こんにちは。
今まで真のクリスチャンとしてどうあるべきかと色々と語ってきましたが、逆にそうでない者たちはどういう様子か、彼らは自分たちを客観視できていないと思いますので、私が彼らを客観視できるように述べてみようと思います。
不信仰の者たちは、人が生きている間、この世がすべてだと信じて疑わず、学歴をつけて、人から尊敬されたり羨ましがられる職について地位や名誉を得て、できるだけ多くの金を稼ぎ、大きな家に住み、好きな物を買って手に入れて、好きな物を食べて、飲んで、好きな事を好きな時に好きなだけできるような生活をすることが幸せだと思って、これらを目標にして生きているのが大半です。それらの夢が叶わなかった者は、必死に日々生活のためだけを考えて仕事をして、休みの日には趣味や賭け事、みだらな行い等に興じていることでしょう。
このような生き方をするのは、主イエスを信じない者のみならず、にわかクリスチャンやにわか異教徒でも同様のことです。異教徒を称賛する意味でも認める意味でもありませんが、にわか異教徒ではない熱心な異教徒というのも、おそらく彼らの戒律に従って少なからず自由奔放という訳にはいかないはずだからです。例えば、イスラム教徒は、豚肉を絶対に食べなかったり、飲酒もしないし、イスラム教徒の女性は、夏の暑苦しい時でも肌の露出を極力無くすためにベールを被ったりという具合です。
異教徒であってもそれぞれの神々を熱心に拝んでいるかと思えば、にわかクリスチャンのように、それ程熱心ではない者がいるはずです。日本人に分かり易いように日本をたとえにします。
例えば、多くの日本人は、無宗教という建前で、年末に寺で鐘を突いたり、年始に神社に参拝し、葬式では坊主を呼んで読経させて彼らの慣習に従って宗教的行為をし、家には仏壇を設置し、定期的に墓参りをし、結婚式は神道式や教会でしたり、観光をかねて寺に行っては仏像に手を合わせたり、神社では賽銭を捧げて祈るという具合でしょうか。これがいかに滅茶苦茶な行いか分かりますか。分かっていないのは当事者だけです。私からすれば、どれも主イエスに対して畏れ多い行為です。
そもそも、本当に無宗教ならば、神社にも寺にも行かないし、関わりを持たないはずなのですが、彼らは都合よく自分たちの利益のみを考えて、無宗教という立場をいとも簡単に破って、神社や寺に行って拝んでいます。そして、その行為を何とも思わず、ごく自然かのように考えています。無知ほど怖いものはありません。
このような日本人ほど、キリストなんて日本人に関係ない、キリスト教は悪魔教だとか、過去に戦争や侵略行為等で多く人を殺してきたとか、今の世の中が悪いのはアメリカやヨーロッパの西洋諸国の宗教のキリスト教のせいだと悪口を言っています。無知な人々は、本当に怖いもの知らずです。後に、彼らは各自の所業に見合った罰を受けるとも知らずに。
上記のように言う彼らに問い返したいのが、日本人は、人を殺してこなかったというのかということです。歴史上、日本人は何をしてきたか勉強しませんでしたか。日本国内や国外でも散々殺し合いの戦いを繰り返してきたではないですか。大部分は割愛して代表的な例を少しだけ挙げると、蘇我氏と物部氏の争い、藤原氏の戦い、蝦夷征討、源平の戦い、室町南北朝の戦い、応仁の乱、戦国時代、安土桃山時代、秀吉による朝鮮や明への出兵で海外侵略、関ヶ原の戦い、大坂の陣、江戸時代になって合戦は減っても農民一揆は多発、黒船来航以降に欧州と戦い始め、戊辰戦争等を経て明治時代に入っても西南戦争等内乱が続き、日清戦争、日露戦争、満州事変、太平洋戦争を経てようやく平和になりましたが、学校や職場のいじめで自殺に追いやったり、過酷な労働による過労死等の歴史の表に出ない問題は絶えません。仏教や神道、天皇を信じたり、無宗教や異教徒でいることが平和ではないことを日本人自身が証明しています。それらの事実を棚に上げて、よくもキリスト教を虐げることができたものです。
