あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。昨年は大学院を修了し、新卒として入社という、学生から社会人へと大きな人生の転機がありました。今年も社会人として経験を積んでいき、精進してまいります。本年もブログをご愛顧のほどよろしくお願いいたします。

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聴衆の誕生 - ポスト・モダン時代の音楽文化 (中公文庫)/中央公論新社

クラシック音楽のコンサートに行くと、静寂の中で聴衆が聴き入り、「一体音楽家はなぜこうした作品を作曲したのだろうか」、「こうした曲を生み出した時代的な背景はなんだろうか」、と音楽に向き合う。こうした音楽の聴取の仕方を当然と考えている人は多いかもしれないが、実際はこうした音楽の聴き方は18~19世紀に生まれたものである。バロック~古典派の音楽の時代、音楽家は貴族の雇われ人に過ぎず、貴族のパーティ等のために音楽を書いていて、生真面目に演奏を聴く人ばかりではなかった。ハイドンの交響曲94番は時折大きな音をはさむので「驚愕」と呼ばれるが、これは居眠りした人を起こすためだったともいわれる。こうした聴取の在り方に変化が訪れたのは、近代化によって市民社会が誕生し、様々な人がクラシックコンサートに出かけるようになってからである。娯楽的に音楽を好む人はヴィルトゥオーソ的な演奏家に群がる一方、資本主義経済の確立による市場拡大にって一部の真面目な聴衆をターゲットにしたコンサートも軌道に乗り始める。この時点で、前者の”ポピュラー的な音楽”と、”クラシック音楽”との分離が生じるのである。我々がイメージするクラシック音楽の聴き方は、近代に生じた後者の聴取の仕方なのである。しかし、現在、クラシック音楽も商業化されていき、消費物となっており、聴取の形態こそ真面目でも、クラシック音楽に多くの人が期待しているのはポピュラー性なのではないかと思う - ブーニン現象が良い例である。録音技術の飛躍的向上により、近代に入りコンサートホールで真面目に聴取されてきたクラシック音楽が、日常的に聴かれるようになり、もはやその持つ独特のオウラを失ってしまった。個人の経済活動の拡大により、音楽を1曲まるまる聴取するのは機会費用が高く忌避される。結果、クラシック音楽は最も有名なメロディのみピックアップして演奏されてもあまり違和感がないようになった - クラシック音楽の番組で長大な交響曲の有名な箇所のみ演奏するのもこの例といえよう。こうした潮流の中で、環境音楽や、とりとめのない反復的な音楽ミニマルミュージックが生まれるのは不思議なことではない。著者はこれらにも豊かな音楽文化が花開く可能性があるという。しかし、容姿などを売りにした音楽家の台頭、カタルシス的に消費される音楽、クラシックの商業的利用などをみるに、これを豊かな音楽文化といっていいのだろうかと思う。真面目な聴取というのがもはや過去のスタイルとして廃れていき、19~20世紀に確立したクラシック音楽文化が消滅していくように感じられるが、これは人間社会が構築した貴重な文化の喪失に思えてならない。

寒いこの頃。夜は静かに映画を観ることが多い。最近観た中で良かった映画を3本紹介。
危険なメソッド [DVD]/TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D)
ユングを主人公に、フロイト、またユングの愛人のシュピールラインの織りなすドラマを描く。シュピールラインはキーラ・ナイトレイが演じる。ユングの夢分析などが生まれる人間的な背景がうかがえる。ただ、この時代に確立された心理学は、科学的には疑問が呈され、信憑性は疑問である。あくまで偉大な心理学者の歴史的な物語を観るという点では良作。ちなみに、シュピールラインはユングと愛人関係にあり、その後心理学者でも有名になるが、世界大戦中にナチスによって娘とともに殺害されたそう。

