1958年、ホンダから初代スーパーカブc100が発売され大ヒット。

 

その2年後の1960年に私が誕生し、物心ついた時には私の親父がスーパーカブc100に乗っていました。

 

 

親父は私を後ろに乗せてトンネルのあるコースを走ってくれます! 私はなぜかトンネルが好きでした。 スーパーカブc100のマフラーからのトポトポトポトポという排気音がトンネル内に入ると反響してシュバババッシュバババッと音が変わるのが好きだったのです。

 

そんな60年以上前の初代スーパーカブc100が、令和の時代に最新の技術と最新のハイテク装備を備えてスーパーカブc125として蘇ったのです!!

 

 

その姿を見た瞬間、私の「欲しい・・乗りたい・・」という思いが止まらなくなってしまったのです。

しかし、スーパーカブc100はc100と名付けられてはいるものの排気量は49CC!! つまり原付免許で乗れるのですが、C125はその名の通り排気量は125CC(正確には123CC)なので乗るには小型自動二輪の免許が必要なのです。

 

私は原付と普通自動車しか持ってません・・・・とは言え若いころバイク経験はあります、ただオフロードバイクで競技場でレースなどをする、いわゆるナンバープレートのないモトクロスバイクなので一般道は走らないため免許は不要だったのです。

 

 

仕方がない、あきらめよう・・・ そう何度も自分に言い聞かせました。

しかしそう思えば思うほど、頭の中に実家の庭に停められたC100の姿や親父とのトンネルの思い出が次から次へと湧き上がってくるのです!

 

よ~し!! 免許がないなら取得しよう。

 

こうして63歳の爺が教習所に通い始めました。
歳のせいなのか長いブランクのせいなのか一本橋で苦戦しながらも、何とか最短でストレートに卒検をクリアー、免許を手に入れました。

 

そしてついに我が家にC125がやってきたのです!!

 

これから徐々に自分なりのカスタマイズを施しながら、思い出を乗せたバイク 

ノスタル爺号としてかわいがっていきます。

 

そしていつか親父と走ったトンネルのあるコースを、今度は私がカミさんを後ろに乗せて走ってみたいな・・・なんて思っています。

 

12月2日に娘の結婚式がありました。

結婚資金は出せないぞ! と言う私の言葉に「そんなの最初から期待してないから」

と、娘はダンナとなる相手と二人で式場や日取り、その他もろもろを半年以上かけて準備していきました。 「とにかく父さんは当日腕を組んでバージンロードを歩いてくれたらいいだけにしておくから」 ということでスピーチなど人前で話すことを極力少なくしてくれたようです。

バージンロードを一緒に歩くシーンの動画はまだ手元にきていないのでここでは紹介できませんが、大みそかに娘たち夫婦で我が家に集まってビデオ鑑賞しながら一杯やりましょうという連絡が入っているので、また機会があればここに載せるかもです。

 

先日、長く付き合っていた娘とその彼氏との婚約に至りました。



我が家で2か月に一度くらい何かしら理由をつけては飲み会を開いています。

向かって左側に座っているのが娘と彼氏、右側に座っているのが息子とその彼女です。

なので本人とはすでに家族同様の感覚なのですが、いざ正式に結婚へ向けて進むとなるとご両親にお会いしなければなりません!! これが私の最も苦手な分野!!

娘が店と時間を決めてくれまして、先日いよいよ顔合わせ。

不安とは裏腹に、お会いするとお二人とも気さくな方でして、もちろん結婚には早い段階から賛成していたとのこと。 私の妻が外国人であることさえも気にかかるどころか会うのが楽しみだったと言っていただき、初対面とは思えないくらい気楽な集まりとなりました。 

籍は近いうちタイミングを見て入れるということで、式は秋ごろの予定だそうです。

私が何もしてやれない親父だとわかっているので、娘が二人で相談しながら決めるそうです!!

これで一安心・・・・

なのですが、なんと息子の方も結婚に向けての話が進んでいるのです!!

 

とりあえず めでたしめでたし。

私とだっこちゃんは同い年!

昭和35年生まれだ。

とにかく遊びが大好きで、おもちゃなんかろくに無いころだったけど周りにあるものはすべておもちゃになっていた。 石ころはもちろん笹の葉で船をこしらえたり空き缶で下駄?のようなものを作って歩いてみたり(笑)

大好きだったおばあちゃんが遠出するときにはいつもついていった! 有名な稲荷大社へ行くことが多く、そこの店で買ってもらうのが竹の蛇にカエルのおもちゃ。

どちらもしょうもなくてすぐに飽きてしまうのですが、次に行くときにはまたねだってしまっている・・・そんなおもちゃの中でも一番長く遊んだ記憶があるのは刀!!

近所の山や川で遊ぶ時にはいつも腰に差していたような気がする。

悪い奴はこいつでやっつけてやるんだと・・・・

 

あのおもちゃたち、気が付くとなくなってしまっていた。

 

ただ一つ、刀だけは今も持っている! あの時のおもちゃでなく、目には見えない本物の刀を心の片隅に・・・

 

でもその刀は悪い奴をやっつけるためのものではない、大切な人を守るためのものなのだ!

