東京都杉並区の小林ゆみ区議が「同性愛は個人的趣味」「自治体が時間と予算を使う必要があるのか」などと議会で発言した。これに対し、当事者たちから「趣味の話ではない」などと反発が出ている。-- BuzzFeed Japan 2月21日(日)8時18分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160221-00010000-bfj-pol


同性愛は生来的なものなので、趣味の問題ではない。上記URLに質問全文が載っているが、東京外大を出て銀行勤務しててこの程度の見識なのかと悲しくなる。


この区議はアパート入居や病院での面会で同性愛カップルが断られるという不利はありうるが、それを家族以外にまで広げることは不可能ではないから、自治体が対処すべき問題ではないと主張している。何を言っている意味が分からない。家族以外にまで広げるためには、民間企業だけでは動きづらく、行政の助力が必要であるから、渋谷区などは同性パートーナーの証明書を出したのではなかったのか。また財産に関する問題は、公証人役場で遺言、公正証書を作成すれば、新たな条例などは不要だという。全く議論の前提を理解していないお粗末な主張である。財産に関する問題は、同性パートナーが急死した場合に生じるのである。公正証書を用意していなかった場合に、異性愛のカップルの場合は法定相続分が認められるが、同性愛者の場合は認められないという不平等が存在する。だからこそ、同性婚という法的な保護が必要なのだ。もし、急逝したパートナーが単独で住居を賃借していた場合、残されたパートナーは賃借権の承継が認められず、住む家を追い出される危険性が存在する。区議は「問題は本当に多く発生しているのでしょうか」と、問題が生じていないなら放置すればいいという姿勢だが、予見できる問題であるのに予防し対処しない理由がどこにあるのだろうか。全くもって浅はかな主張である。


不思議な論理なのが、トランスジェンダーの方は、障害だから救済が必要であるが、同性愛は個人的な性的指向だから、自治体は対応しなくてよいという主張である。なぜ障碍でないのであれば自治体は対応しなくていいのだろう。宝塚大学看護学部准教授の日高庸晴氏らによると、同性愛や両性愛の男性の自殺未遂率は、異性愛男性に比べておよそ6倍高いという。法務省も同性愛者への差別的取り扱いを「各人権課題における必要な救済措置」の中で挙げている(*)。同性愛者が社会的に理解されずに、息苦しい生活を強いられているのはこれらのデータからみて明らかであり、障碍であろうとなかろうと、異質なものを排除するという社会的土壌があるのであれば、それは公的な問題であり、行政が対応しなければならない問題であろう。同性愛は障碍でない、個人の趣味だから自治体は対応しなくていいというのは、全く持ってナンセンスである。そもそも同性愛というのは生来的なもので、個人的な趣味の問題ではない。
http://www.moj.go.jp/shingi1/shingi_010525_010525-04.html


またこの区議は、「マジョリティの力よりもマイノリティの力が大きくなり、マジョリティ側を迫害する構図が生まれることも考えられます」と米国の例を持ち出して主張し、マイノリティの増長を危険視している。しかし、日本の現状において同性愛者は異性愛者と同等の権利がない。「やり過ぎ」は問題にしても、現状において日本は同性愛者保護を”やらなさ過ぎ”なのであるから、現段階でこの議論を展開する意味が分からない。アメリカの公民権運動の時代、白人至上主義者は「黒人と言うマイノリティの力が大きくなり、マジョリティである白人を迫害するかもしれないから、黒人の公民権は認めない」といっていただろう。現代においてこれがナンセンスであるように、彼女の主張も十数年後の日本においてナンセンスと思われるようになって欲しいところである。


この区議は次世代の党所属だったようである。次世代の党は保守政党で、国粋主義的で、エスノセントリズム的な主張も多く国政では大惨敗した。自身らの後進的な発言が、日本は人権後進国というイメージを生み出し、日本の国際的な地位を低下させている事実に気が付くべきである。それにしても、この小林議員の東京外大の先輩に武藤貴也衆議院議員(男)がいるが、彼は議員宿舎を未成年の”男性”を買春していた - 彼もブログでかなり右翼なことを書いていた。一度、彼に同性愛について質問したらどうだろうか。

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以前、予告編をみて気になっていた韓国映画を観た。ロッテルダム国際映画祭等でグランプリを得ている作品である。監督ヤン・イクチュンの長編デビュー作である。低予算映画で、大掛かりな仕掛けがあるわけではなく、映像の画質もやや粗い。しかし、手ブレの映像と相まって、リアリティを生み出しており、逆に味がある。


