①MMT(新貨幣理論)愚か者が落ちる落とし穴

 

 MMTを批判することは同志討ちのような印象があるかも知れませんが、同志討ちはどこの革命にも存在し、それなりの理由があることなので、気にしないで読んで戴きたいと思います。

 MMT(Modern Mometary Theory)は、新貨幣理論、新表券主義、現代金融理論とかいろいろな日本語に訳されています。

 MMTは、貨幣負債論「貨幣は政府の発行した借用証書である」と、租税貨幣論「貨幣の最終需要は納税であり、租税貨幣であることで初めて貨幣として流通する」という二つの命題を持っていて、それから、いろいろな政策が導かれると主張しています。

 ウィキペディアの「現代貨幣理論」で、『アルフレッド・ミッチェル・イネスは、1914年に書いたように、金銭の交換は媒体ではなく、繰り延べ支払いの基準として存在し、政府の資金は政府が税金で回収できる借金であると主張した。・・・クナップとチャートアリズムは、1930年のThe Treatise on Mondayのオープニングページでジョン・メイナード・ケインズによって参照され、経済における国家の役割に関するケインズの考えに影響を与えた。・・・アバ・ラーナーが1947年に「国家の生き物としての金」という記事を書いたとき、経済学者はお金の価値が金と密接に関連しているという考えを大部分放棄した。ラーナー氏は、インフレと不況を回避する責任は、資金を創出するか課税する能力があるため、州にあると主張した。とあります。

 現代の支持者として、ウォーレン・モスラー、L・ランダル・レイ、スティファニー・ケルトン、ビル・ミッチェルの名が挙げられています。

 しかし、私には、MMTそのものがアルフレッド・ミッチェル・イネスの勇み足であったと思われます。ケインズやラーナーに影響を与えたというのも、この記事の執筆者の勘違いでしょう。

 すなわち、アルフレッド・ミッチェル・イネスは、そのとき、金本位制と新古典派経済学の金属主義に反対するためには、「価値を記録した書面」を信じることで成立する貨幣論を展開すれば良かったわけで、「貨幣は政府の発行した借用証書である」と言う必要はなかったし、「貨幣の最終需要は納税であり、租税貨幣であることで初めて貨幣として流通する」と言う必要もなかったはずで、これらは認識論の一つの可能性として提案すれば事足り、固執する必要のない分野であったと思われるからです。

 そして、ケインズもラーナーも、貨幣負債論および租税貨幣論を採用していません。

 ケインズは、自分が編集長をやっていたエコノミー・マガジンの書評で、『しかしながら、単に債務であるにすぎなかったものが本来の貨幣になったときには、それはその性質を変えてしまっており、そしてもはや債務とみなされるべきではないのであって、その理由は、それ自身以外の他の何かあるものをもって支払いを強制されるということが、債務の基本的性質であるからである』と言っています。

 これは、本来の貨幣と本来のものではない貨幣の分岐を示唆し、本来の貨幣には負債性は無くなると言っているのです。

 『本来の貨幣』とは、本位貨幣もしくはその同様の地位にあるものを意味し、『単に債務であるにすぎなかったもの』とは銀行預金を指しているものと思われます。

 もし、ケインズが貨幣負債論や租税貨幣論が貨幣の本質を表すものであると考えたのなら、いや、それどころか、便利なヒントにすぎなかったとしても、ケインズはその考えを自分の理論の一部に採用したはずです。しかし、ケインズはそうしませんでした。

 ケインズがそうしなかったのは、ケインズにとって、貨幣負債論や租税貨幣論は必要な論点ではなかったからです。

 また、アバ・ラーナーは熱心なケインズの支持者ですから、アバ・ラーナーに「お金の価値が金と密接に関連しているという考えを大部分放棄」させ得たのは、ケインズの管理通貨制度の提案によって成されたのであり、貨幣負債論や租税貨幣論によってではありません。