最後の投稿の後、勤めていた自動車解体(リサイクル)の会社が倒産して職を失い。

できることなら同職に就こうと検討したものの、つながりのあったどこの会社も世代交代が始まっており、なじみの社長だけの権限ではどうしようもなく、次期社長(ほとんどが先代の息子)であり、30年近く解体業に努めている私の給料を払えはないと言われ、また各社スタッフたちも私より若く経験の浅いものが多いため、私が加わると持て余してしまうとの考えから快い返事はもらえませんでした。

 

 これは私の予想!

 

しかし、遊んでいるわけにはいきません。

そこで全く未知の世界へと飛び込む決意を固め、たどり着いたのがトラックドライバー 4トントラックで企業や個人商店を主体に雑貨を運ぶ仕事です。 トラックは前職でクレーン車に乗っていたし、フォークリフトも扱えました。

ところが全くの未知の世界のことであり、なかなか全体の仕事の流れがつかみきれないのと、積み込みや荷下ろしには今まで使っていなかった部分の筋肉を使うようになったためと、気持ちとは裏腹に進む老化がネックとなり思うように身に付きません。

おまけに朝が早く拘束時間も長いため疲労がたまる一方で、これは私には無理だ! と、何度もやめようと思いましたが、それでもやり始めて3年が過ぎたころには何とか人並みにやっていけるようなところまではなりました。

 

しかし、思いと反対に進む老化はどうすることもできません、家に帰ると「疲れた」という言葉とともに全く動く気がしないのです。

風呂を済ませ、カミさんとの会話も最小限のまま夕飯を済ませると、あとな寝床に入るだけ・・・ もちろんPCの前に座る時間んもほとんど皆無、そんなこんなでこのブログとも遠ざかっている次第です。

 

今は、子供たちは二人とも成人して、私も定年まであとわずか!

 

もうひと頑張り、踏ん張ってみます。


平成26年6月のある日突然、その日はやってきました。

いつものように軽く晩酌を済ませ、私がパソコンの前に座った時そばに置いていた携帯が鳴り響いたのです。

「もしもし~ こんばんは~」

私が出ると手にした携帯の向こうから聞こえる声が言いました。

「あのさぁ~ 9月に岡山行こうと思うんだぁ~」

「え~っ・・!!」

私は一瞬戸惑いました。 

声の主は続けます。

「実は2人の友人が誕生日会を開いてくれてね、その時に出た話なんだけど。」

聞けば一人は電話の主と交流の深い女性プロデューサーで、もうお一人はとあるバンドのギター奏者! 

そのバンドの全国ツアーに女性プロデューサーから一緒に行こうとのお誘いがかかったのだそうです。
 
「でね、同じ行くなら東京公演より地方がいいなって思い、そのツアーの行き先を見てたら9月に岡山があったのよ、それで二人にズラちゃんのこと話したら、二人ともズラちゃんのユーチューブ見たり、ツイッターのつぶやき見てたりであなたの事知ってて、それなら岡山にしようってことになったの。」

私の胸は高鳴りました!

それもそのはず、携帯の向こうの声の主はなんと私のマドンナ ひし美ゆり子さん なのですから!!


私はそれはそれは舞い上がりました。 

どのくらい舞い上がったかは興味がないでしょうからカットして、ついに待ちに待った9月がやってきました。 
この時を待っていた数か月間の時の流れの遅い事遅い事(笑)

その間、宿泊先などの手配はすべてひし美さんが整えてくれました。


宿泊先の待ち合わせ場所のホテルへ向う車の中で “今空港につきました、これからリムジンバスに乗り込みます” というメールを受け取り、一足先に到着した私は・・・・・いやいや、これだと私が一人のように勘違いしそうですね。 私の隣には私の妻ビオラさんも一緒にいます (^O^)/

そしてロビーで到着を待っていた私たちにひし美さんの声が聞こえてきたのです。

「ズラちゃ~ん!」

そしてあたりを見回し私たちを見つけたひし美さんはすぐさま駆け寄り熱い抱擁を・・・・・私ではなく妻ビオラと交わしたのです。 私は握手のみ! そりゃそ~だ(笑)

フロントで受付を済ませ一同はいったん各自部屋に向かいますが、どうもひし美さんの足下が・・・・!!

ひし美さんは飛行機が嫌いで、1972年・高倉健 主演の映画 新・網走番外地(嵐を呼ぶダンプ仁義)で健さんのお相手に抜擢されながら、飛行機が怖いとの理由でお断りしたほどで、現在は少し克服されたと言われてましたが、それでも素面のままでは怖いため少し早目に空港に行き、そこで乗る前に必ず気付薬の代わりにお酒を飲むとのこと。 

ところが、この日は飛行機が予定より30分遅れ、その分余計に飲んでしまっていたのです。

私がカバンを持ち、その前をビオラがひし美さんに寄り添い支えながら・・・これはちょっと大げさかな(笑) だけどそのおかげで私の緊張は少し和らぎました。

ホテルのロビーでサインを頂きました! これまでも様々な著書やグッズにいただいてはいたのですが、今回は色紙に ウルトラセブンの友里アンヌ隊員ではなく ”あなたのYZ” 吉岡みどり として書いていだだきました。

あなたのYZ,わかる人どのくらいいるかな(笑)