過去記事で既に申しましたが、十字軍をはじめとする宗教戦争は、カトリックの仕業であって、キリスト教とは無縁です。過去に説明したとおり、カトリックはキリスト教のフリをしていますが、実際は異教なのです。今後もそうでしょうが、現在までに起こったやらせテロというのもイエズス会等の裏の権力者組織の差し金であって、聖書やキリスト教とは一切関係ないものです。本当に聖書を信じて、その教えどおりに生きるのであれば、人殺しなんてしません。主イエス・キリストが地上に来られ、どのような罪を犯したというのですか。また、主イエスの昇天後、伝道活動に従事した十二使徒が殺人、窃盗等の悪行をいつ働いたというのでしょうか。そうしたというならば、その証拠を持ってきてから、キリスト教と聖書を非難してもらいたいです。逆に、彼らは主イエスの名のために不信仰の者によって殺されたのです。事実を知ってか知らずか、証拠も無いのに、キリスト教が悪とはどの口が言うのでしょうか。キリスト教を非難する人は、生涯で一度も罪を犯したことの無い完璧な人間だと胸を張って言えるのでしょうか。勿論、人間の法律上の罪を意味しません。もし、罪を犯したことが一度も無いと言うならば、その時点で嘘をつくことになることは明白です。ヨハネ8:1~11の姦通の女の話のようです。罪を犯し、かつ、悔い改めもしない者たちが偉そうに他人を裁く権利など無いのです。厚顔無恥な日本人よりも、ファリサイ派のユダヤ人の方が余程正直と言えます。
そもそもなのですが、キリスト教は、西洋のものではありません。そこからして、不信仰の者たちは無知をさらけ出しています。ナザレのイエスは、西洋人ですか。ナザレはどこにあるか分かっていますか。西洋に知れ渡ったのは、十二使徒の一人であるペトロとパウロの伝道のお陰です。
主イエスの誕生について聖書に何と書いていますか。聖霊によってお生まれになったのであり(マタイ1:18)、人間と血縁関係にありません。そして、当時、周囲の一般の人々は、その事実を知りませんでしたから、ヨセフとマリアの間に生まれた普通の人間の子と思い、メシアと認めず、彼らと何ら変わりないただのユダヤ人と思われていました。十字架刑になったときも、ユダヤ人の王と書かれました。それにも拘らず、昔から人々は主イエスの御顔を知らないのに想像だけで勝手に西洋人風に絵を書いたり、CG等で予想したりしています。また、カトリックで顕著なように、金属や木で偶像を作り、ただの人間に過ぎないマリアを引き立たて崇め、主イエスを無力の象徴として幼児の状態にして侮辱している人もいます。
本当に、この世の人々の不信仰ぶりには落胆させられます。
過去に申したとおり、聖書は生きるための指針であり、宗教というものではありません。キリスト教と私が言うのは、あなたがたに合わせて分かり易いように言っているだけであって、本来言う必要の無いことですし、存在しない言葉です。便宜上使っているに過ぎません。また、聖書と主イエス・キリストの教えのことを宗教と区分するのはあなたがたの勝手な思い込みに過ぎないのです。無神論者であることを正常者、何かの教えにすがったり、従うのはおかしいと言うのはサタンに惑わされた結果であることを彼ら自身は認識していません。これは、過去に神から引き寄せがあっても拒絶し、救いの恩恵期間が終了して見放されているように思えます。このような者たちは、死後の世界に希望を見出せないので、この世に執着します。なぜなら、この世の後には惨めな末路が待っているからです。若しくは、異教の教えである輪廻転生などという嘘を真に受けて淡い期待を持っているかもしれません。
サタンの一番の目的は、神が愛する人間を主イエス・キリストから引き離して滅びに導くことです。これ以外に何もありません。主なる神は、裏切った天使たちを赦さず、天から追放して地に落とされました。落とされた堕天使たちは、サタン、悪霊となって神が寵愛する人間を神から引き離すために、あらゆる手の誘惑や奇跡を含む惑わしをして主イエスを信じさせなかったり、神の掟を守らせないようにしたり、罪を犯させて神の怒りを買わせて喜んでいるのです。サタンの神に対する復讐をあなたがたが知らずに加担させられているということを知るべきです。
