映画「鬼滅の刃 無限列車編」が大ヒットということで、アニメを第3話で挫折した当方も、同僚の勧めもあって観にいってきた。正直、途中まではよくある展開にあきていたが、本映画である準主人の煉獄の死にざまがあまりにあっぱれで気に入ってしまった。これは新渡戸稲造の「武士道」に通じるところがある。映画鑑賞後に、アニメ化された話と、それ以後の話を漫画で読んだが、三連休を使ってすべて読破した。非常に面白かった。そして映画に出てきた鬼である猗窩座の過去や死にざまをみてまた涙。

 

 

「鬼滅の刃」は、大正時代がベースなのも良い。明治時代の西洋化と、昭和の軍国主義化の狭間の民本主義・大正ロマンが流行った時代。洋と和が混在し、現代人からみるとどこかノスタルジーと異国情緒すら感じさせる。農村の風景はまるで江戸時代だが、都会の近代的な雰囲気は西洋化にいそしんでいた日本を忍ばせる。

 

「鬼滅の刃」を特徴づけるのは「鬼」であるが、興味深いのは、悪辣な「鬼」が、死に際に走馬灯として人間の記憶が蘇る点だ。絶対的悪だと思っていた鬼にも人間であったときがあり、様々な葛藤や苦悩を抱えて鬼になったのだ。そんな死にゆく鬼に主人公の炭治郎は祈りすら捧げる。キリスト教的な価値観だと絶対善の神と絶対悪の悪魔の二元論的発想であるが、仏教では違う。仏教では悪人こそが阿弥陀仏の救済の対象だとする親鸞の「悪人正機説」もあるように、悪人ですら仏になれどころか、悪人こそが救済の対象なのだ(皆、生きている以上は何らかの罪を犯す。自己の罪に気が付いて悔いる人こそが、気が付かないでのうのうと生きる人々より救済すべき人であるという考え。)。善なのか悪なのかの不明瞭性、悪であっても死者を鎮魂する日本の死生観がよく反映されており、とても興味深い。

 

「鬼殺隊」の最高位の9人を「柱」というが、これも興味深い。神様を数える時の助詞詩は、「柱」である。家を支える柱を「大黒柱」というように、重要な役割を意味する単語である。神様への生贄を「人柱」ともいったりした。こうした階級名にも日本文化が反映されており、なかなか手が込んでいると思った。

 

「鬼滅の刃」は台湾でも記録的大ヒットを遂げているらしいが、タイ等でも相当な人気らしい。やはり日本のソフトパワーは強力だ。これがきっかけに、短い時代だったが大正時代にスポットライトが当たっても面白いと思う。「鬼滅の刃」の世界的な大ヒットは、文化大国である日本の本領発揮というところだろう。騙されたと思って、基礎知識だけつけて映画を観てみても楽しめると思う。