って真似したのでしょう。しかし、これは非常に愚かな行為です。新約聖書では入れ墨やピアスについて記述が無いにしても、許容されていることとは到底言えません。記述が無ければ、即ち、許容されているということにはならないからです。人間の法律と同じ考え方ではいけません。人間の法律は、憲法と刑法の基本原則である罪刑法定主義というものがあります。罪は予め明確な法律で規定しなければならず、法律なくして罪に定められないという原則です。人間の法律はこれでいいのですが、神の律法ではそうではありません。聖書で人間の行動を逐一列挙して縛るなら、それこそ律法主義になってしまいます。律法を守るのは必要なのですが、律法遵守を義として自分で救いを得ようとするのではなく、主イエスへの信仰が最も重要なのです。その信仰に照らして、罪になるか考えれば分かるはずです。聖書が取り上げていなくても、あなたがしようとする行為が主イエス・キリストに喜ばれるかどうか考えるようにしてください。もしとても喜ばれそうにないと思うのなら、やめておきなさい。一応言っておきますが、私は入れ墨もピアスも一切したことがありません。
新約聖書 コリントの信徒への手紙一 6章19~20節
知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
上記聖句のように、私たちが主イエスを唯一の神、救い主と信じ、十字架による罪の贖いで私たちの体は神に買い取られたも同然であり、その管理を任されているのだと心得なさい。もはや、サタンや悪霊、この世の物のために、私たちの体を用いるべきではないのです。外見だけでなく、その聖霊が宿るにふさわしい神殿のために、食べ物や飲み物についても注意すべきです。
旧約聖書 箴言 23章29~32節
不幸な者は誰か、嘆かわしい者は誰か
いさかいの絶えぬ者は誰か、愚痴を言う者は誰か
理由なく傷だらけになっているのは誰か
濁った目をしているのは誰か。
それは、酒を飲んで夜更かしをする者。
混ぜ合わせた酒に深入りする者。
酒を見つめるな。
酒は赤く杯の中で輝き、滑らかに喉を下るが
後になると、それは蛇のようにかみ
蝮の毒のように広がる。
旧約聖書 ハバクク書 2章15~16節
災いだ
自分の隣人に怒りの熱を加えた酒を飲ませ
酔わせて、その裸を見ようとする者は。
お前は栄光よりも恥を飽きるほど受ける。
酔え、お前も隠し所を見られる。
お前のもとに、主の右の手の杯と恥辱が
お前の栄光の代わりに回ってくる。
酒については、聖書は上記聖句以外にも多くあり、とりわけ強い酒を飲まないように警告されています。洗礼者ヨハネは、聖霊に満たされ、ぶどう酒や強い酒を飲まない(ルカ1:15)と生まれる前から言われています。しかし、飲酒を全否定しているのではありません。聖書で言われているのは、飲酒行為そのものではなく、酔っ払うという行為が罪ということです。パウロも「酒に酔いしれてはなりません。」(エフェソ5:18)と言っています。酒というのは、アルコールが入っており、アルコール依存症、急性アルコール中毒という現象があるとおり、危険と隣り合わせなのです。自分は大丈夫と何の根拠も無く思い込み、限界を超えて飲んで酔い、気付いたら救急車の中、病院のベッドの上、または意識を取り戻すことなく、死ぬことになるかもしれません。ですから、酒に依存することがないよう、また酒に飲まれることがないようにするべきです。私は、長らくまったく飲酒しません。かつて、周囲に合わせて付き合い程度に飲んだことはありましたが、それでも飲む量は圧倒的に少なく、酔って自分を見失うことは一度もありませんでした。
食べ物については、過去記事「神を愛するということと人が生きる意味」でも触れましたが、レビ記に多く記載があり、旧約時代は厳しく律法で制限されていました。食べてはいけない物として有名なのは、豚肉、エビやカニ等の甲殻類等です。これは神が古代イスラエル人を他の民族と区別するために設けた律法です。しかし、主イエスが地上に来られ、それを否定する内容のことを仰いました。
新約聖書 マルコによる福音書 7章15、18~19節
外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。
(中略)
すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。
それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。
食べ物は、所詮物理的な物なので、排泄物として体の外に出るのだから、体を汚すことにはならないということです。このように主イエスは仰いましたが、当時の人々が律法で禁じられた血や偶像に献げられた肉等を口にされたとは思えません。だから、パウロも以下のように言っています。
新約聖書 使徒言行録 21章25節
偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。
