芸術というと、「芸術は魂の叫びだ!」「命を削って描いた傑作!」みたいな情熱的な発想を持つ人もいるが(こうしたグループが佐村河内守みたいな偽物にひっかかる(LINK))、これはロマン派の創り出した幻影である。ルネッサンス期は、近代的な自立した芸術家など存在せず、宗教画を描く画家や彫刻家もほとんど土木工事の施工業者のような扱いで、ミケランジェロも腕の良い施工業者のような扱いだった。音楽家も同じでただの貴族のただの使用人。ハイドンでさえドイツ貴族のエステルハージ家からお払い箱になり、イギリスに出稼ぎに出ていたありさまだ。しかし、貴族社会が崩壊し、中産階級が拡大する中で、新たなマーケットが創出され、そこでパトロンから自立し、マーケットで自己の作品を売って生計を立てる現代的な芸術家が誕生したのだ。

 

「芸術」というと崇高に聞こえるが、経済活動とはなかなか切り離すことが難しい。もちろん、趣味で描いて飾っている絵は、売りに出さなければ値段はつかないから、美術活動と経済活動が一蓮托生というわけではない。それに日本では浮世絵版画は出版物で、いまだと割れ物を包むときに新聞紙を使用したりするが、それと同じ感覚で日本の陶磁器を輸出する際に浮世絵版画を詰めて輸出したら欧州で浮世絵が見いだされ、ブームになったというのは有名な話だ。日本では最近住宅事情の変化もあり、屏風・襖絵などは日本では買い手がつかずに大半は欧米人が購入しているという。美術の(経済的な)価値というのも日本市場と、海外市場では異なってくる。

 

それにしても日本は美術館大国といってよく、1500~2000の美術館があるという。アジア諸国でみても、西洋絵画をこれだけ豊富に取り揃えている国は日本ぐらいだろう。美術館の増加は、高度成長期にハコモノ行政で増加し、バブル経済においてはジャパンマネーが美術市場を席巻したという。本書では指摘していないが、日本で美術館が多いのはやはり日本の文化水準の高さの反映でもあると思う。茶道・華道・香道など様々な所作にすら美意識を見出し昇華してきた日本の精神性が、西洋美術の価値を見出すのはたやすかったのだろうと思われ、そうした社会的土壌があってこその美術館大国なのだと思う。

 

一方で本書で興味深いのが贋作の問題である。本物と思われていたものが、贋作と分かれば数億円の価値が一気に二束三文になったりする。逆に著名画家の作品とあらたに分かれば価格が跳ね上がる。新たにダヴィンチ作と判定された「サルバトール・ムンディ」は500億円を超える値がついたりする。贋作師だとメーヘレンが有名で、フェルメールの贋作を作成し、著名な美術鑑定士をも騙した。彼は告白する気はなかったが、フェルメールの作品をナチスドイツに売ったことで戦後に逮捕され、その際に贋作だったと告白したそうだ。しかし、あまりにも精巧な贋作だったため最初は彼の告白を誰も信じなかったが、公開の場でフェルメール風の新作を書いてみせて贋作だと立証したという。逆にナチスドイツを欺いたことで一躍英雄視されたという。

 

それにしても贋作ではなくとも、最近の複製技術は高い。美術品の価値ってどこにあるのだろう?1936年にすでにベンヤミンが指摘するように「アウラ」に求めるしかないのだろう。一回性によって担保されていた礼拝的価値のある絵画は、複製・反復可能性によってそのアウラが凋落し、展示価値に転換されたのだ。本物が価値を見出すのは「アウラ」を持っているからであり、複製物はたしかに展示価値はあるがアウラがないのだ。オリジナルと複製物の違いは、複製物には代替可能性があることだ。本物はその一点性に価値があるのである。自動演奏ピアノが発明されたときに、「生のコンサートは無くなる」と予想した人がいたそうだが、じ実際はそうなっておらず、その人は、そのときのコンサート会場における生の演奏でしか生じえない一回性のアウラを見落としているのだ。たしかに再現演奏にはその生演奏のアウラの派生関数としての価値はあるが、質的に同一ではない。

 

本書は美術にまつわる経済活動について書かれた本であるが、筆者は東大卒で、経済誌の美術・音楽部門の編集長から美術大教授になったゆえ、博識で興味深い一冊に仕上がっている。美術の流通の話等、美術のお金に関するあれこれがコンパクトにまとまっており、とても読みやすく面白かった。

 

 