これは、不信仰の者たちに限らず、にわかクリスチャンも同様です。主イエスを信じている気持ちでいるかもしれませんが、心の底から信じて従っているとは限りません。現在、世界で約20億人近くいると言われているクリスチャンたちは、彼ら自身は自らをにわかクリスチャンとは思っていないでしょうし、そうであっても認めようとしないように思えます。間違った信仰をしていても間違いに気付かないし、間違っていることを真実と疑ってもいないことでしょう。だから、私がその誤りを丁寧に指摘しているにも拘らず、彼らの態度と信仰は一向に改まることがありません。まさに、神に心を頑なにされている状態です。そして、キリストの再臨時にお呼びでなかったことが分かり、絶望することでしょう。
何度も言っていますが、聖書を読んで知識を持ったからクリスチャンでもなく、讃美歌を歌うからクリスチャンでもなく、洗礼を受けただけでクリスチャンでもなく、教会に行くからクリスチャンでもなく、牧師等の聖職者というだけでクリスチャンという訳でもないのです。これらのほとんどは外形的なクリスチャン、即ち、にわかクリスチャンの域を出ないのがほとんどです。特に、ローマ教皇を教祖とするカトリック信者は、カトリック信者なのであって、クリスチャンではありません。偽預言者RAPTを教祖とするRAPT教の信者もRAPT信者であって、クリスチャンではありません。彼ら自身がクリスチャンと自称し、無知な人たちは彼らも真のクリスチャンと同類に括りますが、大きな間違いです。真のクリスチャンになりたければ、聖書のみを絶対的権威と信じ、聖書の真理に基づいて主イエス・キリストを信じて従い、正しい信仰の下で生きなければなりません。そのためにも、カトリック、カトリックの影響があるプロテスタント、カルト宗教(エホバの証人、モルモン教、統一教会、摂理、RAPT教等)、聖書の真理を語らない偽教師、偽預言者、牧師から離れるべきです。
私がこのように言うのは、上から目線、高慢だからではありません。ただ事実と真理を述べているに過ぎません。私が言っていることに間違いがあれば、どこがどのように違っているのか明確に反証してもらいたいです。以前楯突いて来た者のように、私のことが気に入らないという肉の思いに支配されている者は、例外なく不信仰の「外部の人」か、にわかクリスチャンです。そのように反抗するのは、心をサタンに支配されており、核心を突かれて隠れた反抗心が表に出たのです。素直な人は自分を客観視して誤りに気付いて間違いをすぐに改めようとしますが、ひねくれ者や不信心な者は精神が腐り、自分こそが正しいと思って高慢になり、彼らが聞き慣れない耳の痛い正論を憎むのです。彼らが私を憎んでいるのは、実のところ、主イエスをも憎んでいるのです。聖書のとおりです。
新約聖書 ヨハネによる福音書 15章18~21節
迫害の予告
「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えておきなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉も守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。」
複数の過去記事で散々述べましたが、世に属する人間は、聖書の真理を嫌いますし、私に反感を持ち、私が言うことを聞こうともしません。過去記事で述べたように、主イエスの十二使徒、パウロ、過去の預言者たちも同じような目に遭っていました。正当な理由もなく、人々の耳の痛い話をすると煙たがられ、嫌われ、誹謗中傷等、迫害を受けるようになります。そして、彼らのことを聖書は見事に言い当てています。
新約聖書 テモテへの手紙二 4章2~4節
御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。
私は、聖書の御言葉、真理を宣べ伝えています。世間の人々が俗世界を楽しんでいる一方、私は同じようにせず、あなたがたに聖書の真理を知らせるとともに、兄弟たちが惑わされないように、間違った教えをする者たちを聖書の真理をもって弾劾しています。そして、少数の兄弟たちが私の説明を心待ちにし、励まされてもいることを知っています。
他方、自分たちが正しいと信じて疑わないにわかクリスチャンたちは、好き勝手に聖書を部分的に信じ、耳触りの良い話を偽教師や偽預言者等から聞いては自分たちこそが義人とか、正しいと思い込んでいます。