エレベーターに乗り込み18階へ。

ホテルの窓から見たJR岡山駅


そして10分後にロビーに集合していよいよ食事に向かいます。

私は数日前事前によさそうなお店を数件抜粋して提案をしてみたのですが「私は何も決めずに行った先で、その場の気分で行動する方がいい。」と言われたので、その言葉通りなにひとつ予定を組んでいません。

駅前街をしばらく歩き、入ったお店がココ


いまどき割烹・和哉. http://kazuya.enetde.com/  



腰を落ち着け、好き好きに料理を注文しまずは乾杯です。


ひし美さんから順に、女性プロデューサーの小林さん・ビオラさん・明日のライブのお手伝いに来ているノンちゃん。




テーブルに料理が並びます。 キスの天ぷら、アナゴの白焼き、のどぐろの煮つけ 等々。

懐かしい話から初めてする話、和気あいあいとみんなで楽しく盛り上がり、お酒がまわり始めたころ、一足先に出来上がっていたひし美さんは、これがおいしいからとご自身でリクエストした ”のどぐろ”を一口つまんだだけでお休みモードに突入!

そのままお開き直前まで眠り姫でした(笑)


この写真を撮った直後その場でぐっすりとお休みになりました (^ー^)
こうして楽しい楽しい岡山の夜は更けていきましたとさ。



さて翌日はノンちゃんはライブのスタッフとしての仕事があるため、残る4人は私の車で朝食兼昼食をとりに町はずれのファミレスへ。








そこでもまたテーブルに収まりきらないほど注文し、みんなお腹パンパンの状態で、次に向かったのが岡山市内から30分強、私の家からごく近い場所にある牧場です。

牧場といっても目的は牛や馬たちを見るためではなく、デザートとしてそこの名物アイスクリームを食べるのが目的(笑) http://jelato-misao.com/gelateria.htm





到着したものの予想以上の賑わいで駐車スペースがなく、仕方なく路上駐車(そこは田んぼの囲まれた場所でほとんどの車が路駐でした)

ライブ会場の岡山駅前まで戻らないといけないため、ここではあまり時間に余裕はなかったけどしっかり味わってから再び車に乗り込みました。


そこからいったんホテルに戻り、改めて身支度を整えるためひし美さんを降ろすと、私の車のカーナビ頼りで私とビオラ、女性プロデューサー小林さんの3人でライブ会場の下見に行きました。(誰も行ったことがなかったため)

「おかしいなぁ? 遠いなぁ~?」

小林さんが得ていた最初の情報だと駅からそう遠くない距離のはずなのにカーナビは駅からどんどん離れていく道を支持します。

それでも何とかたどり着き小林さんが確認のためビルを駆け上り、しばらくして戻ってきました。

そして「間違いありません、ここです!」 そう言った小林さんの力強い言葉で車は再びホテルへ戻ると身支度を済ませたひし美さんを乗せいざ出発!

ところが途中でひし美さんが 「会場こんなに遠いの? なんかおかしいよ、私会場の場所調べてできるだけ近くにホテルとったつもりなんだけど?」

そこで小林さん 「そうですよねぇ~ それが地図だと近かったんですけど行ってみると意外と遠かったんですよ!」

なんて会話をしながら会場に到着。

コインPに車を止め受付でチケットを差し出すと、なななんと! 係員の人から予期せぬ言葉が!!

「あっ、これはここじゃないですよ。 これは別の会場です!」

皆一斉に 「え~~~っ!!」

何と同じ名前のライブハウスが二つ存在していたのです。

私たちが行ったのは CRAZYMAMA KINGDOM 目的のライブの開催場所は姉妹店の CRAZYMAMA 2nd Room ・・・・・場所は駅から徒歩10分くらいのところ。

ひし美さんの主張が正しかったのです。

時間を見るとすでに開演5分前!! 急いで会場まで車を走らせ到着するも、すでに演奏は始まってました。

むせ返るような熱気の中、観客はバンドの奏でるリズムに合わせ身体を揺らしたりこぶしを勢いよく突き上げたりとノリノリ。

私はビオラがこういうのを好むのかどうか知らなかったため、ときどき様子を観察していたのですが、なんのなんの心配ご無用、周りの人達と息ピッタリに全身でリズムを取っていました(笑)
そして2時間、ラスト数分前、ひし美さんが新鮮な空気が欲しいとギブアップ、私もどちらかというと演歌の方が得意なため一緒に外へ。

そのあと5分ほどでライブは終わり一同余韻に浸りながら階下の中華レストランへ。





ここで最後の晩餐です。

そこで意外な事実が判明!! 小林さんが話の流れの中で 「ライブ会場のドア開いてすぐ思い出しました。 私前ココ来たことあります。」

一同再び「え~~っ!!」

「来たことあるのになんで間違えるのよ~」のツッコミに照れ笑いで「すみませんすべてわたくしが悪いんで~す。」 ヽ(^◇^*)/ 言いながらぺこりと小林さん。

楽しい席がさらに笑いに包まれました。





途中ほんの少しの時間でしたが、ライブの打ち上げを抜け出してバンドのギタリストの方が顔を覗けてくれました。

しかし楽しい時間が過ぎるのは早いもの、あっという間にお店の閉店の時間がやってきました。

そこでお別れのはずだったのですがビオラがひし美さんを途中まで送ろうと提案してくれ、一緒にホテルに近い岡山駅まで歩きました。

途中、私の胸にお別れのさみしさと、ひし美さんと一緒にいられた喜びとが入りまじり、きちんとしたお別れのご挨拶の言葉さえ思いつきませんでした。
私たちを訪ねて岡山まで出向いてきてくださったひし美ゆり子さん。

