中央公論 2016年 02 月号 [雑誌]/中央公論新社

この前、久しぶりに母校の早稲田大図書館にいって雑誌などをまとめ読みした。早稲田大は卒業生は早稲田カードを作ると無料で中央図書館が利用できるのである(貸出不可・Wifi利用も不可ではあるが)。雑誌などはいくつも買うと高いのでたまに図書館にいってまとめ読みしている。そこで興味深かったのが、中央公論のトピックであった平成27年6月8日に文科省の「教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割等を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むように努めることとする」ということが記された通知に端を発し、文科省が国立大文系を軽視していると批判が起きたのである。文科省は、誤解であるとして弁明を行ったが、まだこの炎上は鎮火しきっていない。中央公論はそれに関する特集である。


興味深かったのは、滋賀大学長の佐和氏(経済学者)の主張である。タイトルは「『世界』に認められたければ文系に集中投資せよ」である。日本は、富国強兵を是とした時代から、国家にとって役に立つ理系に注力してきた。かつては企業や役所の幹部は理系が大半となると言われたこともあるそうだが、実際は現在でも圧倒的に文系有意である。これは人文社会科学で培われた思考力・判断力・表現力が重要であることを示唆している。社会主義国の幹部には理系が多い。人社知の排斥は全体主義を生み出し、民主主義国家を滅ぼす。英国のオックスブリッジは人文知を重視しているし、米国も然りである。政府は世界ランキングにおける日本の大学の地位向上を目指しているが、そうであれば費用のかからない文系の底上げを行うことが費用対効果で優れているだろうという。だからといって、現状を肯定しているわけではなく、いまこそ人社系学部の改革のチャンスであるし、存在感を示さなければ淘汰の対象となってしまうだろうという。


この中で興味深いのは、全体主義と理系の親和性に関する言及である。ハイエクが指摘するように、全体主義も社会主義も、社会を特定の目的のためにコントロールしようという点では同じ発想である。自然科学者は、ある特定の目的や機能を実現するために、一定の自然科学の法則を用いて機械をつくるが、彼ら理系に属する人が、機械と同じ発想で、社会をある目的のために合理的に計画しようと思うことは不自然ではない。問題は、社会の目的が何であるかである。近代化において社会の目的は、経済成長のために重工業の発展というように目的がある程度明確であり、その社会では皆がその目的を共有しているため、国家が教育等の政策を通じて社会を誘導しコントロールすることは不可能ではない - 実際社会主義は重工業化においては効率的に機能していた。しかし、社会が近代化し、成熟化すると社会はそうした目的を喪失してしまう。仮に社会に一定の目的があったとしてもそれを民主的に集計することは、アロウの不可能性定理が示すように、不可能である。集計が不可能な以上、人間臭い政治的駆け引きは存続しつづける。佐和氏も指摘しているが、人工知能の発達によって、薬剤師などの仕事は次々と人工知能に取って代わられるだろう-しかし先の例のように政治的駆け引きにおける相手を説得する人対人において求められる思考力・表現力は不滅であり、人文社会学は重要性を持ち続けるのである。文系を軽視するというのは全く持ってナンセンスなのである。


もちろん、少子化する中で、私立大は600校近くあるが年間4000億円程度しか税金が投入されていないが、たった八十数校しかない国立大は年間1兆円以上を浪費している。国立大は改革の余地がある。特に少子化の酷い地方国立大は統廃合は不可避であろう。文科省の通知がなぜ人文社会系を狙い撃ちにしたのかは理解に苦しむ - 改革は理系も含めて行うべきである。文系と理系は両輪である。安保反対におけるSEALDs所属の学生の発言をニュースみるたびに、政治的言語の欠如と発想の貧困さを感じる。テレビをつければ軽薄なアイドルが人気を博する。文系の軽視は、政治的貧困、著しい文化停滞を招き、我が国の国力を長期的にみれば損なうだろう。

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昨日、第68回カンヌ国際映画祭グランプリ受賞作「サウルの息子」を新宿シネマカリテで観てきた。映画の舞台は1944年10月のアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所である。主人公のサウルは、ハンガリー出身のユダヤ人であり、収容所の中で同胞の遺体の処理の業務を行うゾンダーコマンドであった。ゾンダーコマンドは4か月ほど仕事に従事した後に、彼らも抹殺される。映画は、サウルが遺体の中に自分の息子をみつけ、なんとかユダヤ教式の方法で埋葬したいと奔走する2日を描いている。