新約聖書 テモテへの手紙一 6章2~5節
大きな利得
わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです。
私のことを傲慢、上から目線などと好き勝手に陰で言うのは構いませんが、あなた方は自らの行為がどういうことかまるで分かっていないです。私がこのように言うのは、偽預言者RAPTのように幼稚な精神で否定されたから怒っているのではなく、批判する者たちのためにならないから諭しているのです。即ち、敵を愛する精神から来るものです。その意図が分からない者たちは、肉の思いだけで私を非難するのです。
もっとも、私は評論される筋合いも理由もありません。評論という程くだらないことはありません。他人と議論して、私のことをどう思うとかあれこれ言い合う意味はまったくありません。評論して何になるというのでしょうか。ただ、各個人の信仰と照らして判断すればよいだけです。もし、どうしても相容れないと思うならば、黙って去り、二度と当ブログを見に来なければよいだけではありませんか。それにも拘らず、歪んだ主観に過ぎない無価値な文句をコメントで言ってきたり、あれこれ邪推して他人と相談や議論をしたところで、あなたがたにとって害になることはあっても益になることは一切ありません。
不信仰の者やにわかクリスチャンたちは、自分たちにとって耳触りの良い話を聞きたいだけ、この俗世界で形成された主観的な肉の思いに基づく誤った理想の形を求めているだけで、聖書の真理を愛していませんし、無意味な議論に病みつきになっており、ねたみ、中傷、論争等を繰り返し、聖書の真理から遠い状態であることを忘れています。そのような者たちは悔い改めることができないならば、今後どうなるか悟るべきです。過去記事「義を求めて」で述べたとおり、神はあなた方の悪口だけでなく、無駄口もすべて責任を問われます。それぞれの行いに応じて主イエスは報いてくださります(黙示録22:12参照)。真理に背いて、真理を語る者を理由なく、肉の思いで誹謗中傷、評論の的にしたところで何がしたいのでしょうか。ただ、悪の行いに手を染めているだけということに早く気が付いて欲しいものです。
新約聖書 マタイによる福音書 12章34~37節
木とその実
「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」
不信仰の者たち、間違った信仰の下にいて悔い改めないにわかクリスチャンたちは、上記の御言葉をよく思い知ることになるでしょう。
賢明なる兄弟たちにおかれましては、上述した内容に当てはまるようなことをしていない、したとしても悔い改めていると信じています。
また、当記事だけでなく、今まで私が述べてきたことをよく理解し、聖書もきちんと読んで、正しい信仰を持ち、または持とうと努力していることと思います。
決して、悪の行いに加わったり、背後にサタンや悪霊がいる者たちの言うことに心を動かされたり、真理の道から逸れて行くことがないように願っています。
まだ聖書を複数回通読したことがなくても、あらゆる惑わしから逃れて私のところにたどり着いて、聖書によって私の言うことの真実性に気付き、信じた人たちは幸いです。その人たちは、少しばかり聖書を読んで表面的な知識だけを身につけて歪んだ信仰を持ったにわかクリスチャンとは心の清さは段違いです。聖書をまだすべて読んでいないがために知識は劣るとしても、信仰に対する心持ちが違うからです。聖書を読めば確実に知識は後からついてきますが、心の清さは知識でどうにかなるものではないのです。
過去に偽教師や偽預言者等に騙されたり、真理の道を逸れたとしても悔い改めれば関係ありません。あなたがたはその弱さを汚点や弱点と考えるのではなく、誇りなさい。人は弱い存在であることを認め、主イエスにすがることで、強くなります。普段から自分は大丈夫と思い込んで都合の悪い時だけ神頼りする高慢で狡猾なにわかクリスチャンたちよりも、あなたがたは恵まれています。清く純粋な心で主イエスのみを救い主(キリスト)と信じ、聖書を通して信仰を深めてください。
私は一人でも多くの人が救われることを願っています。
以上