愛情を知らずに育った冷徹な借金取りの男が、同じく荒れた家庭に育った少女との交流の中で、二人は心を通わせていき徐々に心境に変化が現れる・・・しかし、運命は幸福な結末は用意してくれなかった・・・。生々しい暴力シーン、韓国の底辺社会の現実、暴力や貧困の連鎖という社会問題を上手く絡めながらストーリーは進んでいき、全く飽きない。映画を観始めて、主人公の暴力的性格に嫌気がさしたが、彼がそうなった経緯が明らかになるにつれ、徐々に主人公に共感してしまった。どうしようもない中で必死にもがく中で、彼はその言いようもない感情を暴力で表現するしかなかったのである。しかし、暴力が人を気付付けてしまっている現実や、冷徹さは愛情への渇望の裏返しであったことに気が付く。そばにある幸福に手を伸ばし、あと少しのところで届きそうになる。しかし、暴力は知らぬうちに伝染病のように感染していて、彼に過酷なラストを強いるのであった・・・。タイトルが表す通り、映画を観終わって、鬱屈とした気分になり、思わず茫然としてしまった。韓国映画の質の高さを感じさせる映画であった。



本日は渋谷にちょっと用事があったついでに、友達に無料でチケットもらった映画「ブラックスキャンダル」を観てきました。「ヒューマントラストシネマ渋谷」で観たのですが、こちらの映画館は初めての訪問。渋谷駅すぐ近くのお洒落なビルの7~8階にあります。ビルの中とあって画面はやや小さいが、新しいので非常に綺麗。ただ座席がもうちょっとゆったりしてたら良かった。

肝心の映画だが、ジョニー・デップやケヴィン・ベーコン等が出演しており、出演陣が豪華。実話をもとにした話で、FBIとボストンの裏社会のボスとの密約によって生じたスキャンダルである。全体的に重々しく、シリアスな雰囲気が漂う。出演陣の演技力は見事だし、映画の雰囲気も良い。非常に印象的だったのは、ジョニー・デップの迫真の演技力である。FBIの奥さんを問い詰めるシーンがあるが、言葉遣いや語気は柔らかなのに、クレイジーさを感じさせ、とんでもなく怖い。ジョニー・デップは親の離婚や度重なる引越しでストレス過多で自傷行為を繰り返し、子供のころから飲酒・ドラックをして高校も中退という。やはり人と違う経験を積んでいるだけあって、演技の幅が広いし、そこいらの俳優とは演技の迫真性が違う。結婚相手の元彼がニコラス・ケイジで、彼の勧めで俳優デビューしたのだという。ますます彼のファンになってしまった。ただ、映画としては見せ場もなく、全体的に抑揚がなく眠くなってしまった。しかも、FBIの一大スキャンダルというが、ボストンの裏社会の話でスケールがちょっと小さい。あと、本人に似せるためか、ジョニー・デップが不自然なハゲになっているのだが、結局映画の最後まで違和感が拭えなかった。正直、クライム映画が大好きだとか、ジョニー・デップの大ファンという方以外であれば、特にオススメはしない作品。

あとどうでもいいが、映画の後にQFRONT(俗称「シブヤツタヤ」-スクランブル交差点にあるビル)の本屋に寄ったのだがリニューアルが完了し、非常にお洒落になっていて驚いた。特に7階のWIRED TOKYOはかなりハイレベル。渋谷の街が大人テイストの街に徐々に変貌してきているように感じられた。
ユダヤ人と近代美術 (光文社新書)/光文社

