菊地 浩之氏の財閥・閨閥等の本をあれこれ読んでいるのであるが、財閥解体後にそれでは財閥系の企業はどうなったんだろうか?と気になって、その後の企業グループの展開についての本を読んでみた。企業の歴史はなかなか奥が深く面白い。

 

戦後のGHQの改革で、創業家が排他的に支配する財閥は解体されたが、いまだに三菱・三井・住友などを名を冠する企業は多い。もちろん、戦前のような財閥が復活したわけではなく、メインバンクを軸にグループ内で融資・取引・人的交流により、「企業集団」(親子関係などでつながった企業の縦のまとまり)や「企業グループ」(独立企業が、資本・取引・融資・人的関係などでつながった横のまとまり)が成立したのだ。なお、「ケイレツ」とは企業集団と企業グループを包括する概念だという。戦後、財閥解体で散り散りになった企業が再結集し、社長会などを定期的に開催し、同じ出自の企業同士がまとまっていきケイレツが形成されたのである。

 

三井・三菱・住友は旧財閥系で分かりやすいが、芙蓉・三和・一勧はなんだろうか。これは銀行を中心に戦後形成された企業集団のことであり、芙蓉グループは、安田・根津・浅野・大倉財閥等の系譜を引く企業と富士銀行(現:みずほ銀行)の融資系列である。本書は株の持ち合い等から企業集団を分析しているが、結論からいうと、メガバンが再編されたことで、三和・一勧はもはや企業集団としては存在しないと評すべきと結論付けている。

 

三和グループは、鴻池・山口・鈴木・岩井・久原財閥や、日窒・日産コンツェルン等の系譜を引く企業と旧三和銀行(現在の三菱UFJ銀行)の融資系列からなる企業集団だったが、東海銀行と合併してUFJ銀行となり、さらに東京三菱銀行に吸収合併されている。みどり会という旧三和系企業を中心とする人的・企業間ネットワークは残っているが、企業集団とはもはやいえない。一勧グループ(第一勧銀グループ)は、旧渋沢・旧古河・旧神戸川崎・旧鈴木商店系他の第一銀行取引先と勧銀十五社会他の日本勧業銀行取引先の融資系列からなる企業集団である。こちらは第一勧銀、富士銀行、日本興業銀行が統合し、みずほフィナンシャルグループになった結果、ほぼ消滅してしまった。

 

それにしても、三菱グループの社長たちが集う「金曜会」という会合がある(三井には「二木会」(第2木曜日に集まることから)、住友には「白水会」(創業家の屋号の泉を上下に分けたことに由来)がある)。メディアでは、あたかも社長会がグループの重要な意思決定を行っているように描かれるが、実際のところは、そこまで強制力があるようなものではなく、実際に社長会に出席していた人によると、ほとんど同窓会やサロン的な集まりという意見も多いようである。当然ながら会社間で株の持ち合いはあれども、それぞれ独立した決算なので、自社の事業優先とのことで、メディアで描かれるような非公開の会議で重要な企業方針が決まるというような陰謀論的な会議ではないようだ。

 

個別銘柄にも投資を考えているので、企業理解の一助として非常に参考になった一冊である。

 

 

大企業には学閥があるといわれるが、その学閥の源流を、各財閥(三菱・三井・住友・安田)の学卒者採用の歴史から概観するのが本書である。

 

前提知識であるが、当時の高等教育機関のシステムは現在とは大きく異なる。当初、学位授与ができるのは帝国大学に限られていたが、その後、1918年に旧制専門学校が公立及び私立の旧制大学へと移行した。本書は、財閥が採用した大卒(学卒者)の取り扱いとして、本書では帝国大に加えて高等学校・大学予科・専門学校等(以下、高等学校等)を大学として扱い整理している(今の区分だと高等師範学校も大学相当であるが教員養成のため本書の射程外である)。

 

ちなみに、用語に引きずられやすいが、いまの大学1年生(18~19歳)が、高等学校3年・大学予科3年・専門学校2年に該当するので、高等学校等といっても、いまでいうと大学1~2年生ぐらいの感覚である。当時の進学率からすれば相当なエリートである。ちなみに、戦後、1960年になっても大学進学率は8.2%であり、男性で13.7%だが、女性は2.5%しかないので、大学進学率が6割近い現在とは感覚がだいぶ違う。

 

