【185】GHQによる「間接統治」の意味を誤解している。
「日本はこの敗戦によって、立ち直れないほどの大きなダメージを蒙った。もはや世界五大国の面影は跡形もなかった。その上アメリカ政府は、日本の基礎工業の七五パーセントを撤去、電力生産の五〇パーセントを除去という過酷な政策を取ろうとしていた。日本と日本国民の未来は暗澹たるものだった。」(P410)
と説明されていますが、これだけだと言葉足らずで、アメリカの占領政策を誤解されてしまいます。
「日本の基礎工業の七五パーセントを撤去」と説明されていますが、これは軍需工業及びその下請け関連企業の解体が多くを占めています。当初は、賠償のために必要最低限の生産ができる程度に日本の工業生産を抑えることも考えられていましたが、日本の経済復興に力点を置く政策(経済安定九原則)に転換されました。
「電力生産の五〇パーセントを除去」という説明も一面的です。
そもそも、1936年以降、軍部は経済のさまざまな分野、とくに電力や重工業分野を国家統制下に置く計画を進めていました。1937年、日中戦争がはじまると、国家総動員体制が提唱され、1938年には国家総動員法が成立します。
そして電力も国家体制下に置かれ、日本全国の電力会社の出資、現物提供、合併によって特殊会社「日本発送電」が設立されました。経営に関する最高意思決定は内閣が行う、事実上の国営会社といえました。
戦後、あたりまえですが、日本は著しい電力不足になります。戦時中は、電気も国家統制下にあったので、国民は節電などを強制され、送電もコントロールされましたが戦後、「経済の民主化」のもと、財閥同様、日本発送電も解体されました。
これを「五〇パーセントを除去」と説明されているわけで、もちろん、「除去」された後に「再編」されているので、基礎工業にせよ、電力生産にせよ、「未来は暗澹たるもの」ではけっしてありません。
この説明では、GHQの経済政策に誤った印象を与えてしまいます。
「GHQの最大目的は、日本を二度とアメリカに歯向かえない国に改造することだった。」(P410)
とありますが、不正確な説明です。GHQの目的に「アメリカに歯向かえない国にする」という項目はありません。
史料的にはこのような説明はできません。
「降伏後に於ける米国の初期対日方針」にはこう明記されています。
「日本が再び世界の平和及び安全に対する脅威とならないためのできるだけ大きい保証を与え、又、日本が終局的には国際社会に責任あり且つ平和的な一員として参加することを日本に許すような諸条件を育成する。」
これを読めば、占領から独立まで、概ねこの方針で諸改革が進み、独立後、1956年の国際連合加盟が実現している流れと合致していることがわかります。。
以上のように、占領目的は、「日本の非軍事化」と「民主化」の二つが大きな柱です。
連合国軍の進駐受け入れ、日本軍の速やかな武装解除は、連合国軍が驚くほどスムーズに進み、降伏文書調印が円滑に実現しました。
治安維持法、特別高等警察、という戦前の抑圧的諸法・諸制度を撤廃し、政治犯を釈放することが指示されます。これらは「アメリカに歯向かう力」とは無関係で、「日本国民を抑圧していた制度」の廃止でしかありません。
東久邇宮内閣は、これを実行不能として総辞職し、かわって幣原喜重郎内閣が成立するのです。
教科書で「アメリカや東アジア地域にとって日本が再び脅威となるのを防ぐ」と説明されている(『詳説日本史B』山川出版・P371)のは、根拠の無いことではなく、史料に基づいて説明しようとしていることの反映です。
「占領政策は狡猾で、表向きはGHQの指令・勧告によって日本政府が政治を行なう間接統治の形式をとったが、重要な事項に関する権限はほとんど与えなかった。」(P410)
と説明され、「狡猾な」あるいは「権限はほとんど与えなかった」と、強圧的・専制的なGHQのイメージを強調されています。
当時の国際的な状況をご存知ならばこのような表現はありえませんし、「狡猾な」の意味合いも、日本に対してではなく、冷戦で対立するソ連に対してのことであったことがわかります。
そもそも、ドイツは軍政下に置かれ、いわゆる直接統治的な「支配」を受けたのに、日本はどうして間接統治だったのでしょうか。
日本は間接統治によって分割占領を免れた、という前提を忘れてはいけません。
日本は連合国で構成される極東委員会によって作成される政策に基づき、連合国軍最高司令官が管理します。この委員会は、アメリカ・ソ連・イギリス・オランダ・フランス・カナダ・中国・フィリピン・インド・ビルマ・パキスタン・オーストラリア・ニュージーランドなどで構成されていました。しかし、政策決定はアメリカが握っていました。
大戦末期、日本に宣戦して千島・樺太を占領したソ連は、当然日本の占領にも参加しようとしましたが、もし、軍政下に置かれると、ドイツ同様、分割占領の可能性が高くなります。
アメリカは、それを回避するために、アメリカ単独の軍政ではなく、間接統治という形式をとり、それを運営する極東委員会にソ連を参加させて他国と並列させ、その発言権を弱める方式をとったのです。
その見返りとして、アメリカは、ソ連のバルカン・東ヨーロッパの管理における優越権をみとめ、アメリカはソ連にアメリカは日本が管理する優越権をみとめさせたのです。
「狡猾な」というのはこのことであって、日本はこれによって東半分の赤化(社会主義国化)を免れたと言っても過言ではありません。
ドイツの軍政下、日本の間接統治、には当時の国際関係(冷戦)と深い関わりがあったことを忘れてはいけません。
「重要な事項に関する権限はほとんど与えなかった。」と説明されていますが、実際は、日本がポツダム宣言を受諾したにも関わらず、それに「反する抵抗」を示したときに具体的に「権限が与え」られなくなっただけです。ですから「ポツダム宣言に反する項目に関する権限はほとんど与えなかった」というのが正確で、それ以外のことに関しては、GHQは意外にも寛容でした。GHQを皇居内や東京大学内に設置することに日本政府が反対すると、これを受け入れ、堀端の第一生命ビルを選定していますし、占領政策用に接収した公共施設などは、地元の市議会の要望・反対で撤回している例もみられます。
例えば、大阪市中央公会堂集会室は、市議会の反対を受け入れて接収を撤回しました。
『戦後変革<日本の歴史31>』(大江志乃夫・小学館)
『戦後秘史』(大森実・講談社文庫)
『日本占領の研究』(C・F・サムス 竹前栄治訳編・東京大学出版会)
『占領と戦後政策』(「シリーズ昭和史№9」竹前栄治・岩波ブックレット)