 MMTには、表券とはそれ自体すでに負債を意味すると主張している者がいますが、もともとの表券の意味は「価値を記録した書面」という意味でしかなく、他の性質は付与されていません。あくまで、MMT派の戦略で「新表券」という言葉負債という性質を付与しようとしたのです。MMT派には言葉を乗っ取って、MMT派以外の者に一般的意味のものとして使わせまいとする変な癖があるようです。

 「インフレと不況を回避する責任は、資金を創出するか課税する能力があるため、州にあると主張」するためには、表券主義だけあれば可能です。MMTが介在する必要はありません。

 そもそも、MMTは、金本位制の頃に唱えられた理論で、当時の金属主義を批判するためのものでした。

 金本位制を批判する側の苦労は大変だったわけで、MMTのその闘いへの貢献は評価出来ます。だから、MMTを批判することは、同志討ちのような印象になるのです。

 しかし、アルフレッド・ミッチェル・イネスは、同時に、貨幣負債論および租税貨幣論以外の解釈は間違いであると言っているので、表券貨幣論の中で同志討ちを引き起こそうとしているのは、アルフレッド・ミッチェル・イネス自身なのです。

 ゆえに、単なる一つの認識論としての貨幣負債論および租税貨幣論というだけなら容認も出来たものの、それ以外の解釈は間違いであると断言するのは行き過ぎであり、それゆえ、認識論の分を超えていると反論せざるを得ないのです。

 こうした言葉の定義の変更に関する整風運動は再びマルクス主義のような言葉狩りの間違いを犯すであろうと警戒せざるを得ません。

 現在の世界経済は1971年にようやく金本位制から管理通貨制度(紙幣本位制)へと移行し、各国政府は無限の通貨発行権を手に入れました。

 無限の通貨発行権を手に入れたというだけで、全ての政策を正しい方向に導くことが可能になります。

 それにも関わらず、そこにMMTを、他の理論を排除してまで付け加える必要は全くありません。

 それにも関わらず、MMTに拘ることには、裏にもう一つ別の思惑が潜んでいるのではないかと疑われます。

 その別の思惑とは、「マクロ経済は会計的な処理で解決できる」という発見を経済学会に受け入れさせればノーベル賞に匹敵する功績になるという功名心です。(くだらない功名心)

 功名心以外にMMTを突き動かすべき動機があるとは思われません。なぜなら、MMTをどう丹念に読んでも、新しい経済学的な理論と呼べるものは存在せず、認識論に関する整風運動以外の趣旨は見つけられないからです。

 MMT支持者は、無限の通貨発行権はMMTによって証明されたと言っていますが、これはあり得ません。

 無限の通貨発行権は、昔から戦争のたびに実行され、1971年のドルショックにおいて、金本位制が廃止され、管理通貨制度(紙幣本位制)になったときに恒久化されたのです。

 また、MMTは「神代の昔から、貨幣は債権に過ぎなかった」という証明に全力を注いでいますが、それは、これが崩れれば、MMTの「貸借によって貨幣が発生する」という主張の基盤が失われるからです。

 つまり、表券貨幣が商品貨幣の進化形であれば、貨幣の起源において債権の性質が無くても貨幣として成立し得たことになります。そうなると、貨幣負債論ははっきりと間違いになってしまいます。

 しかし、古典派であろうと、ケインズ主義であろうと、貨幣の発展は、物々交換から商品貨幣へ、商品貨幣から表券貨幣へと発展して来たことに異議を持っていません。

 異議を持たない理由の一つは、貨幣についてはその認識で十分であり、一波乱起こしてまで認識を改めさせなければならない程の重大な理由はないからです。

 ケインズは、貨幣の機能を研究することが重要なのであり、貨幣の起源を論じることが重要とは思われないと言っています。

 そもそも、こうした認識論の証明は不可能です。なぜなら、当時の人はみんな死んでいますから、大多数の者が何を信じて貨幣を使用していたかの証明は出来ないからです。

 もし、当時の人が金銀などの貨幣の商品価値を信じていたということになれば、実は、彼らは誤解していたのであると言ったところで、当時の本人たちが納得しないでしょう。

 それよりも次の議論の方が、説得力があります。

 つまり、「貸借が貨幣を創る」という命題はしばしば納得される傾向にあります。それは、金融機関の信用創造という貸借によって、銀行預金という貨幣の一種が生まれるという例があり、そのことを連想するからです。