強制収容所ではユダヤ人は火葬されたが、ユダヤ教では本来は火葬は絶対に行わない - ユダヤ教は最後の審判によって死者は復活すると考えているからである。本映画はカメラワークが特徴的で、主人公の周辺を主に映し出し、映像からの情報量は多くはない。映像からの情報を、サウルが知覚が可能な範囲に限定することで、観客はサウルと同じ視点から鑑賞できるという効果を狙っているのだろう。サウルの背後にぼんやりと映し出される遺体の山、次々と何のためらいもなく殺害されていく人々・・・、それでもゾンダーコマンドやナチスの看守も、何ら表情に出ない-ふと「一人の死は悲劇だが、数百万人の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉が頭に浮かぶ。

あまりの異常性に驚かされるが、70年ほど前に実際に起きていたことである。ただ、人間の忘却力は素晴らしいもので、2012年の独シュテルン誌の調査だとドイツの18~29歳の若者の21%がアウシュビッツが絶滅収容所だと知らなかったという(*)。映画を観て初めて知ったのだが、アウシュヴィッツで収容者たちの武装蜂起があったそうだ。極限状態の中で看守の目を逃れ、冷静に戦略をたてていた事実には驚かされる。ホロコースト映画において、主人公にここまで密着した作品は例がなく貴重である。歴史は繰り返す。日本でもヘイトスピーチが話題になっているが、思考的な偏狭さ、他者への無理解が、過去においてどれだけの悲劇を生み出したのかを再確認する意味でも本作を鑑賞する意義は大きい。
(*)
http://www.afpbb.com/articles/-/2853459

ただ、本作の評価を調べていたのだが、毎日新聞の「サウルの息子 とにかく戦争は嫌だ」という本作の評の一部に疑問を感じる。カメラワーク等の指摘はもっともなのだが、「映画を見終わって強く思うに違いない。とにかく、戦争は嫌だと。」書いてあるが、不思議なコメントである。ユダヤ人絶滅政策はナチスが政策的に行っていたことで、国家間戦争と何か関係があるのだろうか。ナチスが戦争で領土を広げ、そこにいたユダヤ人も収容所に送ったため被害が拡大したから、その点では無関係ではないが、少なくとも本作をみて戦争は嫌だという感想が出てくるものではないと思うのだが。
* http://mainichi.jp/articles/20160122/dde/012/070/010000c
ハーバード大学は「音楽」で人を育てる──21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育/アルテスパブリッシング


本屋で「ハーバード大学は『音楽』で人を育てる」が目に留まったので買って、読んでみた。著者の菅野恵理子氏をどこかで聞いたことがあると思ったら、ピティナのHPにて音楽のレポートを連載されている(http://www.piano.or.jp/report/04ess/livereport/ )。国際コンクールのレポートもあるので、以前このレポートをウォッチしていたことがある。タイトルに「ハーバード大」とついているが、インパクトをもたせるためで、中身はハーバード大に限らず、米国の名門大のリベラルアーツ教育(主軸はもちろん音楽)や、音楽教育の歴史など幅広く扱っている。孫引きが散見されレポートのような印象を受けるが(p.222のウィキペディアからの引用はいただけない)、欧米の音楽のリベラルアーツ教育を垣間見るには良書である。


米国の大学は学部課程はリベラルアーツを重視しているとは知っていたが、ハーバード大学の学部課程では6600人の学生中、3000人以上が音楽活動に携わっているということには驚かされた。米国名門大では芸術活動は大学入試の際にプラスの評価を得ることが多いのだという。入学後も、アイヴィーリーグ等の名門大でも実技の演奏で単位認定されたりと、音楽の評価は高いという。日本だとここまで音楽が盛んな総合大はないだろう  日本では国際基督教大は欧米のリベラルアーツ教育を行っているので音楽も専攻として学べ実技もあるようであるが、一般的な総合大では教養科目で学べる程度である。