それに感覚が違うといえば、帝国大への進学も現在とは異なる。昔は高等学校入学が難関であり、1940年当時の進学率は1%程度だった(旧制中学ですら7%程度の進学率だった)。ただ帝国大の定員は高等学校の定員数と大差なかったため、ほとんど無試験で入れたそうだ。当時はまだ農家等も多く、現代でいう中卒の学歴で働く人も多く、高等学校進学者は、それなりの家の人生まれが多かったと推察される。加えて言うと、華族は、学習院に無試験で入学でき、高等科までの進学が保証されていたが、1922年以降は学習院高等科を卒業した生徒は帝国大に入学する資格が与えられていた。故に帝国大卒の学歴は、階級と無縁ではなかった。

 

各社ごとに若干の差はあるが、やはり東京大学卒のシェアが大きく、そのほかは京都大や商科大もそれなりに多く、私立では慶応大の勢力が大きい。早稲田は慶応より少ないが、早稲田は政治学に注力していたので、経済・商学に力を入れていた慶応に比べると財界では勢力としては小さかった。戦後、商科大学(一橋大・神戸大・小樽商科大)はシェアが落ちたようであるが、商科大の区部がなくなり、各大学でも経済・商学・経営などを教えるようになったことで優位性が落ちたのではないかと思われる。

 

ただ面白いのは三井銀行の話である。あくまで当時であるが、三井銀行の常務取締役は東大・慶応と青学出身者の三分割だったそうだ。1899年以降の採用大学をみても、慶応がトップで、次いで東大で、この2校で半数を占めるが、続いて東京高商(一橋)、青学と続く。青学の採用者は当時は早稲田より多かったというのが意外である。ただ戦後になると事情も変わり、三井グループ全体で慶応出身者の割合が増加し、東大のシェアが低下し、高商閥は大幅減で、三井銀行特有の青学閥も霧散している。

 

戦後、一貫して慶應の勢いが強いが、これはやはり実学志向と経済学重視の校風によるものと、幼稚舎からあるため都心在住の富裕層の家庭の子女が多いためだろう。戦後に華族制が廃止されて、学習院は帝国大への無試験入学のルートを失ったので、優位性を失い、富裕層の子女が慶應に集まった影響もあるだろう。早稲田のほうは系属の初等部は2001年開設で歴史は浅く、郊外の国分寺にある。ただ母校の早稲田を擁護しておくと、政界・行政・文芸やジャーナリズム界隈等では早稲田のほうが強いので、校風によるものであり、財界では慶応が優勢という話である。

 

正直、各財閥での学閥自体はあまり興味がないが、全体的に歴史の流れとしてみると、面白い傾向があるものである。ただ正直、細かいデータが多く、また、正直、そこまで各財閥で大きく差がない(だいたい東大と慶應が強い)ので、そこまで面白みがなかったといえば、なかった。

 

 

菊池浩之氏の「日本の地方財閥30家」を読了。財閥家といえば三菱・三井・住友の三大財閥などが思い浮かぶかもしれない。しかし、全国区ではないが、地方には地元ではよく知られた企業グループが数多く存在する。著者は資産家と財閥を一応は区別しており、資産家のうち一定の基準(封鎖的な家族・同族支配や事業の多角性)を満たしたものが財閥になるそうだが、その境界は曖昧である。例えば、麻生太郎の実家の麻生家は、麻生財閥といわれているが、当時は石炭しか取り扱っていなかったので、戦後のGHQの財閥解体指令からは外れている(麻生グループ百年史)。そこで、本書では地方財界で無視しえない家系であれば、地方財閥として取り上げているとのことである。エリアごとに甲州財閥・江州財閥・中京財閥・九州財閥・阪神財閥として各エリアから数家を取り上げ、事業別に醤油・酢、農林水産、紡績・製糸、機械工業の産業から数家ずつ選出している。

 

ちなみに、本書の筋からは外れるが、麻生家の家系図が掲載されているので、眺めていたら興味深い事実が分かった。上皇陛下の長女の清子様の結婚相手は東京都職員の黒田慶樹氏であるが、黒田家自体は財閥でも華族でもない家柄だが、慶樹氏の叔父の奥さん(義叔母)は秋月子爵家出身で、義叔母の父の秋月種英子爵の先妻である秋月利武子氏は牧野伯爵の令嬢なのである。その二人の娘の結婚相手は日本医師会会長の武見太郎であり、その子供が衆議院議員の武見敬三である。そして秋月利武子氏の姉妹に雪子がおり、その雪子の結婚相手が吉田茂であり、その子孫に麻生太郎がいる。つまり、血のつながりはないものの、黒田慶樹氏は、義理の叔母の実家の秋月子爵家を通じて麻生家・武見家の遠縁にあたるようである。

 

