なぜ豊臣秀吉は明王朝の征服を主張し、その一歩として朝鮮出兵をしたのだろうか?耄碌した秀吉の誇大妄想などというような評価をされてきたが、本書の著者は違うという。筆者の描く朝鮮出兵の図式はこうである。スペインやポルトガルの植民地化する際に、まずキリスト教を布教していたが、日本にも宣教師が布教にやってきいた。豊臣はこれが侵略行為の一環であることは承知しており、当時スペイン植民地であるフィリピンの総督に対して、「お前たちがフィリピンを征服したのは知っている。日本も征服しようとしていることに激怒している」という趣旨の書簡を送りつけ、さらには「予の言を軽視すべからず」と恫喝したうえ、服属要求まで突き付けている。つまり、スペイン・ポルトガルが世界を二分割し覇を争っていたが、日本はそれに反抗するため、朝鮮出兵を行い軍事力を見せつけたのである。

 

フィリピンの征服についても豊臣は言及しているが、日本からフィリピンまでは2週間の船旅であり、朝鮮半島は30万の大軍であっという間に討伐しているから、現実的にフィリピン征服は現実的にあり得たわけである。フィリピン総督は恐れおののいて救援を求めていたことが資料からわかっている。豊臣は中国を超えてインドまでの征服を唱えていたが、これはポルトガル領インドを征服するぞという脅迫だったという。スペイン・ポルトガルの軍事的に日本を征服するという野望は、まざまざと見せつけられた日本の強大な軍事力の前に消沈したのだった。

 

実際、当時の日本の推定人口は2200万人であり、ドイツ・イタリアが各1200万人、フランス1050万人、スペイン850万人であり、日本は欧州諸国より巨大な国であった(LINK)。スペインの宣教師の書簡等に、日本は食料豊かで都市が多く、どこも人口が多いと書き記されている。家康が隠居していた駿府城については壮麗さと豪華さで世界でも指折りと讃えられており、こうした日本各地の城の堅牢さも日本征服の困難さとして認識されたのだった。

 

さらに興味深いことに、スペイン側の書簡では自国について「国」「王」と呼称しているが、日本の場合は格上の「帝国」「皇帝」と記されていることから、当時世界最強国のスペイン側からみて、日本は相当に強大な軍事国家であったことが分かる(欧州にあった帝国は神聖ローマ帝国のみであり、それに匹敵するとみられていたことを意味する)。著者は当時の書簡を丁寧に分析したことで、豊臣秀吉の朝鮮出兵は、侵略をもくろむスペイン・ポルトガルの牽制であったと結論付けている。なお、本書では書いていないが、朝鮮出兵でキリスト教大名に朝鮮出兵させているのは力をそぐためだろう。

 

こうしたスペイン人の宣教師の観方の一方、日本は小国意識が強い。これについて筆者は中国の中華思想・華夷秩序の反映だという。中国文明の下に位置するという意識が、小国意識につながっており、これが卑屈な日本史観につながっているという。実際のところ冷静にみれば、前述のように中世でも日本は欧州諸国より人口で優っており、現在でも欧州随一の強大国のドイツより国土面積・経済力・人口規模において上であり、一人当たりGDPが3万ドルを超え人口1憶を超える国は、世界広しといえども米国と日本しかない。軍事力ランキングでも日本は世界6位の強国である。

 

戦国時代は不毛な群雄割拠の時代ともみられるが、競争が著しい戦国時代ゆえに軍事力が強化され、欧州大国すらも恐れおののく軍事大国になり、それによって植民地化を免れたのである。豊臣後の江戸幕府における禁教政策・貿易管理等も侵略への警戒感から行われたものであり、徳川の外国嫌いという見方はナンセンスである。実際、徳川は布教を主張するスペイン・ポルトガルと、通商のみ求めるオランダを天秤にかけて、後者を選んだのは必然である。伊達政宗は「慶長遣欧使節」を派遣しているが、これは通称で後れをとる東北においてメキシコルートでスペインと交易し経済復興を企図したものだという。

 

非常に興味深い一冊だった。キリスト教を布教した後にその国を征服するというスペイン・ポルトガルの植民地化政策など当時の国際情勢を踏まえつつ、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗の対欧州外交を分析し、「東アジア史の中の日本史」という地理的に制約された歴史観から日本史を解放し、「世界史の中の日本史」に再検討している点が非常に興味深い。戦国時代の日本の軍事的な強大さを明らかにし、戦国時代で鍛え抜かれた武将達が日本を守った外交戦略をあぶりだしている。ぜひ広く読んでほしい一冊だ。日本の歴史教育は不毛な暗記合戦の様相を呈しているが、こうした歴史を動かしてきた戦略や野望を知るといっきに歴史は面白くなる。