代々木ゼミナールの世界史講師から著作業に転業した宇山氏の本である。宗教という切り口から世界史を読み解く一冊だ。日本人は宗教に疎く、神社と寺の違いが分かる人もあまりいないだろう。これは戦後に日本国の神話や神道などの教育を排除したため、日本古来の神道と外来の仏教を知る機会が乏しいためだ。また、オウム真理教のような新興のカルト宗教の事件もあり、宗教というと悪いイメージが付きまとう。これは激しい学生運動で、政治に関わることがネガティブに捉えられるのと根源は同じだ。もちろん、「神仏習合」のように宗教の習合を図ったことが、宗教観の複雑化を招いた影響しているが、一方で、京都の寺巡りや御朱印集めが流行っているし、クリスマスにはキリストの生誕を祝い、その直後の新年の三箇日には神社が大混雑だから、日本人の宗教観とは誠に不思議なものだ。

 

世界的、歴史的にみて宗教は歴史を動かし、社会を構成する重要な要素だったことは否めないし、現在でも欧米や中東では宗教の影響力は絶大である。なぜ宗教がここまでの影響力があるのかは諸説あるが、進化心理学的にみれば、宗教が描き出す神話が部族の統合に必要不可欠だったというのは説得力がある説だ。死んだらあの世で報われるという宗教観は、生物的な死への恐怖を超克し、強大な戦闘員を造りだし、神話的に統合された部族は結束力が強い。そうした宗教観を持たない死を恐れる部族は淘汰され、結果的にそうした宗教観を持つ部族が生き残ることで宗教が重要な要素を担うようになったともいえる。

 

部族集団がより巨大化し、社会が拡大しても宗教は生き残ったが、なぜなら衛生環境が悪かった時代は平均余命はいまよりずっと短く、人々の死への恐怖は並々ならず、それを緩和し社会を平穏に保つのに宗教が一翼を担ったのだ。現代社会において宗教は弱体化しつつあるが、それでも宗教は一定の影響力を持つのは、平和で長寿になると今度は生きる意味を人間は探すためだ。宗教は生きる意味を与えてくれるのだ。不安な世の中であれば宗教は人々に平安を与え、平和な世の中であれば宗教は人々に生きる意義を与える。この点で、宗教が今後も消滅することはないと思う。これは人間が完全無欠の存在ではなく、脳の機能には限界があるためだ。この限界を無機質な科学的な生物学に求めるのが、神の意思に求めるのかは人によるが、前者的な唯物論に立った共産主義(ソ連等)は悲惨な末路になった。だから、信仰心が重要という気はないが、歴史的な風雪に耐えた宗教の存在性にはそれなりの説得力がある。

 

長々書いたが、上記は本書の射程外である笑。本書は、各知識の宗教事情を歴史的背景をもとに記述しており、世界史を宗教という切り口で分析するという点では良書である。政治・経済的視点からの記述には嫌悪感を持つ人もいなくはないだろうが、宗教と政治・経済問題は切っても切り離せない問題だ。世界史を突き動かしてきた「宗教」についてわかりやすく解説した一冊としてオススメだ。

 

 

経済評論家の渡邉哲也の最新刊である。2021年に待ち構える日本や世界経済の57のリスクについてまとめている。正直、こういう予測系の本はあまりあてにはならないが、こういう見立てもあるんだなという視座の学習や情報のまとめとしては利用価値がある。本書の著者は、2019年にも同様の本を出しており、そのときコロナだとかインバウンド需要の減少などもカバーして予測していたと書いているが、前書ではリスクを48個も挙げているのだからかすらないほうが不思議なぐらいだ。毎年、今年こそ経済危機が起こると予言している紫色の同志社大の教授と変わらない。

 

とはいえ、渡邉哲也氏のyoutubeの動画をみればわかるが、解説は非常に常識的で分かりやすい(逆に言うと新奇的な視点はあまりない)。本書も各トピックがコンパクトにまとまっており、ざっと情報を整理するには良いと思う。大予測とは銘打っているが、報道レベルでも読める今後の世界経済・日本経済の常識的なリスクを丁寧に列挙しており、一読しておいて損はないだろう。

 

個人的には米中対立、日韓問題、コロナ対応の長期化による日本の社会経済への動向等が気になる。米中対立がどうなるかは未知数だろう。筆者は、米中の軍事衝突もあり得るとするが、確率はかなり低い。ただ米国の台湾重視は加速するだろうし、日本のファイブ・アイズ加盟に加えて、台湾加盟でセブンアイズとなる可能性もある。インドがどっちつかずだが、中国包囲網は徐々に形成されつつある。本書だけではないが、中国経済がいよいよ崩壊という予測は前々からあるが、いかんせん不確定の変数が多過ぎるし、国家が経済統制しているので崩壊すら隠蔽されるのではないかと思う。

 

