聴衆の誕生 - ポスト・モダン時代の音楽文化 (中公文庫)/中央公論新社

クラシック音楽のコンサートに行くと、静寂の中で聴衆が聴き入り、「一体音楽家はなぜこうした作品を作曲したのだろうか」、「こうした曲を生み出した時代的な背景はなんだろうか」、と音楽に向き合う。こうした音楽の聴取の仕方を当然と考えている人は多いかもしれないが、実際はこうした音楽の聴き方は18~19世紀に生まれたものである。バロック~古典派の音楽の時代、音楽家は貴族の雇われ人に過ぎず、貴族のパーティ等のために音楽を書いていて、生真面目に演奏を聴く人ばかりではなかった。ハイドンの交響曲94番は時折大きな音をはさむので「驚愕」と呼ばれるが、これは居眠りした人を起こすためだったともいわれる。こうした聴取の在り方に変化が訪れたのは、近代化によって市民社会が誕生し、様々な人がクラシックコンサートに出かけるようになってからである。娯楽的に音楽を好む人はヴィルトゥオーソ的な演奏家に群がる一方、資本主義経済の確立による市場拡大にって一部の真面目な聴衆をターゲットにしたコンサートも軌道に乗り始める。この時点で、前者の”ポピュラー的な音楽”と、”クラシック音楽”との分離が生じるのである。我々がイメージするクラシック音楽の聴き方は、近代に生じた後者の聴取の仕方なのである。しかし、現在、クラシック音楽も商業化されていき、消費物となっており、聴取の形態こそ真面目でも、クラシック音楽に多くの人が期待しているのはポピュラー性なのではないかと思う - ブーニン現象が良い例である。録音技術の飛躍的向上により、近代に入りコンサートホールで真面目に聴取されてきたクラシック音楽が、日常的に聴かれるようになり、もはやその持つ独特のオウラを失ってしまった。個人の経済活動の拡大により、音楽を1曲まるまる聴取するのは機会費用が高く忌避される。結果、クラシック音楽は最も有名なメロディのみピックアップして演奏されてもあまり違和感がないようになった - クラシック音楽の番組で長大な交響曲の有名な箇所のみ演奏するのもこの例といえよう。こうした潮流の中で、環境音楽や、とりとめのない反復的な音楽ミニマルミュージックが生まれるのは不思議なことではない。著者はこれらにも豊かな音楽文化が花開く可能性があるという。しかし、容姿などを売りにした音楽家の台頭、カタルシス的に消費される音楽、クラシックの商業的利用などをみるに、これを豊かな音楽文化といっていいのだろうかと思う。真面目な聴取というのがもはや過去のスタイルとして廃れていき、19~20世紀に確立したクラシック音楽文化が消滅していくように感じられるが、これは人間社会が構築した貴重な文化の喪失に思えてならない。