本書で知ったのだが、財閥という言葉は、甲州財閥について初めて使われたようだ。甲州出身者には東武鉄道の根津家、富士急行の堀内家、阪急電鉄の小林家、松屋百貨店の古屋家など財界の重鎮が数多いことからその名がついた。なお、甲州には若尾家も若尾銀行等を経営し大資産家として君臨していたが、昭和金融恐慌で統廃合されてしまい、若尾家は戦前にすでに没落してしまったそうだ。山梨自体はさほど裕福な土地ではないので、東京に出て立身出世する人が多かったのだろうと推察される。一方で、お隣の静岡の出身者にはそうしたことは聴かない。幕府直轄領で海の幸と山の幸に恵まれた温暖な気候の静岡は競争意識が芽生えないのだろう。なお、本書では取り上げられていないが、静岡には鈴与財閥(現 鈴与グループ)がある。

 

関西でも同じようで、近江出身者は関西で活躍したことから江州財閥と呼ばれるそうだ。伊藤忠・丸紅の創業者の伊藤家がまさにそれである。伊藤忠・丸紅はもとは同じ会社だったが、財閥解体の中で分割されたのである。高島屋の飯田家(名前の由来は高島郡という地名である)も著名である。繊維や織物が強いが、麻の育成に適した土地で、近江商人がそれを京都・大阪に卸していたことから発展したようだ。中京財閥は5つの資産家がおり、伊藤家(松坂屋)、岡谷家(岡谷鋼機)、瀧家(タキヒヨー)、神野家・富田家(名古屋鉄道)の五家で五大財閥と呼ばれるようである。なお、ノリタケやNGK(日本ガイシ)、INAXなどの森村財閥は名古屋の財閥と勘違いされるが、東京の企業である。森村家はいまだに同族支配を続けているが、一方で松坂屋の伊藤家は社内クーデターで追い出されている。

 

九州財閥は、貝島家・麻生家・安川家の名が挙がっているが、いずれも炭鉱から事業を始めた財閥である。麻生財閥はその後、学校事業にも進出し、安川家は安川電機などに事業展開している。貝島家は、石油エネルギーへの転換の中で没落し、1976年には清算を余儀なくされ1社のみが地場中堅企業として存命しているにとどまっているそうだ。麻生財閥は政界に進出し、妹は皇族と結婚するなどなかなか戦略家である。阪神財閥は一般的に十七家が財閥家に上げられるが本書では阪神に根差す5つの家のみの紹介としている。岩井家、嘉納家、辰馬家、岡崎家、川西家である。

 

醤油と酢の事業分野からは、茂木家(キッコーマン)、浜口家(ヤマサ)、正田家(正田醤油分家に日清製粉がある)、中埜家(ミツカン酢)が挙がっている。なお、正田醤油が本家で、その三代目の孫が日清製粉を興し、その家から天皇家に嫁いだのが美智子陛下であるから、美智子陛下のご実家は正田醤油の正田家の分家ということになる。ミツカン酢の中埜家は跡取り問題でニュースになっていたが、創業家の中埜裕子が社長に就任している。

 

農林水産事業では、田辺家、諸戸家、本間家、中部家(マルハ)が挙げられている。本間家は山形の大地主で豪邸が残っている。マルハはニチロと経営統合し、マルハニチロになったが、いまでは商号変更しUmios株式会社と名を変えている。田辺家は島根、諸戸家は三重の山林王である。田辺家は田部長右衛門の名を襲名しており、現当主は25代目で、地元企業の社長等を務めているようで、地元の名士として君臨しているようだ。

 

紡績事業からは、大原家(クラレ)、片倉家(日東紡績)、坂口家(日本レイヨン)が出ている。大原家は倉敷で祖業をレーヨンとしていたので、クラレである。社会貢献に熱心で大原美術館などにその名をみることができる。片倉家は財閥解体で解散してしまった。坂口家は製糸業・銀行等を営んでいたが、戦後、ほとんどの事業は坂口家の手を離れている。しかし、資産管理会社の坂口合名を経営し、地元で一定の影響力を持っているそうだ。