 しかし、良く考えれば、この命題は必ずしも完全でないことが判ります。つまり、銀行預金という貨幣の一種は、現金と交換されるという信用によって、貨幣の一種とみなされているのであり、最終的に現金と交換できないのならば、貨幣の一種という地位はなくなります。(現金は法定通貨の意味)

 MMTは、万年筆マネーで負債を記録するだけで貨幣を作り出すことが出来ると言っていますが、民間金融機関は通貨発行権を持たないのですから、融資を実行するときは必ず自分の保有貨幣(日銀の当座預金に預けている準備預金または自分の金庫の中にある現金)、またはコール市場や日銀など他者からの借入の可能性、または担保で押さえている融資先資産の換金の可能性を根拠としていなければならないはずです。

 つまり、融資するときは、必ず行き着く先に現金を用意しなければならないのです。

 たとえ、銀行預金のやり取りで済んでいる場合でも、現金のやり取りの代理行為にすぎません。

 銀行預金は、政府の預金保証によって信用を付与されて初めて貨幣の一種と見なされているにすぎないのですから、一般的に「貸借が貨幣を創る」という命題は成り立ちません。

 もちろん、政府の預金保証のない非金融法人同士の貸借ではまったく成り立ちません。

 手形が発行されても、基本的に、第三者にとって信用出来るものではありません。第三者への支払いに使われるのは、裏書人の連帯保証による信用の上乗せがあり、その他に、催促しなくても現金に換金される便利さがあるからです。

 しかし、その信用とは、振出人や裏書人が現金と交換してくれるであろうという期待にすぎません。

 結局、最後には現金に換金出来ることが重要なのです。この有様では、手形自体が貨幣の役割をしているとは到底言えません。

 MMTのもう一つの難点として、もし認識論として正しかったとしても、そういう正しさは無用であると言うことです。

 つまり、もし正しくても、歴史的に培われた人間の意識において、その正しさ(返済しなくても良い債務という概念)は、経験的に受け入れられにくいという問題が発生します。

 貨幣負債論を肯定するためには、政府債務が完全な意味で負債であることを強調しながら、返済しなくても良い負債というジャンルを増設しなければなりません。

 しかし、私たちの経験では、負債という概念(言葉の定義)は、返済という概念と対のものです。

 おそらくほとんどの者にとって、負債は返済義務を前提とするものであると認識され、その体感は皆の体の芯にまで刻み込、その体感を覆すのは不可能でしょう。

 だから、借金であるが返済しなくても良いと言われるよりは、政府債務は返さなくても良いので、(とりわけ日銀保有国債は)もはや借金ではないと言ってくれたほうが判りやすいものと思われます。

 なぜ、わざわざ、MMT「返済しなくても良い債務」という理解し難い言い方に拘るのか分かりません。

 MMTは、第三者に対する信用度の違いをヒエラルキーと言い、ヒエラルキーが上昇することで完全な貨幣になると言っているようですが、私には、ヒエラルキーというあいまいな表現で、ドサクサに紛れて全ての貸借を広義の貨幣に取り込もうとする意図が透けて見えて気に入りません。

 おそらく、全ての資産は貨幣的な役割を果たし得るという考え方の焼き直しでしょう。

 「貸借が貨幣を創る」というMMTの命題は、ヒエラルキーの低いものまでひっくるめると、「貸借があれば、貨幣が生まれている」というものになり、対偶は「貨幣が生まれなかったのなら、そこに貸借はなかった」となりますが、これは貨幣を使用しない貸借を除外しているにすぎません。あるときは混同し、あるときは除外しているのです。