主イエスが仰るように、私も、食べ物ごときで人を清くしたり、汚したりすることはできないと思っています。ただし、血を飲むことも、偶像に献げられた物を食べようとは、私は思いません。パウロが言った、言わないに拘らずです。自然に嫌悪するのです。食べてよいかどうか迷うなら、食べない方が良いのです。なぜなら、「疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められ」るからです(ローマ14:23)。各自が確信を持って食べればよいのです。食べ物について、食欲も切り離せません。過去記事「最近の周囲の様子と大半の人々が陥る罠」で述べたように、食欲は欲の一つであって、これは抑制しなければならないものです。際限なく好き放題に食べて、肥え太り、または食生活の乱れで不健康に陥った体を主イエス・キリストがお喜びになると思いますか。答えは明白ですね。
つまり、キリストに結ばれた者は、食べ物や飲み物について節制し、精神的、霊的に感覚を研ぎ澄ませて善悪を区別し、サタンや悪霊の誘惑に対して打ち勝つ力、肉体の維持についても、すべて神に栄光を帰すべきなのです。ただし、肉体について、外見上必要以上にこだわりを持つべきでもなく、固執すべきでもないことは上記引用過去記事で述べたとおりです。また、それはこの世にしがみつくという点においても同様です。私が過去に何度も口酸っぱく繰り返し言ってきた金銭欲についてもまた注意しておきます。
新約聖書 テモテへの手紙一 6章7~10節
わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べ物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足するべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。
ご存知のとおり、死んだら何も持って行けません。世の金持ちは必要以上に金に執着し、使いきれない程貯め込んで自己満足していますが、私はちっとも羨ましくもありません。私は金銭を愛していません。兄弟が必要とすれば私は惜しみなく使います。主イエスを信じ、その助けを必要する人には喜んで施します。金持ちになろうと思っている時点で、もう既にサタンの誘惑に引っ掛かっていると思ってください。宝くじに手を出したり、カジノに行ったり、賭け事に興じたり、株やFXで儲けようとすることも善い行いではありません。特に、賭け事(麻雀、競馬、競艇、パチンコ、スロット等)や株、FX等に財産をつぎ込み、破滅に突き進む人もいるでしょう。楽して財を成すことに気を取られ、その危険性を軽視し、望んだ金銭ではなく、その大きな代償と不道徳が返ってくるだけです。これは箴言で言われているとおりです。
旧約聖書 箴言 28章22節
貪欲な者は財産を得ようと焦る。
やって来るのが欠乏だとは知らない。
兄弟たち、金銭に心を奪われてはなりません。金銭を愛するような者は、道を踏み外す者です。過去そうであったとしても、主イエス・キリストを信じて従うと決めた時から悔い改めたのだから、あなたはその道に戻ってはならない。そうすることが主イエスに対する裏切りとなることを心得なさい。
真のクリスチャンは、神の御心を行うべきです。悪に心を奪われ、悪い行いに加わるべきではありません。自分勝手に、世俗的欲求に従って好きなように生きた結果、天の国に入れると思わないことです。ひたすら、善い行い、神に義とされる行いをすることが神の御心に適うことです。私たちはこのために世に召されたのです。私たちは、主イエス・キリストを模範として生活しなければなりません。何の罪も犯さなかったお方が罪人のために死なれたのです。罵られても罵り返さず、苦しめられても脅迫せず、正しく裁かれるお方にお任せになりました。かの天使もそうしました。
ですから、真のクリスチャンは世俗化に飲まれることなく、世間に迎合することなく、ひたすら神、主イエス・キリストを第一に愛し、求め、模範として生きるべきではありませんか。正しい信仰生活を送っていれば、他の人間があなたが素晴らしい人間だと認める程になります。もっとも、他人からの評価を気にしたり、求めてもいないのですが、自然にそうなるのです。もし、あなたがそのような醜い下心を持って、そう振る舞うのであれば、あなたの下心に人々も気付きます。属するところが違えば、否応無しに違いがはっきりするものです。それが本質から来るのか、建前だけなのかもです。これは取り繕ったりしても、すぐに露呈します。ですから、そのような取り繕いで済ませようとしないことです。私には、サタンが光の天使を装ってもその闇が見えます。装いは、装いに過ぎないからです。装いを見抜けないのは、心と目が塞がれており、その幻を事実として信じるからです。しかし、真のクリスチャンの言動は、神に栄光を帰すのです。決して、自分自身のためではありません。そして、それは隣人に対しても善い影響を与えるためでもあります。
新約聖書 マタイによる福音書 5章16節
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
主イエスは上記のように仰いました。闇の支配下に置かれたこの世で、光となるのは、太陽でもなく、月の明かりでもなく、LEDランプでもなければ、ロウソクでも花火でもありません。真のクリスチャンが世の光となるのです。世俗化に飲まれない真のクリスチャン自身が光となり、周囲を照らし、その光の源である主イエス・キリストへと導くためです。そのためには、反キリストがするような闇の行い、衣を捨て去らなければなりません。そのような状態から脱却できなければ、光を照らすことはできないからです。ただ、主イエス・キリストのために生き、義を求め、飽くなき心で善を行い、神に栄光を帰す生き方をしなさい。
私は一人でも多くの人が救われることを願っています。
以上