機械工業事業からは、島津家(島津製作所)、中島家(中島飛行機、現スバル、富士重工)、服部家(セイコーとエプソングループ)が登場している。中島家といえば、GHQ指定の十大財閥に数えられて解体を強いられた財閥だが、実際のところ未完の財閥で実態としては三菱・三井・住友・安田等には及ばない財閥だった。しかし、飛行機等を製造していたことで、軍需産業解体の観点から徹底的に解体されてしまったのである。なお、創業者の孫の中島洋次郎は、防衛政務次官も務めた国会議員だったが汚職事件で有罪となり、次男が早世したショックも重なり自死されてしまった。服部家はセイコーの創業家であり、銀座のシンボル的な時計塔で知られる。服部家の豪邸は白金に残っているが、一般公開されていない。大京が500億円強で買収したそうだが、再開発の計画等は聞こえてこない。解体などされないといいなと思うが、固定資産税等や庭の維持管理費の負担も重いようで、どうなることやらである。

 

ダラダラと書いてしまったが、数多くの地方財閥を知れて良かった。名前だけ知っている企業の由来なども勉強になった。菊池氏の本はまだまだあるので、読み進めたい。

 

 

菊池浩之氏の「日本の15大同族企業」を読了。同族企業は明確な定義はないものの、創業家が多数の株を保有し、世襲で経営権を掌握している企業といって差し支えないだろう。ただ創業家の後継ぎが優秀とも限らず、また、会社の成長の中で創業家が力を失い、もはや同族企業とはいえない有名企業も数多い。専門経営者が、脱創業家を掲げて創業家が経営に関わらなくなったケースもあれば、社内クーデターで創業家が締め出されるケースもあれば、創業家とつかず離れずちょうどよい距離感を保っている企業もある。千差万別である。本書は、同族経営という観点から、有名企業の創業家との関わり方についてまとめている。

 

しかし、考えてみれば、民間企業は元国営企業でもない限り、創業者がいるはずであり、ゆえに当初はすべての企業は同族企業だったわけである。それが、相続のために株式売却したり、資本増強の中で持ち株割合が希薄化したり、後継ぎに恵まれずに、徐々に同族企業から非同族企業へとなっていくのが普通なのである。そう考えてみると、創業家が数代にわたって経営権を維持する企業のほうが稀有である。企業は最初は同族であるが、徐々に規模が大きくなると社会の公器となるのだ。

 

トヨタ自動車の場合、持ち株比率は高くないものの豊田家がいまだに影響力を及ぼしているが、それは後継ぎだからと甘やかさずに、難度の高い業務を与え、実力を冷静に評価し、周囲の理解を得つつ社長・会長へと昇格させたからだという。しかし、パナソニックは、松下幸之助の孫がパナソニックに入社した際に、経歴に傷がつかないように難度が低い業務を担当させたために経営の実力がつかず、最終的に副会長にとどまった。

 

大正製薬はいまだに創業家の上原家が大株主に名を連ね、社長を世襲しているが、これは稀なケースなのである。一方、鹿島建設は、創業家の鹿島家が大株主には名を連ねるものの、創業家を役員に据えることには興味がなく、社長は専門経営者が担っている。ブリジストンの石橋家も同様である。

 

出光興産はもともとは「家族主義」を掲げていたが、七代目が専門経営者に社長職を譲り、金融機関等の支持も取り付け株式上場を実現し、脱同族化に成功した。意図的に脱同族をはかった企業もあるが、一方、日本生命保険は跡取りが急死してしまい、専門経営者へ禅譲をせざるを得なくなったようなケースもある。これらはまだ穏便なほうだが、松坂屋にいたっては、社内クーデターのようなかたちで創業家が締め出され、第18代目になるはずだった長男は松坂屋への入社を禁止され三越に入社することとなったそうだ。東急電鉄・西武鉄道は二代目にこそ恵まれたが、三代目への継承を失敗している。

 

本書が書かれたのが、2010年であるが、その後も企業の世襲・創業家のお家騒動は跡が立たない。一番目立ったのは大塚家具だろう。創業家の長女の大塚久美子が父親と経営方針の違いから委任状争奪戦へと発展し、娘が勝利するが経営が悪化。ヤマダHDに買収されてしまった。父親は匠大塚を新たに創業し、事業を展開している。大戸屋のお家騒動も話題を集めた。創業者が死去したが、経営陣が創業者の残された妻と息子を冷遇し相続税の支払いのこともあり、妻と息子は株式をコロワイド社に売却したのだ。結局、大戸屋はコロワイド社に買収され、創業家を冷遇した窪田健一はコロワイドにより解任され、2026年に創業者の長男が大戸屋の社長に就任し、創業家の復権を果たしたのだ。

 

まさに企業にドラマありである。経済環境は変化するので、時代についていけない経営者では会社が倒産してしまう。時機にあった経営者に経営を任せるのが良いのかもしれないが、気が付いたら創業家は締め出されてしまうかもしれない。創業家が世襲してうまくいっている企業もいつまで続くのかは未知数である。創業家にも思いを馳せながら経済ニュースを眺めたい。

