本の最大の問題の一つは、政治が機能しないことである。 


下らないことで、問責決議を行い、増税に対して反対のポーズをとることが、国民受けをすると思っている。 米欧が経済危機に陥り、中国バブルが破裂する寸前の今、こんなに追い詰められている日本の政治が機能不全というのは、絶望的な気持ちにならざるを得ない。


民主党の議員のほとんどは、次の選挙でどうせ落選するのだ。 ここは一つ国のために働くのが筋というものだ。 つまり国民に不人気な増税を行い(とても10%では足りない)、社会保障の削減を断行して、財政を安定させ、グローバル化する世界に向かって国を開き、円高が続くうちに海外に進出しなくては、国が衰退する。


すでに衰退国家になりつつある日本を何とかしようという、志のある政治家が出てこないというのは、一体どうしたことだろう。 一体、こういった泥仕合を延々と続けて、どのような展望が開けるというのか。 自民党も野田首相を追いつめるのは結構だが、一体、どんな政策を主張しているのか? 全く見えない。 


増税に反対するというのなら、政権をとっても増税に反対するというのだろうか? まさかそういうことはできまい。 下らない建前論で増税に反対するというのは、今この危機を前にしてやるべきことではあるまい。 


そうしている中にも、日本国債はいつ暴落するか、分からない。 最近の週刊誌では、日本国債が暴落するという見通しを扱ったものが多数ある。 実際に暴落すれば、一部の人たちが待望するインフレが起こる。 これがどういう意味を持つのか、分かってからでは遅いのだ。


今こそ、増税に道筋を付けなければ、本当にこの国は終わってしまう。

最近、大学生を観察していると、何とも言えない無力感が漂っていることに気付く。 就職は厳しい。 かといって、自分で何かをしようにもどうしたらいいのか分からないというように見える。


皆、スマートフォンを持ち、パソコンで動画を見、牛丼やマックで食事をとり、ユニクロなど安い費用でおしゃれをする。 でも何だか詰まらない。 皆同じなのだ。 全然個性がない。


文明の利器、市場原理は人々の生活を幸せにしたのか? と考えると憂鬱になる。 コンビニやマック、牛丼屋しかない街になれば、安く食事できてよいかもしれないが、どうも味気ない。 インターネットや情報機器の進歩で、ものすごい量の情報が瞬時に手に入るが、大学生はそれを未整理なまま受け入れているだけだ。 自分のものになっていない。  ユーロの財政危機を聞いても、「ギリシアやイタリアが大変なんでしょう」といった表面的な答えしか返ってこない。 なぜ危機が起きるのか? といったことまで頭が回らないのだ。


皆、文明の利器や市場原理で半ば強制的に生活を変えられている。 現在の就職難だってグローバル化のせいとも言える。  しかし、グローバル化に反対したり、スマートフォンを捨てて公衆電話で用を済ますというのは、無理な話だ。 


皆、iPadを持っていて、何千冊もの本を入れることができるが、それをちゃんと読んでいるかというと、そんなことはない。 入れただけで満足しているだけだ。 ここが二宮金次郎との大きな違いだ。 


現実はどうかというと、我々の文化はどんどんチープになって行き、我々はどんどん馬鹿になっているのではないか? そう思う瞬間がある。  


こういった社会を一皮めくると、とんでもない精神の荒廃があるようで恐ろしい。

内田樹さんは、教育者として尊敬している。 その内田さんがそのブログの中でグローバリズムを批判している。 http://blog.tatsuru.com/


「柳井のグローバル人材定義はこうだ。

「私の定義は簡単です。日本でやっている仕事が、世界中どこでもできる人。少子化で日本は市場としての魅力が薄れ、企業は世界で競争しないと成長できなくなった。必要なのは、その国の文化や思考を理解して、相手と本音で話せる力です。」


ビジネス言語は世界中どこでも英語である。「これからのビジネスで英語が話せないのは、車を運転するのに免許がないのと一緒」。
だから、優秀だが英語だけは苦手という学生は「いらない」と断言する。

「そんなに甘くないよ。10年後の日本の立場を考えると国内でしか通用しない人材は生き残れない。(・・・)日本の学生もアジアの学生と競争しているのだと思わないと」


「3-5年で本部社員の半分は外国人にする。英語なしでは会議もできなくなる」
これは「就活する君へ」というシリーズの一部である。


私は読んで厭な気分になった。


たしかに一私企業の経営者として見るなら、この発言は整合的である。
激烈な国際競争を勝ち残るためには、生産性が高く、効率的で、タフで、世界中のどこに行っても「使える」人材が欲しい。


国籍は関係ない。社員の全員が外国人でも別に構わない。
生産拠点も商品開発もその方が効率がいいなら、海外に移転する。
この理屈は収益だけを考える一企業の経営者としては合理的な発言である。
だが、ここには「国民経済」という観点はほとんどそっくり抜け落ちている。
国民経済というのは、日本列島から出られない、日本語しか話せない、日本固有のローカルな文化の中でしか生きている気がしない圧倒的マジョリティを「どうやって食わせるか」というリアルな課題に愚直に答えることである。


端的には、この列島に生きる人たちの「完全雇用」をめざすことである。


老人も子供も、病人も健常者も、能力の高い人間も低い人間も、全員が「食える」ようなシステムを設計することである。


「世界中どこでも働き、生きていける日本人」という柳井氏の示す「グローバル人材」の条件が意味するのは、「雇用について、『こっち』に面倒をかけない人間になれ」ということである。
雇用について、行政や企業に支援を求めるような人間になるな、ということである。
そんな面倒な人間は「いらない」ということである。


そのような人間を雇用して、教育し、育ててゆく「コスト」はその分だけ企業の収益率を下げるからである。
ここには、国民国家の幼い同胞たちを育成し、支援し、雇用するのは、年長者の、とりわけ「成功した年長者」の義務だという国民経済の思想が欠落している。」


以上引用終わり

言っていることは理解できるし、そうできたら良いだろうとは思う。 でも、内田さんの話には、国際競争という視点が欠落している。 問題は、競争に敗れたら、日本全体が食えなくなるということだ。 


景気が悪いから景気を良くしろ、失業者がいるから完全雇用を目指せ、と言うのは簡単だ。 でも、どうやって、という視点がなければ、絵に描いた餅だ。  そのことは肝に銘じる必要がある。