日韓問題は、文政権が譲歩しないため、おそらく現金化からの日本の経済制裁の確率もそれなりにあると思われる。一方で、韓国は国内経済がかなり疲弊しており、半導体ビジネスの他、鉄鋼・家電等でも中国にかなり猛追されているので数年以内に取って代わられるだろう。そうなると対日外交は強硬にはなりえず、擦り寄ってくる可能性が高い。ただ情緒が支配する国なので何をしでかすかわからないので、丁寧な無視を続けるしかないだろう。なにより韓国は出生率が今年は0.9人を割る勢いなので、勝手に国力はシュリンクしていく。

 

日本は外圧がないと変化できないといわれることもあるが、コロナが強い外圧になった。在宅勤務が進み、無意味なハンコ主義を考え直すきっかけとなったことは非常に良いことだと思う。観光業界、航空業界、アパレル業界は大打撃を受けており、今後、かなり業界は再編を迫られるだろう。ただコロナが沈静化すれば、息を吹き返すから落ち目のいまこそ投資しておくのがいいかもしれない(そのまま倒産して株券が紙くずになるリスクはあるものの)。ただ一概に言えるのは、ITや通信系業界は堅調に成長するだろう。それにあわせてIT系の人材の育成にも目が行くといいと思う。日本はいかんせんITエンジニアが少なすぎるし、データアナリストの育成はもはや途上国レベルである。オンライン化が進めば情報のグローバル化は進むから、共通言語として英語の比重はますます高まるかもしれない。

 

つらつらと書いたが、正直、どうなるかは誰にもわからない。リスクとは計算可能だが、不確実性は計算不可能だ。それなのになぜ人間は予測したがるのだろう?それは生存確率を上げるためだ。アマゾンでホモサピエンスが生活していた時は、危険を予測しなければ猛獣に食われてしまっていた。だから、僅かな痕跡や様々な要素からリスクを分析し、回避し、生存確率をあげようとするのだ。よくネットで情報が得られる時代になったというし、その通りだが、無料の情報よりやはり有料の情報のほうが価値がある。本を読まない人が増えたが、積極的に情報はお金を払ってでも摂取していくのがいいと思う。

 

 

なぜ豊臣秀吉は明王朝の征服を主張し、その一歩として朝鮮出兵をしたのだろうか?耄碌した秀吉の誇大妄想などというような評価をされてきたが、本書の著者は違うという。筆者の描く朝鮮出兵の図式はこうである。スペインやポルトガルの植民地化する際に、まずキリスト教を布教していたが、日本にも宣教師が布教にやってきいた。豊臣はこれが侵略行為の一環であることは承知しており、当時スペイン植民地であるフィリピンの総督に対して、「お前たちがフィリピンを征服したのは知っている。日本も征服しようとしていることに激怒している」という趣旨の書簡を送りつけ、さらには「予の言を軽視すべからず」と恫喝したうえ、服属要求まで突き付けている。つまり、スペイン・ポルトガルが世界を二分割し覇を争っていたが、日本はそれに反抗するため、朝鮮出兵を行い軍事力を見せつけたのである。

 

フィリピンの征服についても豊臣は言及しているが、日本からフィリピンまでは2週間の船旅であり、朝鮮半島は30万の大軍であっという間に討伐しているから、現実的にフィリピン征服は現実的にあり得たわけである。フィリピン総督は恐れおののいて救援を求めていたことが資料からわかっている。豊臣は中国を超えてインドまでの征服を唱えていたが、これはポルトガル領インドを征服するぞという脅迫だったという。スペイン・ポルトガルの軍事的に日本を征服するという野望は、まざまざと見せつけられた日本の強大な軍事力の前に消沈したのだった。

 

実際、当時の日本の推定人口は2200万人であり、ドイツ・イタリアが各1200万人、フランス1050万人、スペイン850万人であり、日本は欧州諸国より巨大な国であった(LINK)。スペインの宣教師の書簡等に、日本は食料豊かで都市が多く、どこも人口が多いと書き記されている。家康が隠居していた駿府城については壮麗さと豪華さで世界でも指折りと讃えられており、こうした日本各地の城の堅牢さも日本征服の困難さとして認識されたのだった。

 

さらに興味深いことに、スペイン側の書簡では自国について「国」「王」と呼称しているが、日本の場合は格上の「帝国」「皇帝」と記されていることから、当時世界最強国のスペイン側からみて、日本は相当に強大な軍事国家であったことが分かる(欧州にあった帝国は神聖ローマ帝国のみであり、それに匹敵するとみられていたことを意味する)。著者は当時の書簡を丁寧に分析したことで、豊臣秀吉の朝鮮出兵は、侵略をもくろむスペイン・ポルトガルの牽制であったと結論付けている。なお、本書では書いていないが、朝鮮出兵でキリスト教大名に朝鮮出兵させているのは力をそぐためだろう。

 