ミラル [DVD]/アミューズソフトエンタテインメント

孤児院育ちのパレスチナ人である主人公のミラルの視点から、イスラエルとパレスチナの微妙な関係、そして紛争の中にあって孤児たちを懸命に育てた女性の姿を描いたドラマ。イスラエル建国によって生じたパレスチナ問題を、パレスチナ人の視点から描いた貴重な作品。非常にストーリーも分かりやすく、観やすい作品となっているので、イスラエル・パレスチナ関連に興味があればぜひ。


アルバート氏の人生 [DVD]/トランスフォーマー
単身の女性が一人で生きる道が閉ざされていた19世紀のアイルランド・ダブリンを舞台に、女性であることを隠しホテルのウェイターとして働く主人公アルバートの苦悩と苦難を描いた作品。カトリックは避妊・中絶を忌避するため、かつては私生児が多かった。主人公も私生児として生まれ、様々な苦難を経て、性別を偽って生きることを選択するのである。主人公を演じるグレン・クローズの演技は見事である。かつて女性の権利が獲得されていない時代は女性は抑圧されていた。同国の暗い歴史を描いた作品で「マグダレンの祈り」があるが、こちらも秀作で、オススメ。
気になっていた映画である「黄金のアデーレ」を渋谷のミニシアター「シネマライズ」で観てきた。わざわざ渋谷に観に来たのは、こちらのシネマライズが2016年1月に閉館予定のため。本作が最後の上映作品なのである。こちらのシネマライズは1986年にオープンし、渋谷を代表するミニシアターとして様々な映画を公開し、日本のミニシアター文化を担ってきた。シネマライズにはなかなか来る機会がなかったのだが、閉館前に駆け込みで渋谷のミニシアター文化を堪能してきた。渋谷はミニシアターの集積地であったが、視聴環境の変化によって、次々と閉館に追い込まれ、もはや日本のミニシアター文化は潰えつつある・・・。

肝心の映画だが、久しぶりに良い映画を観たという充足感を感じる。クリムトという画家が描いた「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像」という絵画を巡る実話である。こちらの作品は裕福なユダヤ人の実業家が描かせた作品で、世界大戦の混乱期にナチスによって略奪され、ナチス・ドイツ敗戦後、オーストリアのベルヴェデーレ宮殿美術館に所蔵されていた。しかし、米国在住の遺族であるマリアという女性が返却を求めて訴訟を起こし、ついにオーストリアから取り戻すというストーリーである。個人的にクリムトの作品が好きなのだが、ただ黄金に包まれる妖艶な女性の絵画としてみていなかった。この映画を通して、この絵画の数奇な運命を知り、映画を観ながら胸が熱くなった。

映画中、主人公のマリアは気丈に振る舞うが、頑なにウィーンには戻ることを拒み、ドイツ語も話そうとしない。映画が進むにつれて、徐々にその理由が明らかになっていく。ナチス政権下では多くのユダヤ人が財産を奪われ、家族を殺され、平穏な日常を破壊され、人生を狂わされた。マリアの家庭も、ウィーンに移り住んだ時は貧しかったが、賢明に働いて財を成し、芸術を愛し、幸福に包まれた生活を送っていた。しかし、ナチスが政権を得て、ユダヤ人弾圧を熾烈化する中、命からがらマリアとその夫は両親を残し亡命するのである。家財は略奪され、すべてを失い、失意の中で、両親は絶滅収容所で命を落とす。マリアがオーストリアへの帰国を拒んだのは、思い出したくない忌々しい記憶よりも両親に対する負い目故なのである。結局、絵画返還のためにマリアはオーストリアに渡り、オーストリアでの調停の結果、絵画返還を認められるに至る。映画の最後、マリアは住んでいた家を訪れ、過去の記憶が蘇り、叔母アデーレの微笑みとともに映画は終わる。

