経済学史の新古典派総論のページはたいへんよくまとまっていて分かりやすい。では検討してみよう。
新古典派には以下の特徴があるとされる。
1.方法論的個人主義
2.最適化仮説
3.均衡概念
4.市場主義
1に関して、問題視する点はないであろう。人体を考える時に細胞の機能を考慮するように、それは有効な方法だろう。しかし、細胞単位で考えるのではなく、臓器単位で考えたり、様々なアプローチもあってよいはずである。方法論的個人主義は、個人の機能に着目する手法が発展していったということで、思想とか主義とかとは違うようにも思える。いろいろな角度から検討することは、あまりにも当然のことであろう。
ただし、あまり上手くない使われ方がなかったわけでもない。個人をあまりにもスーパーマンに設定するといったものもあるし、例えば個人の意志による貯蓄率の向上が全体としては成り立たないといったことに気付かずに、単純に同じということにしてしまうといったこともあった。
2に関しては以前書いたことがあるように、好意的に考えている。もちろん収穫逓減の法則に則り、限界収益がゼロになるまで生産するというモデルは、全く馬鹿げたものだ。正しいのは、利益を最大にしようという行動を取るだろうという点であって、その行動がどんなものかということについては間違った判断が多々見られる。
3は、ずっと書いてきているように、これこそが経済学が誤った方向に進んだ元凶である。確かに経済において均衡に向かおうとする力は存在する。しかしそれによって均衡が達成されると考えるのは、全く軽率だろう。自然界にはネガティブフィードバックで調節するシステムは山ほどあるが、それで適正値で安定することなどほとんどなく、多くの場合多少調整されるということにすぎない。均衡しないことを理解するには、均衡するまでの時間を考えるといい。世界にモノが一つしかないと仮定しても、均衡に達するためには、それなりの時間を必要とする。これが2つになるだけで、必要な時間は飛躍的に増加するはずだ。星の数ほどモノが存在する現実なら、永遠に近い時間が必要なことも分かるだろう。
均衡した状態、もしくは最適化した状態を、目指すべき状況を知るためということと理解して考えることは無駄ではないだろう。しかし主流派経済学で多くおこなわれていることは、自然に均衡することを最初の前提として考えていたり、数式を並べていくうちに均衡を前提とした式が紛れ込むことに無頓着な作業だったりする。
4の市場機能を肯定する考えは、現実に符合するものと考える。もちろん、勝手に均衡するということではない。迷走している経済学中でも、何故市場が最適化しないのか、最適化するためには何が必要かといったことに関する研究は、よいものがたくさんある。市場機能を改善する方策は、現実に確かに成果をあげていたとも思われる。残念なことは、市場機能を正しく働かせるための独禁法などが、市場が自然に最適化するという信仰のために蔑ろにされていることであろう。不正な暴利を貪ろうとする人間は、市場の失敗を利用しようとするが、彼らの思う壺だ。
この件に関してはもう一つ重要な問題がある。それは市場という言葉の誤った流用である。ここで善なるものとして追求すべき市場というのは、あくまでモノを売買する時に働く機能のことを指しているのであり、先物市場や為替市場、株式市場等の機関を指しているのではない。この勘違いは、ほとんど意味を持たないマクロ的な株価の上昇をありがたがらせたりするだけでなく、規制の対象にすべき市場にも規制を入れず世界経済に直接的な悪影響も与えている。