私は幸せ者です。

ひし美さんのファンでいてよかったです。

また逢う日まで。。




  夢の宝箱・白黒テレビ

私に物心がついたころ、居間にはすでにテレビがありました。

あの頃のテレビは今のようにテレビ台なんていらず、木製の本体から4本の足が伸びてて置けば丁度いい高さになってた。

もちろんモノクロの真空管式というやつで、スイッチを入れてから画面が出るまで30秒以上かかってたなぁ~

画面は四角いというより丸い印象のほうが強かったかな?

サイズも今のような大画面じゃなく・・ ん? そもそも当時のテレビに画面サイズなんてあったのかな?


↓↓↓コレコレ! 私の知る限りどこも似たようなサイズでデザインも
           そう大差はなかったような(笑)
$思い出


チャンネルはダイヤルをガチャガチャと回すタイプで、これが私には結構かたくて力を入れて回してました。

当時は夕飯がすむと家族は全員テレビの前に集まります。

夏は蚊取り線香をたきながら扇風機の風に当りつつ、冬はコタツに足を突っ込んで各自みかんを頬張りながらみんなで同じ番組を見ます!

シャボン玉ホリデー 底抜け脱線ゲーム てなもんや三度笠 コント55号や8時だよ全員集合などで大笑いして、そっくりショーや三匹の侍に夢中になった。

鉄人28号 隠密剣士 忍者部隊月光 ひょっこりひょうたん島 姿三四郎 などなど、どの番組が先でどの番組が後か年代こそはっきりとは覚えてませんが、楽しみにしてた番組をあげればきりがありません。



放送局も最初の頃はVHFだけしかなく、UHFは後に専用の受信機を取り付けて見てました 。


↓↓↓ こんなやつ! 確かUHFコンバーターって呼んでたような?

$思い出



カラー放送が始まると画面の隅に【カラー】て表示が出て、モノクロしか見たこと無い私は妙な気分になったものです(笑)

そのため、今も大好きなウルトラセブンも【カラー】放送だったのにモノクロで観てた私は再放送まで身体が赤い事さえ分からないままでした!


$思い出





あと、途中から小さな画面でも少し大きく見るためのレンズのようなものが売り出され、我が家でもそれにもれず取り付けていました。


↓↓↓ これ、プラスチック製の大きな虫眼鏡みたいなものかな。

$思い出


このレンズの左右に付いてる金属製のアームをテレビの上に引っかけるように置いて、後はピントが合うように前後調節するだけ。
それだけであら不思議、小さく観にくかったテレビも大画面へと早変わり~(笑) 

というわけで、テレビという小さな木の箱も、私から見れば次から次へと夢が飛び出す不思議な宝箱でした!


しかしやがて時代の流れとともに白黒だったテレビもカラーへと変わり、中にはリモコンで操作できるものも現れ始めます。

発売当初は三種の神器と呼ばれとても貴重で高価なものだったテレビ・・・・一家に1台となるまでには大変時間がかかったのではないでしょうか?


そんなテレビも今では一家に1台どころか一人1台、いやいやそれどころか車にも取り付けられてたり、携帯電話の機能の一部として持ち歩くことさえも!

考えてみたら、当時のテレビは私のような少年たちに夢を与えてくれるだけでなく、一つの部屋で同じ時間に同じ番組を観ることで、家族団欒という大切なの間を与えてくれていたのではないでしょうか?


そう思うと、なんかさみしい気もしますねぇ~









石炭ストーブの思い出


私が通った小学校は周りを山と田んぼに囲まれた場所にあり、校舎の横には小川が流れフナやザリガニがたくさん獲れました。

春になると学校の敷地を取り囲むように植えられた桜が咲き乱れ、夏にはうるさいくらいにセミの声が聞こえてました。

秋には中庭をトンボが優雅に飛ぶそのむこうで、周りの山々は真っ赤に色付きます。

しかし、そんなのどかな田舎の学校の風貌も私が三年生に上がった頃から建て替え工事が始まり、卒業する頃には現在の鉄筋コンクリート三階建てのものへと姿を変えてしまいましたが、それまでの校舎は木造二階建てで廊下を歩けばギシギシと音を立て、もしも雨降りで外に出られず校舎の中で遊ぶこととなり、もしもかくれんぼなどで鬼になろうものなら相手を捕まえるのは至難の業でした!

なにしろ忍び足で移動しても隠れている側にはその音が丸聞こえとなり、つかまる前に逃げ出せるのですから。

$思い出




↑↑ ネット上で似たような建物の写真を探したがなかなか見つからず、やっと見つけたのがコレ。 この建物は窓がアルミサッシなのかな? それを除けばかなり近いと思います。


校舎の中は廊下に面していくつもの教室が並んでいます。

$思い出


廊下はまさにこんな感じ。 昭和初期の学校を舞台とした映画などではよく目にします。


教室に入るとまず目に入るのがこの机です!