米国にはジュリアードやカーティスなどの名門音楽大があり、世界中から才能ある音楽の俊英が目指す。これは米国のソフトパワーを形成し、国力となる。音楽は聴く人はもちろん演奏する人々のクオリティ・オブ・ライフに資するだけではなく、巨大な音楽市場は経済的な富をも生み出す。日本は部活・サークルレベルでは吹奏楽・オーケストラ等の音楽教育が盛んで、街中には音楽教室なども多いが、高等教育機関では芸術教育は乏しい。部活等の活動も良いのだが、問題はどれも実技が中心である点である。音楽は座学と実技は両輪なので、どちらか欠けることは望ましくない。例えば、ロマン派が生じた社会経済的・思想的な背景も知らずに、ショパンは弾けないだろう。日本の実技偏重・技巧崇拝は日本の思想的貧困さを物語っている-技巧は目的ではなく、結果である。鑑賞する際には座学が欠如していると、内容等がしっかりと理解できないので鑑賞の大きな障害となる。こうした座学的な面は高等教育で行うべきだが、いかんせん芸術教育は教育の収益性がよく分からない上に、実技となると楽器を揃えたり等の費用的な問題、クラシック音楽の歴史的バックグラウンドが浅い等の要因で、あまり総合大には普及しておらず、数少ない音楽大や芸術大に教育が独占されている。政府は観光立国を目指しているが、そのためには観光資源である文化芸術を担える人材が必要であり、実技家の育成に主軸が置かれた音楽大や芸術大だけではなく、人材の厚み出すには総合大でもこうしたソフト面での教育を強化すべきであるように思われる。本書は今後の日本の教育の在り方を考える上でも1つの参考となろう。

ユダヤ人とクラシック音楽 (光文社新書)/光文社


年末年始に読み返した本に「ユダヤ人とクラシック音楽」という本がある。まだ書評を書いていなかったので、この際に書くことにした。ユダヤ人の音楽家は非常に多い。作曲家のメンデルスゾーン、シェーンベルク、ガーシュイン、ピアニストのギレリス、ホロヴィッツ、アシュケナージ、指揮者のバーンスタイン、ワルター等、挙げ始めたらきりがない。ユダヤ人とクラシック音楽は切っても切り離せない関係にある。本書はユダヤ人の成り立ちにはじまり、ユダヤ人とクラシック音楽との関係性を平易な言葉でまとめている。特に本書で興味深いのが、日本におけるユダヤ人音楽家の活躍をまとめている点である。


アジアの極東にユダヤ人音楽家がいたの?と思うかもしれないが、日本政府は西洋化の一環として西洋音楽を受容を進めており(プル要因)、一方で、ヨーロッパではユダヤ人排斥が起きており(プッシュ要因)、日本には多くのユダヤ人音楽家が来日していた。NHK交響楽団の前身の新交響楽団では著名な指揮者のローゼンシュトックが常任指揮者を務めていた。ちなみに、彼の通訳を行っていた齋藤秀雄は後の桐朋音楽大に発展する音楽教室の設立者の一人である - こちらの音楽教室は中村紘子や小澤征爾を輩出している。ベルリンフィルのコンサートマスターを歴任したユンケルも日本で指揮をしていたというから驚かされる。戦後日本ピアノ界の重鎮でショパンコンクール審査員まで務めた園田高弘はユダヤ人ピアニストのレオ・シロタの弟子である(ちなみに、レオ・シロタの娘のベアテはGHQで日本国憲法の起案に携わった一人である:黒田睦子・藤田晴子等も彼に師事していた)。日本人で初めてロンティボーやショパンコンクールに入賞した田中希代子もユダヤ人のピアニストのクロイツァーに師事しており、他にもクロイツァーの弟子にはフジコ・ヘミングもいる。というように、日本のまだクラシック音楽のレベルを底上げしたのはユダヤ人音楽家いっても過言ではないほどにユダヤ人音楽家の活躍がみてとれる。しかし、世界大戦等を経て、多くのユダヤ人音楽家は米国に渡ってしまったのである。


ちなみに、ユダヤ人絶滅政策を行ったのはヒトラーであるが、彼が好んだ作曲家を知っているだろうか。その名もワーグナーである。彼はユダヤ人嫌いで有名で、「音楽におけるユダヤ性」という本で、ユダヤ人音楽家のメンデルスゾーンやマイアベーアを徹底的に批判しているが、ユダヤ人の絶滅についても触れている。強制収容所ではワーグナーの音楽にのせてユダヤ人がガス室に送られていたというが、それはユダヤ人収容者によって演奏されていたという。こうしたこともあり、イスラエルではワーグナーの曲の演奏はできない。


ユダヤ人になぜ音楽家が多いのだろうか。本書は書いていないが、音楽家の社会的な地位は18~19世紀において低く(かの有名なF.リストが音楽家の地位に関して論文を書いているほどである)、ユダヤ人でもなることが出来た職業の1つであることが挙げられよう。また、近代になって盛んになった金融業・法曹界・医療界におけるユダヤ人の活躍は、芸術家の庇護を可能とし、ユダヤ人と芸術は密接に関係していったのであろう。またロマン派音楽以降、作曲家や演奏家の精神性をも試されるようになった。ユダヤ人の、社会的に迫害されることで強いられる内省と専心、また神との対話で育まれる自己実現、神に選ばれた民族という自負心が、ロマン派以降の音楽表現において有利に働いたとは考えられないだろうか。


