故 山田登世子の「ブランドの世紀」を読了。女史の本は、過去にいくつか読んだ(LINK1、LINK2)が、中古本で手に入ったので読んでみた2000年の本だから結構最近だと思ったが、もう20年前だと思うと、時が経つのは早い。
ファッションといっても既製品業界(プレタポルテ)と、オートクチュール(オーダーによって)では訳が違う。ファッションはパリが本場だが、フランスは絶対王政下において貴族社会が成立し、貴族はオートクチュールで仕立てた服で着飾っていた。しかし、中産階級の勃興により市場が拡大することで、既製品業界(プレタポルテ)が誕生したのだ。フランスのハイブランドのメゾンは、オートクチュールに端を発している。ただオートクチュールの顧客は大半は王侯貴族だが、彼ら相手のデュミモンデーヌ(超高級娼婦。オペラ「椿姫」もデュミモンデーヌが主人公。)も顧客にいたらしく、昔から水商売の上澄みは豊かだ。
産業革命を迎えて鉄道が整備されると、快適とは言えない都会の生活を嫌って、リゾート地へ富裕層達は向かうようになる。そこで旅行用の木箱の需要が高まるが、そこで名木箱としてもてはやされたのがルイ・ヴィトンである。しかし、模倣品に悩まされたヴィトンは、真似されにくいモノグラムなどの生地で木箱を覆った。これがヴィトンのモノグラムやダミエデザインの走りである。デザインのインスピレーションは、創業者がパリ万博で見かけた日本の家紋という説があるからヴィトンのモノグラムにはジャポニスムの残滓をみることができる。
また、産業革命以降しばらくして車が普及し始める。そうすると不要となるのが馬車である。馬車のマークといえば、真っ先に「エルメス」が思い浮かぶだろう。エルメスはもともと馬具をつくっていた工房である。当然、馬車で移動する貴族向けである。しかし、車の普及で馬具への需要減退で、リゾートブームにあやかってリゾート関連グッズを製造するようになる。その後、さらにアメリカが台頭すると、貴族無きアメリカの市場において貴族性を売りに高価格帯バッグを販売していく。エルメスは巨大資本の買収にも抵抗してきた伝統のメゾンだが、戦略をみると市場の動きになかなかめざとい。
中産階級というマーケットが広がると同時に、経済大国にのし上がったのがアメリカである。アメリカで有名なファッション雑誌は「ヴォーグ」である。同誌は、フランスの貴族的な生活をベースに幻影を流布し、人気雑誌となる。フランスでは階級社会があるが、アメリカでは階級が厳格には存在しないので、貴族的な生活は大衆を魅了することに成功する(日本や中国も同じくである)。また、戦後、欧州では再びエレガントで女性的なラインを活かしたクリスチャン・ディオールのようなデザインがもてはやされ、もはや時代遅れとされたのがシャネルだったが、シャネルは米国では喝采で迎えられた。シャネルのゆったりとした動きやすい服装が当時の米国のウーマンリブの潮流の中で受け入れられたのだ。メイド・イン・パリという貴族的な響きも、貴族無き米国社会では女性を幻惑させた。モンローは「寝るときはシャネルの5番を数滴だけ」(シャネルの5番は香水のこと)とセクシーな言葉を残しているが、シャネルにはそれぐらいの幻惑的効果があり、米国の大衆を魅了したのである。それをこれまた巨大化したメディアが拡散した。日本でも「パリ症候群」というほどにパリの持つ魔力は強大だが、アメリカでも同じだったのである。
日本のファッションや裁縫のレベルは世界的にみてかなり高いが、いかんせん日本ブランドは世界市場では欧州ハイブランドほどの強さはない(強いてあげればコムデギャルソンぐらいだろうか)。もともと和服にはロゴやデザイナー名を入れる商習慣はない。デザイナー名を入れるのはどこまでいっても欧州のメゾンの伝統なのである。戦略的につくられた日本や米国のブランドのロゴ等が、欧州のハイブランドの程の訴求力や説得力を持たないのは、それを下支えする伝統がないからだ。
ヴィトン・エルメスに限らずハイブランドの権威の行きつく先は貴族である。英国では「王室御用達」がロイヤルワラントであり、エッティンガーやバーバリーが認定されていおり、王制が廃止されたイタリアにおいても例えばプラダがもともとは「王室御用達」だった。一方で、日本も「皇室御用達」という場合もあるが、これは公認ではなく、勝手に業者言っているだけだ。日本は総中流といわれるが、江戸時代は身分社会であり、明治から戦前までは華族制度があり、上流階級が公然と存在していた。GHQが財閥を解体し、華族制度を廃止し、莫大な財産税をかけて上流階級を潰し、また一部皇族も皇籍離脱させて皇室を縮減したことで、日本は上流階級を失ったのである。その後、高度成長期に経済学急成長する中で、中産階級が躍進し、「総中流社会」が到来した。階級を忘れた中産階級は、高度成長期にあって豊かな欧米文化にかぶれてハイブランドに飛びついた。米国と同じ現象で、階級社会がないゆえに、メディアの映し出す幻想を、自己に投影できたのだ。日本ではエルメス・ヴィトン・グッチなどのハイブランドを庶民が購入し、”ブランドイメージを消費する”不思議なマーケットが誕生したのだった。
ただコロナでウェブレンの指摘する「顕示的消費」は減衰するだろう。室内で暮らすのにハイブランドは必要はない。今後、消費はよりパーソナルなものになるだろう。貴族社会が終焉し、大衆社会の成立した20世紀はまさにブランドの世紀だった。21世紀はコロナにより在宅勤務が一般化し、ブランドの世紀は終わるかもしれない。いや、ラグジュアリーブランドのみが持つ特有のアウラは形を変えて社会と時代の大河をゆらゆらと流れていくだろう。行方は誰も予測できない。