$思い出


きちんと並べられたその机は今のように一人ひとりが自由に使えるものではなく、形としては横に長く隣の子と半分ずつ使うようになっていて、見ての通り引き出しなど付いておらず、教科書やノートは天板を跳ね上げて出し入れするため、授業前に必要なものを上に出しておかないと途中で出し入れすると隣の子まで迷惑をするという不便な物でした。

この机のせいで・・・・なのかどうかわかりませんが、私はよく隣に座った女の子とけんかしたものでした。

「こっちは今書いとんじゃけん消しゴム使うときは言ってよ! 机が揺れて書けんじゃろう。 それに消しゴムのカスこっちに飛ばさんといてよ、きたないなぁ~!!」

「そんなこと言うならそっちだって教科書の角がこっちにはみ出しとるがな、真ん中の線よりこっちに入るなよ! 線からこっちはワイの(僕の)陣地じゃけんのぉ~。」

な~んて、今考えたらかわいい喧嘩だね(笑)


あと今ではなかなか想像つかないでしょうが当時はどこの学校も似たり寄ったりで、 休みの日に生徒たちが自由に出入りしたり、ひどいときには赤の他人が勝手に校舎内をウロウロしたりなんてことも!

それでも特に咎められるわけでもなし、とにかく今のように物騒な世の中ではなかったって事でしょう。



そんなオンボロ校舎でしたから、夏の間は窓を開け放てば周りを囲む田んぼや小川から吹き込む風が心地よく、特別暑くて辛かったというような記憶はないのですが、これが冬となれば大変。

オンボロで古い木造校舎ですから当然窓もドアも今のようにアルミサッシではなく、全て木枠に薄いガラスがはめ込まれたもので、鍵は真鍮製のネジをネジ込んで締めるというものでした。


$思い出

↑↑ こんな感じで窓のカギは内側と外側の枠を蝶ねじで締めるだけ!


しかも年期が入っているため片側の窓を少し持ち上げるようにしてネジの穴の位置を合わせてやらなければそのままでは締まらないくらい立て付けが悪いといった具合で、窓を閉めていてもあちらこちらから隙間風が入り込みます。

そこで活躍するのが石炭ストーブなのです!


北国の人は別にして、これ知ってる人って私より若い人ではそうそういないんじゃないかな?

↓↓↓ これこれ!!


$思い出



上の奥に見える茶色い円筒形のものは煙突で、天井近くで折れ曲がり、最終的には窓枠の上に丸い穴がありそこから外に突き出していて、昼休みなど校庭に出ると全ての教室から突き出した煙突から白い煙がもくもくと、のどかな光景をさらにのどかな物へと変えてくれていました。


この石炭ストーブ、中央の丸い部分が開きそこから石炭を入れるのですが、これが火をつけるまでが大変!

古新聞を丸めてそこにマッチで火を付けるのですが、石炭に燃え移るまでかなり時間を要します。

1年生・2年生の教室には6年生のお兄ちゃんとお姉ちゃんが火を入れてくれます。

そうなると席替えの時は大騒ぎ、誰もがストーブのそばに座りたいため口げんかが始まるのです。

もちろん子供たちの争いなど何の役にも立ちません、最後・・・というか最初から席順は全て担任の教師が決めていたのですから(笑)

昼休みになると大勢がストーブの周りを取り囲みます。

中には給食で残しておいたパンをストーブの上で焼いて牛乳片手に食べる奴がいるかと思うと、上靴の底を焼けたストーブに押し付ける奴、消しゴムを溶かす奴、バケツの水で手を濡らしては煙突に触れてジュッと音をさせて喜んでるやつがいたりで、午後の授業が始まるころには教室には何とも表現しがたい妙なにおいが漂っていたものでした。

そんな石炭ストーブは、3年生からは自分たちで火をつけます。

二人組で2日ごと・・・だったかな? ちょっと周期は忘れましたが、一人一人全員に火をつける役が回ってくるのです!

当番になると朝みんなより少しだけ早く登校して石炭置き場から石炭を運んでくるのですが、これがなかなか重労働。

校舎の隅にある石炭置き場は三方をブロック塀で仕切っただけの簡素な物で屋根がないため、雨が降るとずぶぬれ!

↓↓↓ 石炭置き場。 少し様子は違いますがまあこんな感じかな!

$思い出



できるだけ下の濡れてないものを掘り返し、それを専用のバケツで運びます。

$思い出


私は一度だけ大雪の日に当番になったことがあります。

あのときは積もった雪を取り除くところから始めなければならないためすごく大変だったのを覚えています。

そんな私たちの年代には苦い思い出や楽しい思い出がたくさんある石炭ストーブ!

最近の学校では指一本、ボタンひとつで火がつく便利で暖かい石油ストーブがあたりまえ、仮に今の子供たちに 「教室でのストーブの思い出は?」 なんて質問をしたとしたら 「このおっさん何言ってんだ?」 てな感じで相手にされないのが落ちでしょうね~(笑)


遠い昔のお話でした~ おしまい。。






 倉庫の奥から出てきた変身アイテム!

最近裏の空きスペースを最大限に利用できるよういろいろと手を加えているうち、倉庫もついでにと片付けを始めたら、まあ次から次へと要らないものが出るわ出るわ!

