江戸時代にも「都構想」がありました。
佐藤信淵という人物がいます。
「経世家」とよばれる人で、経世家は「経世済民」を実現する諸論を立てる学者です。
19世紀前半の学者で、ペリー来航の前にはお亡くなりになっています。
教科書では海保青陵、本多利明、そして佐藤信淵の三人が紹介されています。
著作としては『農政本論』『経済要録』などがありますが、弟子に口述したものがまとめられた『垂統秘録』はなかなかおもしろく、現在に通じる省庁のようなものを作る政治体制を説いています。
融通府と製造府は経済産業省、本事府と開物府は農林水産省… といった具合です。
強力な国家統制経済を説くものでしたが、幕末・明治の政治家にも影響を与えているようです。
よく冗談で、「日本の首都はあくまで京都。東京都は『東・京都』と読むべきだ。」な~んて話をします(ラジオ番組でもこの話をしたと思ったのですがオンエアでは編集されていたかもしれません)が、江戸時代は政治をおこなう「首都機能」は江戸に集中していました。
佐藤信淵は『宇内混同秘策』という書も著しているのですが、その中で、江戸を首都として「東京」、大坂を「西京」にする、という構想を描いています。
地方にも役所を移転し、さらには地方大学の設置も提唱しています。まさに首都機能の分散…
そして現在。
大阪府も「大阪都」としよう、という構想が大阪では話題となって市長・府知事選挙がおこなわれました。
東京一極集中、という現在、その機能の分散も進んでいます。
はるか170年前の江戸時代にも、「首都機能分散」が考えられていたことはなかなか興味深いですね。
「東京」という名称は、明治時代に安易に考えられた名前ではありません。このことは『日本国紀・読書ノート』でもお話しさせてもらいました。
https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12438819880.html
「東京」という名称は、江戸時代にいろんな思想が込められた言葉です。