近代になりユダヤ人画家の人数が増加する。なぜだろうか。もともとユダヤ教はモーセの十戒によって、偶像をつくることが出来ない。キリスト教のような宗教美術を発達させなかったのは、この十戒によるところが大きい。キリスト教も十戒を踏襲しているはずだが、教会には十字架やマリア像がある。これは偶像にあたりそうだが、カトリックは、偶像崇拝の禁止はそれ自体を信仰対象とすることを禁止していると解釈し、キリスト教会の十字架などは単に神を想起させるためのツールに過ぎないので、偶像崇拝に反しないとしているのである。より実用的な理由としては布教の際に、十字架などがあった方が布教がしやすかったと考えられる。東方正教会はビザンツ帝国時代に、より厳格に聖像は認めないが聖画は容認していた - それゆえ独特なイコン美術が発達した。ユダヤ教はより厳格で聖画作成も認めないので、宗教美術が発達しなかったのである。しかし、啓蒙思想を背景にユダヤ人が市民権を持ち始め、ユダヤ教が世俗化したことが大きい。また、キリスト教に改宗する人も増え、彼らの中から著名なユダヤ人画家が生まれていくことになったのである。そして、啓蒙思想はドイツで「教養主義」を育んだが、これに飛びついたのが、ユダヤ人であった。近代社会では、華麗な血統に代替するものとして人間の理性・知性が尊ばれ、教養を身につけることにより、ユダヤ人は市民となることができると信じたからであった。それに、長く迫害され、財産を奪われてきたユダヤ人にとって、知識は絶対に奪われない財産であった。ユダヤ人は難民ゆえに、キリスト教が禁止していた金貸等の卑賤な職業に就くしかなかったが、近代社会になり金融業などの重要性が増す中で、経済的に豊かなユダヤ人が出ていた。そうした経済的なユダヤ人は教養を重視し、美術への支援も惜しまなかったため、パトロンとしてユダヤ人は美術の発達を支援したのである。


しかし、作者は美術の中にユダヤ性を見いだせるかと言えば”NO”だという。イスラエル建国以前のユダヤ人の美術作品に何らかの統一性と一貫性を見出そうとしても、各国の美術史との重なり合いは不可避である。日本美術史が万博において海外にみせるために編纂されたように、美術史の作者は”国家”であり、国家建国前にユダヤの美術史は存在しないのである。


それにしても、本書で興味深かったのは、シャガールの海外のイディッシュ語による分析である。シャガールはイディッシュ語を話したが、イディッシュ語とは東欧ユダヤ人で話されていた言語である。ナチスによる大殺戮によって話者が激減してしまった。シャガールの絵に7本指の画家を描いた絵があるが、これまでは単にファンタジーと考えられてきた。しかし、イディッシュ語では「7つものものすべて使って」とは「心をこめて何かを行う」の意味があり、7本の指の画家は、全身全霊をかけて絵を描いていると解釈できるという。


ユダヤ人といえば、ナチスによる迫害を連想する人も多いだろう。先に述べたように、近代に入って力をつけたユダヤ人は芸術家の大きなパトロンであった - 映画「黄金のアデーレ 名画の帰還」のブロッフ=バウアー家もその例である。「黄金のアデーレ」は事なきを得たが、クリムトのコレクターだったレーデラー家のコレクションの多くは、没収後に、ナチスが管理する城に保管されていたが、大戦末期にナチスが城に火を放ったせいで、灰になってしまったと言われている。もともとナチスは、クリムトのような近代絵画は、劣った脳が生み出す退廃芸術だと批判していた。ヒトラーはウィーンの美術学校を落ちたが、これは近代絵画の素養がなかったためとも言われており、近代絵画を敵視していたのである。ヒトラーがユダヤ人を迫害し、近代美術を弾圧したせいで、多くのユダヤ人や美術品は海を渡り米国に行きつくのである。


本屋でみかけて衝動買いしてしまった本であるが、非常に濃密な一冊である。写真もついており見やすい。時折ヘブライ語をも引用しながらの解説は説得力がある。ユダヤ人の美術界における歴史の一面を見事に切り取っている。極めて貴重な一冊だと思われる。



ハーマン・メルヴィルの著書「白鯨」。その小説が生まれた経緯に迫る、N.フィルブリックのノンフィクション「復讐する海 捕鯨船エセックス号の悲劇」をベースにした映画。19世紀、鯨油を入手するために米国マサチューセッツ州を出発した船。大量の鯨油を積んで帰るがはずが、巨大な鯨に襲われ船は沈没。その後、小さなボートでの壮絶な遭難が始まる・・・。映画も、遭難中のショッキングな箇所を描いてはいるが、実際は映画で描く以上に精神状態は錯乱していただろうと思われる。

映画関連の仕事に就いている友達から無料でチケットを貰ったので、この前観てきた。正直、あまり興味なかったのだが、なかなかの良作。捕鯨のシーンは見応えがある。捕鯨というとシーシェパード等が日本を批判しているのを思い出すかもしれないが、米国も鯨油を目当てに捕鯨を盛んにやっていた。昔は鯨からとれる油が貴重品だったのである。もともとペリーが黒船で日本にきて開国を迫ったのは、捕鯨船への燃料・水・食料の補給が目当てだった。もう一度観たいという作品ではないが、一見の価値はある作品。