昔使っていたワープロが2台、壊れたラジカセ類に電子レンジやファンヒーター・・・などなど挙げればきりがなく、よくこれだけ入っていたものだと我ながら感心した。

こんなものその時点で処分していたら倉庫が十分広く明るく使えていたのに、何でもかんでも押し込んでいたものだから、アウトドアーの用品が行方不明になったり日曜大工の道具を取り出すのも一苦労だった!

というわけでここらですっきりさせようと分別を始め、壊れたものは当然、壊れていなくても使いそうにないものは容赦なく捨て、現在ではほぼ片付けも最終段階に入った。

しかしここにきて手が止まってしまうものに出くわしてしまったのです! 

今まだ捨てるべきかどうか悩んでいます。

それがこのボストンバックです!!
$思い出


実はこのバックは私の妻が持ってきたもの・・・もちろん全体にカビてたりシミができてたりと到底使える代物ではないが、問題は中に入っていたもの。

その中身がこれ!!



$思い出


えっ!? 見えない? 空っぽだって?

そうか、皆さんには見えなくて当たり前なんですよね(笑)

中に入っていたのは私にとってウルトラマンのベータカプセル、ウルトラセブンならウルトラアイのようなものなので・・・・つまりダメダメ星人だった私を、人並みに変身させてくれた数々の思い出が詰まっていたのです。

話は今から18年前にさかのぼります。

1994年10月、私は朝から車を飛ばし関西空港のロビーにいました。

車を駐車場に止めてからすでに3時間以上、ここで来日してくる妻を待っていたのです

そして予定の時間を大きく回りタイ航空TG620便が到着しました!

次々と下りてくる団体を見送り、やがてポツリポツリと個人の客の姿が見えてきました、しかしまだ妻の姿は見えません・・・・

“どうしたんだろう、もしかしてこの便に乗れなかったのかな?”

“まさかビサに問題でもあってマニラで足止めくってるなんてことは・・・・”

などの不安がよぎり始めたときでした! 不安そうな表情できょろきょろと辺りを見回しながら歩いてくる妻の姿が見えたのです。

私の心に安堵感が広がりました、そんな私を見つけ妻も嬉しそうに微笑みました。

「ほんとに来たよ」 「いらっしゃい」

お互い第一声はそんな味気ない会話を交わしたような(笑)

そして二人はバックとともに車に乗り込み、積もる話も尽きぬまま高速を飛ばし4時間近くかかって深夜1時過ぎ新居へと到着しました。

新居といってもそこはオンボロのひと月8千円の雇用促進住宅!

家具も私が至る所からもらったり、それでも足りないものは借金してなんとかそろえた安物ばかり、部屋はというと6畳一間に、寝室兼ダイニングの4畳半とカビだらけの浴室、蓋のないトイレと埃っぽい押入れ・・・

そんな、決して新婚にはふさわしくない部屋を見回し、それでも妻は嬉しそうでした!






$思い出

このアパートの4階に3年住みました! 当初は仕事で疲れて帰っていても、車の音で妻が窓から顔を出して手を振ると、疲れなんかなんのその、よく4階まで一気に駆け上がってたものでした。  もし今だったら・・・・まあ、そこのところはノーコメントと行きましょう(笑)


バックをあけました! 入っていたのは少しの着替えと歯ブラシ程度、あとは私が交際中に送ったメッセージテープが数本。

そうです、妻は文字通りカバン一つで私のところに来たのです。
ろくにカバンに詰める物もなく、体一つで生まれ育った国さえ捨てる覚悟で・・・・

このバックはアパートの押れをあけると、いつも一番目立つ場所にありました!

着替えを取り出す時も布団を敷くときも、支払いに追われ一つのインスタントラーメンを二人で交互にすすった時も、このバックは黙って私たちを見ていてくれたのです。

大変だった時期もあった、でも二人とも食べることが大好き。

私の持ち物でお金に代わるものはすべてお金に換えた、お酒もやめギャンブルもその他お金のかかる趣味は一切やめた!

そんな中唯一の贅沢が深夜に二人でうどんを食べに出かけること。

当時ラーメンは最低でも一人400円はかかっていたけど、セルフうどんならてんぷらを1品入れても200円あれば食べられた。 妻は海老天、私はちくわ。 

深夜にこれを食べながら笑いあった。 そして近場を一回りしてからアパートに帰り部屋に入りパジャマに着替えるため押入れを開けると、そこではやっぱりこのバックが二人を待っていてくれてました。

と、こんなふうに、このバックにはカミさんの決意と私のこれまでの思い出がぎっしり詰まっているのです。

そんなわけで、もしこのバックが二人のもとになかったら、私はダメダメ星人のままで現在を迎えていたかもしれないのです。

バックを発見した時、妻に見せたらなんていうだろうかと内心ワクワクしながら 「どうしようか?」と言ったら、ちらりと横目で見ただけで 「汚い、いらない、捨てて」 と、いとも簡単に突っぱねられました(笑)

それでも私はまだ捨てるべきかどうか悩んでいます!

これってやっぱり私が女々しいのかなぁ~~?