 おそらく、MMTから除外される貸借とは借用書や手形が介在しない親子兄弟や仲間同士の貸借でしょう。確かにそこからは貨幣は生まれません。

 他人同士の貸借でようやく借用書や手形が生まれます。

 しかし、それもまた第三者にとっては、そこいらの肉親同士の貸借と何ら変わるところはなく、その借用書は第三者には通用しないものです。

 手形は不渡りもあるのですから、手形という形式の信用ではなく、振出人か裏書人の信用によってはじめて第三者に通用するのみです。

 これらのことから導き出されることは、むしろ、貸借から貨幣は生まれにくいという判断でなければならないはずです。

 そして、さらに、敵同士の交易において貸借は信用されず、よって金や銀という貨幣そのものに価値のある金属貨幣による有無を言わせぬ決済(商品の物々交換でもある)が必要になります。

 だから、貨幣は貸借の証などという生易しいものではなかったはずです。歴史的な経済活動については、このように、取引は荒々しいものであったとする分析の方がピッタリしているように思えます。

 貸借というものは、貸主に対して借主側にある程度の信用が無くては存在し得ないものですが、いつ敵になるかも分からない相手を信用出来るでしょうか。貨幣が貸借を表すだけであれば、いつ敵になるかも分からない相手との国際交易は成立しないのではないでしょうか。

 また、租税として納付できる法定貨幣についても、租税を納付する利便性から信用性を高めたにすぎないとする説と、租税貨幣論における、租税貨幣であることで初めて貨幣として流通しているという説のどちらが正しいかは、今でも、金(gold)や仮想通貨と商品を交換する人はたくさん居て、しかも、その交換において金(gold)や仮想通貨が貨幣の役割を果たしていると認識している人が居る限り、法定貨幣以外のものによる取引が成り立っていることになり、後者租税貨幣であることで初めて貨幣として流通しているという説は否定されるはずです。

 これに対し、租税貨幣論では、どのようなものでも貨幣として流通し得るという事実について、それはどこかの国(たとえばアメリカ)の租税貨幣に関連づけられるからであると言っています。

 そうするとまた疑問が湧いてきます。つまり、世界中の国々の中で一国でも、(それがどんなにつまらない国であっても)租税が存在すれば、その貨幣をヒエラルキーの頂点として租税貨幣論は成立することになります。しかし、そんなヒエラルキーに意味があるでしょうか。これでは何も言っていないも同然です。

 言っていないも同然とは、租税貨幣論の納税で指定された租税貨幣だけが貨幣として流通するという定理が、経済学的な研究においてどのような役割を果たすのか判らないということです。

 納税で義務付けられている法定貨幣が、金(gold)などの他の資産と関連付けられているとしても、ヒエラルキーなどが存在すると空想するまでもなく、この世の全ての財が交換価値的に関連付けられていることの一つであると考えた方が自然です。

 MMT論者は、貨幣負債論および租税貨幣論があって初めて財政破綻が無いことを主張出来ると言っています。

 しかし、財政破綻が無いことの主張は、ケインズによって管理通貨制度が提唱され、現実には、ニクソンが兌換停止を宣言したことで達成されました。MMTを引き合いに出すことなく達成されているのです。MMTは、横から割り込もうとしているにすぎません。

 しかも、MMT論者の未熟な思考力において、「MMTが正しくないならば、積極財政論も正しくない」という本末転倒が行われています。これは今やMMT論者たちの積極財政派に対する破壊活動と言っても過言ではありません。

 むしろ、もし、MMTがいろいろなところで取り上げられ、こうした風潮が蔓延して来ると、積極財政派にとっては恐るべきことになりかねません。

 なぜなら、MMTは以上言った通り脆弱な理論なので、必ず、どこかの時点で論破されてしまいます。それはもう、確実に論破されます。

 そして、正に、MMTが否定されたときに、積極財政論も否定されるという、味方の総崩れを起こしかねないのです。共倒れは御免です。

 

 

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