この前、久しぶりに母校の早稲田大図書館にいって雑誌などをまとめ読みした。早稲田大は卒業生は早稲田カードを作ると無料で中央図書館が利用できるのである(貸出不可・Wifi利用も不可ではあるが)。雑誌などはいくつも買うと高いのでたまに図書館にいってまとめ読みしている。そこで興味深かったのが、中央公論のトピックであった平成27年6月8日に文科省の「教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割等を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むように努めることとする」ということが記された通知に端を発し、文科省が国立大文系を軽視していると批判が起きたのである。文科省は、誤解であるとして弁明を行ったが、まだこの炎上は鎮火しきっていない。中央公論はそれに関する特集である。
興味深かったのは、滋賀大学長の佐和氏(経済学者)の主張である。タイトルは「『世界』に認められたければ文系に集中投資せよ」である。日本は、富国強兵を是とした時代から、国家にとって役に立つ理系に注力してきた。かつては企業や役所の幹部は理系が大半となると言われたこともあるそうだが、実際は現在でも圧倒的に文系有意である。これは人文社会科学で培われた思考力・判断力・表現力が重要であることを示唆している。社会主義国の幹部には理系が多い。人社知の排斥は全体主義を生み出し、民主主義国家を滅ぼす。英国のオックスブリッジは人文知を重視しているし、米国も然りである。政府は世界ランキングにおける日本の大学の地位向上を目指しているが、そうであれば費用のかからない文系の底上げを行うことが費用対効果で優れているだろうという。だからといって、現状を肯定しているわけではなく、いまこそ人社系学部の改革のチャンスであるし、存在感を示さなければ淘汰の対象となってしまうだろうという。
この中で興味深いのは、全体主義と理系の親和性に関する言及である。ハイエクが指摘するように、全体主義も社会主義も、社会を特定の目的のためにコントロールしようという点では同じ発想である。自然科学者は、ある特定の目的や機能を実現するために、一定の自然科学の法則を用いて機械をつくるが、彼ら理系に属する人が、機械と同じ発想で、社会をある目的のために合理的に計画しようと思うことは不自然ではない。問題は、社会の目的が何であるかである。近代化において社会の目的は、経済成長のために重工業の発展というように目的がある程度明確であり、その社会では皆がその目的を共有しているため、国家が教育等の政策を通じて社会を誘導しコントロールすることは不可能ではない - 実際社会主義は重工業化においては効率的に機能していた。しかし、社会が近代化し、成熟化すると社会はそうした目的を喪失してしまう。仮に社会に一定の目的があったとしてもそれを民主的に集計することは、アロウの不可能性定理が示すように、不可能である。集計が不可能な以上、人間臭い政治的駆け引きは存続しつづける。佐和氏も指摘しているが、人工知能の発達によって、薬剤師などの仕事は次々と人工知能に取って代わられるだろう-しかし先の例のように政治的駆け引きにおける相手を説得する人対人において求められる思考力・表現力は不滅であり、人文社会学は重要性を持ち続けるのである。文系を軽視するというのは全く持ってナンセンスなのである。
もちろん、少子化する中で、私立大は600校近くあるが年間4000億円程度しか税金が投入されていないが、たった八十数校しかない国立大は年間1兆円以上を浪費している。国立大は改革の余地がある。特に少子化の酷い地方国立大は統廃合は不可避であろう。文科省の通知がなぜ人文社会系を狙い撃ちにしたのかは理解に苦しむ - 改革は理系も含めて行うべきである。文系と理系は両輪である。安保反対におけるSEALDs所属の学生の発言をニュースみるたびに、政治的言語の欠如と発想の貧困さを感じる。テレビをつければ軽薄なアイドルが人気を博する。文系の軽視は、政治的貧困、著しい文化停滞を招き、我が国の国力を長期的にみれば損なうだろう。







