『日本国紀』読書ノート(184) | こはにわ歴史堂のブログ

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184】ポツダム宣言と日本の降伏について誤解している。

 

ポツダム宣言は「日本『軍』に無条件降伏を迫る文書であった。」と説明されています。続けて、

 

「『ポツダム宣言』の第十三項には、『我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し』とあり、無条件降伏の対象はあくまで『日本軍』であって、日本国となっていない。したがって『ポツダム宣言』受諾は『有条件降伏である』と捉えるべきであろう。」(P409)

 

あたかも「軍」が降伏したのであって「日本」は降伏していないかにのよう説明ですが、誤りです。

インターネット上にはこのような言説が記されていますが、「ポツダム宣言」受諾に至る経緯、またその後の外交、政府の見解をご存知無いだけでしょう。

じつはこの話は、ポツダム宣言が出されてからすでに「解決」している話で、今ごろこのような話が出てくるのは正直驚いています。

まず、「無条件降伏」というのは、降伏した側が条件を付けない、という意味です。

日本は「国体護持を条件に受け入れる」ことを議論しましたから、この点を指摘して「有条件を要求した」と言えますが、連合軍側の回答は、

 

「降伏の瞬間から天皇及び日本政府の国を統治する権限は連合国最高司令官に従属“subject to”するものとする。」

「日本の究極の政治形態は、ポツダム宣言に従い、日本国民が自由に表明した意思に従い決定されるべきである。」

 

というものでした(バーンズ国務長官の回答文)

これ、日本の要求に応えていないようにも見えますが、前者を読めば、占領下でも天皇が残ることがわかりますし、後者を読めば、国民がのぞめば天皇制が存続することがわかります。

これに対して、軍部は“subject to”を「隷属する」と訳して抵抗し、外交部は「管理下に置かれる」と訳して反論しています。結局、8月14日に再び御前会議が開かれますが天皇が、「敵は国体を認めると思う。之に付いては不安は毛頭ない」と冷静で的確な判断を示されています。

連合国側の「外交的示唆」、メッセージをちゃんとくみ取っておられていて、この点、軍部の頑迷な主張とは一線を画していたことがわかります。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12449390632.html

 

9月2日、戦艦ミズーリ上で調印された降伏文書は無条件降伏を布告しつつ、「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施するため、適当と認める措置をとる連合国最高司令官に従属するものとする」と明記されています。

 

その後も、無条件降伏は軍だけでなく日本国の降伏であったことは何度も確認されています。

 

19491126日衆議院予算委員会での吉田首相の答弁です。

 

「…この間もよく申したのでありますが、日本国は無条件降伏をしたのである。そしてポツダム宣言その他は米国政府としては無条件降伏をした日本がヤルタ協定あるいはポツダム宣言といいますか、それらに基いて権利を主張することは認められない、こう思つております。繰返して申しますが、日本としては権利として主張することはできないと思います。」

 

1950年2月6日衆議院予算委員会での吉田首相の答弁でも、

 

「お答えいたしますが、先ほども申した通り、今日日本はまだ独立を回復せず、かたがた独立して外交交渉に当たる地位にありませんから、従って、今お話のようなポツダム宣言に違反した条項があるその場合に、政府としては権利として交渉することはできません。」

 

また、19511024日平和条約及び日米安全保障条約特別委員会での西村熊雄条約局長の答弁でも

 

「日本は連合国がポツダム宣言という形で提示いたしました戦争終結の条件を無条件で受けて終戦いたしたのであります。無条件降伏というのは、戦勝国が提示した条件に何ら条件をつけずに降伏したという意味であります。」

 

1953年4月8日、最高裁判所でも判決が出ています。

 

「…昭和二〇年勅令第五四二号は、わが国の無条件降伏に伴う連合国の占領管理に基いて制定されたものである。世人周知のごとく、わが国はポツダム宣言を受諾し、降伏文書に調印して、連合国に無条件降伏をした。その結果連合国軍最高司令官は、降伏条件を実施するため適当と認める措置をとる権限を有し、この限りにおいてわが国の統治の権限は連合国軍最高司令官の制限の下に置かれることになつた。」

 

さて、敗戦直後の様子がP408~P410にかてけ説明されています。

 

「日本はこの戦争で甚大な犠牲を払った。約七千三百万の人口のうち約三百十何人の尊い命が失われた(内訳は民間人が約八十万人、兵士が約二百三十万人である。)また南樺太、台湾、朝鮮半島の領土を失い、満州、中国、東南アジアにおける、公民含めたすべての資産・施設は没収された。」(P409)

 

一方的な日本の「被害」が説明されていますが、逆はどうだったのでしょう。日本軍によって失われた「尊い命」や、日本が接収した資産・施設はどれほどだったのでしょうか。

「大東亜戦争」という名称を使用する以上、日本がこれらの与えた被害について言及が無いことは一面的です。

 

「全国で二百以上の都市が空襲に遭い、東京、大阪、名古屋、福岡、札幌をはじめとする主要都市は軒並み焼き尽くされ、多くの公共施設、それに民間の会社、工場、ビルなどが焼失した、」(P409)

 

とありますが、以前に説明したように、「札幌」は幸い、被害はありましたが焼き尽くされてはいません。ここは神戸、川崎などを揚げてほしかったところです。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12448562098.html

 

「民家も約二百二十三万戸が焼かれ、夥しい人が家を失った、政府も自治体も一戸の仮設住宅さえ作ることができず、焼け出された人々はトタンや焼け残った木材で雨露をしのぐバラックを建てて生活した。」(P409P410)

 

驚くべきは、このような状況にあったにもかかわらず、終戦直前まで軍部は本土決戦を要求し、さらに政府と軍部は「国体護持」を主張して昭和天皇に「御聖断」を二度もおこなわせたことです。

 

「日本という国の二千年余の歴史の中でも、未曾有の大敗北であった。しかも外国の軍隊に国土を占領され、主権も外交権も奪われるという屈辱そのものだった。」(P408)

 

と説明されていますが、このことを日本にもたらした政府や軍部に関しては言及がありません。また、日本が軍隊を派遣して東南アジア諸国を占領し、軍政をしいて主権・外交権を奪った、ということも忘れてはならない視点です。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12447389146.html

 

その点、「戦争と敗戦が日本人に与えた悲しみと苦しみは計り知れない」と説明するならば、「大東亜戦争がアジアに与えた悲しみと苦しみも計り知れない」と説明したほうが適切だったかもしれません。