          おわり


「母校と近道」 友達と怪獣とアンヌ隊員

私の子供時代、当時は今の様に学校の校庭への出入りが規制されておらず、自校の生徒に限らず誰でも自由に砂場やその他遊具で遊べていたため、天気のいい日の放課後には決まって近隣の人達が公園がわりに利用したり、日曜日などはキャッチボールをする父子や、幼児にも満たない小さい子供を遊ばせるお母さんの姿が見られました。

$思い出

私の母校・荘内小学校  私が入学した時はまだ木造校舎でした! よその学校が鉄筋コンクリートになる中、荘内は少し遅れをとっていたのか ♪荘内がっこうボロ学校 雀がとまればペッチャンコ♪ なんて歌を歌ってたのを覚えてますが、それでも私が卒業する頃にはほぼ現在に近い形になっていたと思います。


そんなのどかな時代の真っ只中、小学校低学年だった私がいつものように学校の角の駄菓子屋でおやつを買っての帰り道、小学校の校庭を斜めに横ぎろうと校庭に足を踏み入れたとき
(駄菓子屋と私の家は学校を挟んで対角線に位置するため、それが最短距離になる)
ブランコのそばに集まる6人ほどの集団と目が合いました。
6人は全員この学校の生徒で4人は女の子(多分6年生)で残り二人が私と同学年の男の子だったため、どちらともなく声をかけ、私は遊び仲間に入りました。

それまで全く一緒に遊んだことのない相手にもかかわらず、不思議なもので遊び始めると初めて話す6年生の女の子も古くから知ってる子のような感覚で何の違和感もなく溶け込め、滑り台からそれぞれにパッチン(岡山でメンコの事)を滑らせて誰がより遠くまで行くか競ったり、あらかじめ範囲を決めておいて、一人が宝物(ビー玉やお手玉など)を木の根元や校舎の周りに隠し、隠した人が出すヒントをもとに他の人が探し当てる宝探しゲームなどなど、今の様に高額な玩具などなくても次から次へと遊びのアイデアは尽きることなく、時間を忘れ飽きることなく遊びました。

後から友達に聞いた話では、その女の子のうちの一人は成績優秀で有名なうえ運動もでき、クラス委員に何度も選ばれてる人気者だとか、名前は確か・・・・う~ん・・思い出せないんだなこれが /(・▽・;)
ま、そんなことがあって数日後、あの日一緒に遊んだ女の子の一人(クラス委員の子=A子と呼びます)が私のクラスにやってきて言いました!

「今日○○ちゃんが休んだから私がプリントと給食のパンを家まで届けんといけんのよ! けど○○ちゃんの家がよくわからんのん。 ○○ちゃんの家ってズラちゃんちの近くよなぁ?」

「ウンそうじゃ。すぐ近くじゃけん教えてあげるわ!」

そう言うと私はA子ちゃんと落ち合う場所を決め、放課後友達と校庭で遊びながら6年生の授業が終わるのを待っていると、やがてチャイムが鳴りA子ちゃんが現れました。

「ごめんね~!」そう言って駆けてくるA子ちゃんは続けて何か言ってたのですが、そのとき私はA子ちゃんのカバンで揺れてるマスコットに目が行ってしまい、それに気を取られてしまっていた私にはA子ちゃんが何を言ったかは全く聞こえていなかったのです。

A子ちゃんのカバンで揺れてるマスコットはカネゴン(ウルトラQに出てきた怪獣)でした。
$思い出

1966年(昭和41年)に放映された、円谷特技プロダクション制作の特撮 テレビ番組『ウルトラQ』を始めとするウルトラシリーズに登場した架空の怪獣。別名「 コイン怪獣」。お札や硬貨を主食としており、常に食べ続けていないと死んでしまう。

私はそれまで女の子はニャロメとかおばQ、もしくはGサウンズのだれかが好きなくらいで、怪獣を持ってる女の子の姿を見たことが無かったのです。

私がカネゴンに興味を示し話し始めると、な・な・なんと驚いたことにA子ちゃんは私の周りの男の子以上に怪獣や特撮ものに詳しかったのです。

私とA子ちゃんは○○ちゃんにパンを届けると再び学校のブランコに戻り、怪獣や好きなTV番組等々意気投合して話し始めました。

A子ちゃんはほんとくわしかったなぁ、あの怪獣は何トンだとか、弱点はどこどこだとか、私が全く知らない部分をすらすらと話して聞かせてくれました!

やがて話は怪獣からウルトラマン、そしてウルトラセブンへ・・・・!!