映画の脚色かもしれないが、実はこの遺族の女性は特に絵画返還には積極的ではないが、親戚である弁護士(かの有名な作曲家シェーンベルクの孫だという)にも促され、返還を勝ち取るのである。映画中、弁護士は最初は金銭目的だったと心境を吐露するが(実際そうだろう)、この裁判後はナチスの略奪品の返還に尽力しているそうだ。結局、この絵画は遺族の手に戻るが、実業家に百数十億円で売却され、現在はNYのノイエ・ギャラリーに展示されている(NYへ以前行った時にこちらを訪れたのがあいにく閉館日でみれなかった・・・)。売却の話を聞くと金目当てのようだが、彼女は売却費用でロサンゼルス・オペラを支援したり(彼女の夫はオペラ歌手)、親戚に寄付したりし、自身は裁判前から住んでいた慎ましい家でに暮らし続けたという - 売却はおそらく管理上の問題等だろう。ただ、映画の作成上仕方がないのかもしれないが、オーストリアが一方的に悪者扱いというのは気の毒な話である。あと、映画に出てくるマリアに味方するオーストリア人がかなり脚色されているようで、歴史的な信憑性はある程度は割り引いてみなければならない。

シネマライズの最後の上映作品に相応しい名作である。映画もだが、渋谷にお越しの際は、ミニシアター文化の本丸だったシネマライズも訪れてはどうだろうか。写真はシネマライズに飾ってあった「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像」のパネルである。この妖艶な笑みとともに、幕を閉じるとは、さすが粋な終焉である。

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女性裁判官は全員が「違憲」意見 夫婦同姓の合憲判決
「夫婦は同姓」「女性は離婚して6カ月間は再婚禁止」とする民法の規定は、憲法に違反しないか。明治時代から100年以上続く二つの規定について最高裁大法廷(裁判長・寺田逸郎長官)が16日の判決で、初の憲法判断を示した。いずれも国への賠償請求は退けたが、夫婦同姓については「合憲」と判断。-- 朝日新聞2015.12/16


先週のニュースであるが、最高裁が夫婦同姓を合憲と判断した。先輩がこの判決に絡んでいるので、気になっていたのだが、仕事が忙しくて全然ウォッチできていなかった。以前も記事で書いたが 、私は選択的夫婦別姓を導入すべきだと考えているので、今回の判決は残念だ。


日本の司法は消極的で、伝家の宝刀である違憲判決をあまり出さない。最高裁は「国会で論じ判断するものだ」と言及したそうだが、高齢の保守議員が多い国会で選択的夫婦別姓が実現される可能性は乏しく、この現状を踏まえるに、最高裁は夫婦同姓で困難を強いられている人の救済を放棄したも同然である。しかし、3名の女性裁判官の全員が違憲判決というのは興味深い。


女性の社会進出によって、婚姻後においても同じ姓を使用する必要性は増大している。また姓の変更は現実的にはほとんど女性が行うのであって、婚姻する女性に姓の変更による自己喪失感を強いる制度であって、日本国憲法が定める個人の尊厳と両性の平等を無視した制度である。こうした理由から婚姻を避ける人がいる現状を踏まえるに、夫婦同姓の強制は、婚姻の自由を制約するものと言わざるを得ない。婚姻した3組に1組が離婚するという、家族という形が流動的な今日、姓が持つ重要性は弱体化している。もはや、夫婦同姓を強制する合理性は失われており、選択的夫婦別姓を認めるのが筋というものだろう。女性の権利が軽視されている現行制度を直視せず、「国会で論じ判断するものだ」という責任回避的な姿勢を示すのであるから、もはや最高裁は「憲法の番人」と呼ぶに値しない。
【判決全文】http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/546/085546_hanrei.pdf


どうでもいいが、こうした不条理を感じると、ついつい中島みゆきを聴きたくなる。音楽というのには、法学等が持つ簡明な合理性を超越する、人間が持つ感覚的・感情的な、合理的には割り切れない何かを充足する何かがあると感じる。合理性と非合理性のはざま、論理的で合理的学問と感覚的で感情的な感性の間、そのバランスが重要なんだと思う。