こうしたスペイン人の宣教師の観方の一方、日本は小国意識が強い。これについて筆者は中国の中華思想・華夷秩序の反映だという。中国文明の下に位置するという意識が、小国意識につながっており、これが卑屈な日本史観につながっているという。実際のところ冷静にみれば、前述のように中世でも日本は欧州諸国より人口で優っており、現在でも欧州随一の強大国のドイツより国土面積・経済力・人口規模において上であり、一人当たりGDPが3万ドルを超え人口1憶を超える国は、世界広しといえども米国と日本しかない。軍事力ランキングでも日本は世界6位の強国である。

 

戦国時代は不毛な群雄割拠の時代ともみられるが、競争が著しい戦国時代ゆえに軍事力が強化され、欧州大国すらも恐れおののく軍事大国になり、それによって植民地化を免れたのである。豊臣後の江戸幕府における禁教政策・貿易管理等も侵略への警戒感から行われたものであり、徳川の外国嫌いという見方はナンセンスである。実際、徳川は布教を主張するスペイン・ポルトガルと、通商のみ求めるオランダを天秤にかけて、後者を選んだのは必然である。伊達政宗は「慶長遣欧使節」を派遣しているが、これは通称で後れをとる東北においてメキシコルートでスペインと交易し経済復興を企図したものだという。

 

非常に興味深い一冊だった。キリスト教を布教した後にその国を征服するというスペイン・ポルトガルの植民地化政策など当時の国際情勢を踏まえつつ、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗の対欧州外交を分析し、「東アジア史の中の日本史」という地理的に制約された歴史観から日本史を解放し、「世界史の中の日本史」に再検討している点が非常に興味深い。戦国時代の日本の軍事的な強大さを明らかにし、戦国時代で鍛え抜かれた武将達が日本を守った外交戦略をあぶりだしている。ぜひ広く読んでほしい一冊だ。日本の歴史教育は不毛な暗記合戦の様相を呈しているが、こうした歴史を動かしてきた戦略や野望を知るといっきに歴史は面白くなる。

 

 

映画「鬼滅の刃 無限列車編」が大ヒットということで、アニメを第3話で挫折した当方も、同僚の勧めもあって観にいってきた。正直、途中まではよくある展開にあきていたが、本映画である準主人の煉獄の死にざまがあまりにあっぱれで気に入ってしまった。これは新渡戸稲造の「武士道」に通じるところがある。映画鑑賞後に、アニメ化された話と、それ以後の話を漫画で読んだが、三連休を使ってすべて読破した。非常に面白かった。そして映画に出てきた鬼である猗窩座の過去や死にざまをみてまた涙。

 

 

「鬼滅の刃」は、大正時代がベースなのも良い。明治時代の西洋化と、昭和の軍国主義化の狭間の民本主義・大正ロマンが流行った時代。洋と和が混在し、現代人からみるとどこかノスタルジーと異国情緒すら感じさせる。農村の風景はまるで江戸時代だが、都会の近代的な雰囲気は西洋化にいそしんでいた日本を忍ばせる。

 

「鬼滅の刃」を特徴づけるのは「鬼」であるが、興味深いのは、悪辣な「鬼」が、死に際に走馬灯として人間の記憶が蘇る点だ。絶対的悪だと思っていた鬼にも人間であったときがあり、様々な葛藤や苦悩を抱えて鬼になったのだ。そんな死にゆく鬼に主人公の炭治郎は祈りすら捧げる。キリスト教的な価値観だと絶対善の神と絶対悪の悪魔の二元論的発想であるが、仏教では違う。仏教では悪人こそが阿弥陀仏の救済の対象だとする親鸞の「悪人正機説」もあるように、悪人ですら仏になれどころか、悪人こそが救済の対象なのだ(皆、生きている以上は何らかの罪を犯す。自己の罪に気が付いて悔いる人こそが、気が付かないでのうのうと生きる人々より救済すべき人であるという考え。)。善なのか悪なのかの不明瞭性、悪であっても死者を鎮魂する日本の死生観がよく反映されており、とても興味深い。

 

「鬼殺隊」の最高位の9人を「柱」というが、これも興味深い。神様を数える時の助詞詩は、「柱」である。家を支える柱を「大黒柱」というように、重要な役割を意味する単語である。神様への生贄を「人柱」ともいったりした。こうした階級名にも日本文化が反映されており、なかなか手が込んでいると思った。

 

「鬼滅の刃」は台湾でも記録的大ヒットを遂げているらしいが、タイ等でも相当な人気らしい。やはり日本のソフトパワーは強力だ。これがきっかけに、短い時代だったが大正時代にスポットライトが当たっても面白いと思う。「鬼滅の刃」の世界的な大ヒットは、文化大国である日本の本領発揮というところだろう。騙されたと思って、基礎知識だけつけて映画を観てみても楽しめると思う。