ちなみに、本書ではアルゲリッチはユダヤ系ではないと書いているが、どうやら誤りのようである。アルゲリッチのドキュメンタリー映画を観た際、アルゲリッチの母親はヨーロッパを逃れアルゼンチンに移住したユダヤ人というのである。ユダヤの血は母親から引き継がれるというから、アルゲリッチもユダヤ人といえよう。


ユダヤ人とクラシック音楽との関係性を書いた本は珍しい。非常に平易なので、ぜひ興味があれば一読をおすすめする。

年末年始に観た映画3本紹介。


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ダライ・ラマ14世を追ったドキュメンタリーである。正直、私の関心事は西洋に偏っているのでキリスト教には明るいが、仏教には高校の歴史・倫理程度の知識しかない。ダライ・ラマとは、如来・菩薩等の偉大な仏教修行者の化身であるという。宗教的指導者であるが、中国に侵略される前はダライ・ラマ14世はチベットの君主でもあった。チベットは転生継承制度をとっているため血統によらずに後継者が決まる。ダライ・ラマ14世もありふれた農家生まれだが、チベット政府の捜索隊がお告げに導かれ、彼を後継者として発見したのだという。彼はノーベル平和賞も受賞しているが、中国政府はダライ・ラマ14世を民衆をたぶらかすと批判する。それはマルクスが宗教を「民衆のアヘン」と表現したように、宗教を認めていないからである。ドキュメンタリーを通して、ダライ・ラマ14世の素顔や、チベット民族の本音を垣間見え非常に有意義であった。ダライ・ラマ14世の素朴さや率直さ、非暴力の姿勢には感銘を受ける - ここまで懐深くありたいものである。ただ意外だったのはダライ・ラマ14世は中国の一部であることを認め、中国という大国の中で自治を獲得することを目指しているという点である。大らかで貴い教えを示す一方で、徹底的な現実を直視ししており、中国という大国から独立することの困難さ、また中国大国の一部であることのメリットを考慮し、中国の一部での自治獲得こそが最善であると考えているのである。ただ編集で、勉強嫌いで何事にも無関心な”現代風の”日本の若者へのインタビューを出す一方で、勉強が好きでやる気に満ちたチベットの若者を出し、対比させるというのは、編集が恣意的な気がした。ただ、チベット人の足るを知る、世の中のために学び働くという姿勢は学ぶべきところがある - 監督なりの問題提起としてさきの対比を行っているのかもしれないが本作の作品の趣旨に合っているのかは疑問。とはいえ、非常に勉強になるのでオススメしたい。

バタフライ・エフェクト プレミアム・エディション [DVD]/ジェネオン エンタテインメント
 
蝶の羽ばたきが地球の裏側でハリケーンを引き起こすこともありうるというカオス理論のバタフライ効果をベースにした作品。過去に戻り過去を変えられる主人公が、望む状態を得ようと、幾度も過去に戻りやり直すというストーリー。過去の少しの修正で、現在はここまで大きく変わってしまう・・・、バタフライ効果をベースに素晴らしいストーリーを構築している。辛口の採点の多い「Yahoo!映画」で現在、4.31点という高得点で、映画評論家からの評価も高い作品である。たしかに全く観てて飽きないし、結末も納得のいくものであるし、扱っているテーマも興味深い。良い映画には違いはないが、ちょっと評価が高すぎる気がしないでもない。
ブリングリング [DVD]/ポニーキャニオン
有名人の邸宅が、10代の若者集団に次々と盗難にあうという実話をもとにした作品。監督はソフィア・コッポラ、エマ・ワトソンが出演している。特に窃盗行為を批判するわけでもなく、若者が連続窃盗を行う様子を等身大で描写している。本作も、ソフィア・コッポラらしく、そつなく要点をついてまとめており、映像はどことなく淡く、なんとなくおしゃれで、どこかメランコリック。監督自身は映画の描写に注力して、共感するかどうかは観客に委ねている- それゆえか、なぜか感じる倦怠感と無力感。上映時間も短く、扱っているテーマも大きくなく、佳作という感じだが、休日の午後にゆったりと観るには良い作品だと思う。