しかし私は怪獣の名前こそ知ってはいるものの特徴や得意技などにはまったくもってウトかったのです。
そんな私にA子ちゃんは言いました。

「ズラちゃんは怪獣はあんまり知らんのんじゃなぁ?」

「うん・・・僕はセブンとアンヌ隊員しか見とらんから」

「えっ! アンヌ隊員? アンヌ隊員て一人だけいる女の隊員?」

「うん、そうじゃ。 アンヌ隊員と諸星ダンとセブンだけにしか興味がないんじゃ。」

「ズラちゃん、アンヌ隊員が好きなん?」

A子ちゃんの問いに私の心臓が一瞬ドキンと大きく反応しました!
それでもその時は自分のアンヌ隊員への思いがどういうものなのかがわからず、その時感じたままの答えをしました。

「う~~ん・・・ようわからん。」

「ふ~ん! でもなぁ、もし好きになってもTVの中の人じゃけん、ほんとにはおらん(いない)のよ」

「えっ? おらんてどういう意味? それはアンヌ隊員はほんとにはおらんじゃろうけど、アンヌ隊員役の人はおるが! セブンが始まるとき本当の名前が出るし!」

当時私はアンヌ隊員を演じていた菱見百合子さん(現・ひし美ゆり子さん)のことが気になっていたものの、残念なことに菱見の菱の漢字が読めずにいたのです(笑)

「確かに出るけど、それも本当の名前じゃないんよ。 TVの中の人は本当にはおらんから住所も名前もないし、TVの中の人は芸名って言う嘘の名前なんよ。 それに歌手の人や役者の人だけじゃのうて、ニュースのアナウンサーたちもTVの中だけおる人なんよ、じゃから会いたくても会えんてお婆ちゃんが言っとった!」

「うそ~~!!」

「本当じゃって、うちのおばあちゃんもおじいちゃんもみんな言うとるもん。 ズラちゃんは怪獣やウルトラセブンが本当におると思う?」

「いや思わん! それはTV局が作ったものじゃろう?」

「そうじゃろう、それと一緒よ。 TVで見とる人は全部実在せんの。 あとプロレスで時々血が出るじゃろう? あれも偽物の血なんじゃって。」

A子ちゃんは私にとって衝撃的な言葉を口にしました。

確かに当時はそれに似たような言葉を口にする人が多数いたように思います。
もしかしたら当時の人の少数の人の頭の中には、TVの中にいるひとは現在のCGで作りだされたアイドルのごとく、全てが造り物のように感じられていたのかもしれませんね(笑)

A子ちゃんの言葉に、私は頭のなかで大きな何かがはじけたような感覚に陥りました!

TVの中に居る人は実在しない・・・・もしその言葉をA子ちゃん以外、例えば同級生の男の子などの口から聞いたのであれば笑い飛ばしてたでしょう。

しかし頭がよくて勉強がよくできると評判で、おまけに何度もクラス委員を経験しているA子ちゃんから聞いたために信じ込んでしまったのです。



$思い出

ウルトラセブンの物語に登場して怪獣と戦うウルトラ警備隊。
左上から諸星ダン、彼がウルトラセブンに変身します。 上中央が私の初恋の人、アンヌ隊員。 右上・キリヤマ隊長 下が左からフルハシ隊員・ソガ隊員・アマギ隊員



衝撃だったしすごくショックでした!

そして同時に、さっきA子ちゃんに「アンヌ隊員が好きなん?」と聞かれた時「ようわからん。」と答えた私でしたが「会えない」 「実在しないと」 聞いてから悲しみのようななんとも表現しようのない思いが込み上げ、初めて自分がアンヌ隊員のことが・・・いや正確にはアンヌ隊員を演じてる女性に恋をしている事に気付いたのです!!

私はしばらく何を話していいのかわからなくなっていました・・・が。

“TVに出てる人はTVの中にしかおらん・・・いや、それはおかしい、いくら頭のいいA子ちゃんの言うことでもやっぱりおかしい!”
 
そんな考えが私の頭をよぎり、やがて思いなおしたかのように言いました。

「TVの中の人が実在せんていうのはおかしいよ、だって時々お笑い番組なんかではカメラマンや他の人たちが映るし、カメラで写してるんだからカメラの前には絶対芸能人がおるわけじゃろう?」

「う~ん・・・それはそうかもしれんけど・・・・まあええわ、今はどっちでも! そのうち大人になったらわかるんじゃけん。 それよりズラちゃんさっき言ってたセブンが始まるときに画面に出る名前全部読めるん?」

「う~ん・・・ようわからんけど、諸星ダンは “もりつぎ” なんとかで、フルハシ隊員は“いしいいきち” アマギ隊員が “ふるたにとし”・・・で、あとはようわからん」

「アンヌ隊員は?」

「なんとか百合子!」

「ははは~! なんじゃぁ~、アンヌ隊員が好きなくせに名前知らんの? あれはひしみと読むんよ、最初の字は三菱のひし。 あと諸星ダンとアマギ隊員はあっとると思うけど、フルハシ隊員は違う気がするし、それとソガ隊員はどう読むんじゃろうなぁ・・・あっ、それに隊長も!  私もようわからんからこんどおばあちゃんに聞いとくわ」

「うん!!」

たしか最後にそんな会話を交わし二人は別れました。

しかし、次にA子ちゃんと会った時には他の女の子や私の友達がいたりしてセブンの話にはならず、結局話は中途半端なままでA子ちゃんは卒業して行き、その後は会うこともなく現在を迎えています。

もし今A子ちゃん会ったら、あの時隊員の名前は読み方間を間違っていたし、アンヌ隊員(ひし美ゆり子さん)も実在してて、直接会って乾杯したぞって笑い飛ばしてやれるのに(笑)

白黒TVが一般家庭に普及し、家族団欒には無くてはならないものとなり、それが白黒からカラーに変わリ始めた時代の、何の変哲もないけれど、それでいて心に残る小さな小さな出来事でした。
                  思い出はつづく!!