 

 

菊地浩之「日本の15大財閥」を読了。「財閥と閨閥」を読んで菊池氏の本にはまっている。

 

 

そもそも財閥という用語は決まった定義がないようであるが、本書では、日本経営史の研究者である森川英正の「富豪の家族・同族の封建的な所有・支配下に成り立つ多角的事業体」がぴったりだという。複数の産業にまたがり企業グループを形成している三菱・三井・住友は財閥として異論なかろうが、パナソニックの松下家、トヨタ自動車の豊田家なども財閥とされることがある。

 

本書で扱う財閥は下記である。通常の15大財閥と異なり、重化学工業の財閥を除き、金融系の財閥を加えてバランスを取ったそうだ。鈴木財閥は、1927年に昭和金融恐慌のあおりを受け、破綻しているが、戦前ではGNPの1割を売り上げる巨大財閥だったので取り上げられている。恐慌や戦争を生き残った財閥も、GHQによる財閥解体などもあり、企業グループは再編されて現在にいたる。現在の企業グループを知るためには、財閥の歴史を知ることも重要である。

  • 三菱財閥・三菱グループ
  • 住友財閥・住友グループ
  • 三井財閥・三井グループ
  • 安田財閥・芙蓉グループ
  • 浅野財閥
  • 大倉財閥
  • 渋沢財閥・一勧グループ
  • 古河財閥・古河グループ
  • 薩州財閥(川崎造船財閥)・川崎グループ
  • 川崎金融財閥
  • 山口財閥・三和グループ
  • 鴻池財閥
  • 野村財閥
  • 旧鈴木財閥
  • 日産コンツェルン・春光(日産・日立)グループ
個人的には意外だったのが、住友というとゴリゴリした営業のイメージだったのだが、住友財閥の15代当主は清華家の徳大寺家出身の高貴な血統であり、住友家は皇胤となっている点である。かつて住友銀行といえば、「逃げの住友」というぐらいだったそうだが、安宅産業が倒産した際にメインバンクの責任の住友銀行は磯田一郎を中心に伊藤忠商事へ吸収合併させて救済したものの、不良債権等のおかげで業績が悪化したため、磯田がラガーマンよろしく「向こう傷を問わない」と、モーレツ営業に舵を切ったそうだ。結果、イトマン事件へとつながっていくのだが、そういった事情もあっての社風の変容のようである。なお、住友の白水会というのは、もとの屋号「泉屋」の泉を上下で分けたことに由来するが、泉としたのは住友に銅と金銀の分離技術を教えてくれたハックスレー氏の名前を、白水と当て字した経緯のようだ。住友のマークの井桁は、コンコンと湧き出る水を象徴している。
 
また、大倉財閥といえば、ホテルオークラでその名前は知られているが、あまりグループにまとまりがない印象だったが、実際、様々な産業に企業を持っていたが、脈絡がなかったようだ。創業者の大倉喜八郎が「初物食い狂」といわれるほど、新しい物好きだったためだそうだ。しかし、後継者の育成やグループをまとめる組織等に関心がなかったため、創業者の死後、グループの整理が行われた。大倉財閥の中核企業の大倉商事は1998年に自己破産しており、大倉グループは崩壊したと考えられているが、創業家は非上場企業(中央建物株式会社)を経営しており、また旧大倉財閥系企業の役員等に就任することで、一定の影響力を持っているようである。
 
一方、金融系の野村財閥は、全くグループとしての一体感は失われているようである。野村家はもともと両替商だったが、証券業をはじめ、緻密な企業調査で信用を得て事業を拡大。昭和の金融恐慌以後、藤田財閥系の企業を買収し、信託・保険分野にも進出。さらに南方事業にも手を出したが、敗戦で南方に持っていた農場などは接収されてしまった。財閥創業者の第二代野村徳七は1945年1月に亡くなってしまい、また、野村銀行は大和銀行に改称するがメインバンクとして中核的にグループをまとめるほどの規模ではなかったため、戦後、野村財閥系の企業はグループとして再結集することはなかったそうだ。なお、創業者の孫の野村文英は、野村殖産社長・野村證券取締役等を歴任したようである。
 
財閥も栄枯盛衰だなと思う。万事順調だったわけではない。昭和恐慌や敗戦からの財閥解体、高度成長期での企業グループ再編等、紆余曲折を経ての現在の企業グループなのだ。ただ脈々と企業の文化・歴史などは続いている。そんな日本企業の背景を知れる良書だった。